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かなりや

子供の頃から、「いまの私ではない何か」になる練習をたくさん積んできました。

それで、大人になったときには、すっかり<わたし>のことを忘れてしまいました。


産まれたばかりの頃は、世界は全部<わたし>のものでした。

見えている世界全部が<わたし>でした。

<わたし>は祝福されており、ただいるだけで周りの人たちを幸せにすることができました。

<わたし>はみんなから無条件に愛されていました。

<わたし>は全くもってそのような存在で、そうでない可能性は微塵もありませんでした。

なぜなら、「無条件の愛」しか知らなかったからです。

<わたし>は世界の中で安心していました。

けれども、それは、そう長くは続きませんでした。


一年程経ったある日、<わたし>は安心に包まれた世界から突然切り離されました。

お父さんお母さんと離れて、おばあちゃんとふたりで暮らすことになったのです。

<わたし>に「おとうと」というものができるそうです。

私は「お兄ちゃん」というものにならなければいけないのだそうです。

電車の窓の向こうで、お父さんお母さんが手を振っていました。

後で、電車に乗ってくるのだろうと思って、私はまだ安心していました。

けれども、お父さんお母さんは、電車に乗ってきませんでした。

私は、おばあちゃんと二人で、ずいぶん長いこと電車に揺られていました。

電車に揺られながら、私の心は「安心とはまるっきり正反対の感じ」でいっぱいになりました。


それから、おばあちゃんと二人で暮らすようになりました。

おばあちゃんのことは大好きでした。

けれども、私は以前のように安心に包まれてはいませんでした。

お父さんとお母さんが近くにいなかったからです。


その期間がどれぐらいだったか、もう覚えていません。

ただ、お父さんお母さんがいない「いま」はイヤで、

だから、その「いま」が早く通り過ぎて、

お父さんお母さんと一緒にいられる「いつか」が早く来ること、

そればかりを願っていたように思います。


やがて「おとうと」が生まれて、家族みんなで暮らせるようになりました。

でも、私はもう産まれた頃の<わたし>ではなく、

「おとうと」の「お兄ちゃん」としての私でした。

私は「お兄ちゃん」になろうとしました。

私は「おりこう」になろうとしました。

私以外の何かになろうとし始めました。


いまの私ではだめだから、

いつか「いまの私ではない何か」になって、

そしたら、昔みたいに愛に包まれ安心できる。


切り離される不安から、「いまの私ではない何か」を目指すうちに、

いつの間にか「いま」に安心してくつろぐ感覚も、

いつも一緒だった<わたし>のことも、すっかり忘れてしまいました。


私は、周りの求める姿に似せた着ぐるみを作り、その中に入りました。

親、学校の先生、友人、部活の先輩、会社の上司などの要請に応える形で、

着ぐるみを改良しながら、人生という時間を過ごしていきました。


あまりにも、長く着ぐるみの中にはいっていたので、

着ぐるみと、中に入っている私はすっかり癒着して、

私は着ぐるみそのものになっていました。

まるで、くまモンの中の人が、自分はくまモンそのものだと勘違いしてしまったかのように。


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私は、着ぐるみの中でずっと息苦しさを感じていました。

人生なんて息苦しいものなんだ。だから仕方ない。と諦めていました。

しかし、中年期に差し掛かった頃、急速に息苦しさが高まり始めました。

その息苦しさは耐え難いレベルに達し、全てを投げ出して終わりにしてしまいたい衝動に駆られるようになりました。

私は半ば自暴自棄になり、自らを懲らしめ罰を与えるかのようなひどい状況に自分を追い込みました。精神的にも肉体的にも、過去体験したことのない痛みと苦しみを味わう日々でした。

その頃の私は、まるで「歌を忘れたカナリヤ」でした。

そんなダメなお前なんか、もう捨ててしまうぞ!埋めてしまうぞ!罰を与え痛めつけてやる!

お前なんか、誰にも愛されない!存在する価値もない!



そんな状況の中で、

「いえいえ、それはなりませぬ。いえいえ、それはかわいそう」

という声を聞きました。

それは、一番身近にいる妻の声であったり、友人の声であったり、書物やPC画面の向こうから聞こえてくる声だったりしましたが、

本当の声の主は、着ぐるみの中の<わたし>の声だったのかもしれません。


「象牙の船に銀の櫂 月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思い出す」


占星術では月を、心理学では海を「無意識」の象徴としています。

また、ギリシャ神話では象牙を「夢」の象徴として描いています。


私にとって神話の世界は、まさに無意識と夢の世界でした。

その神話的空間という海に、私の中にあった銀の櫂を使って漕ぎ出したとき、

私は少しずつ忘れていた歌を思い出してきたのです。


・・・さて、こうしたメッセージは、若い人たちにとっては意味不明で、いらないものかもしれません。

けれども、私と同年代ぐらいの人で、もしもあなたが「中年の危機」と呼ばれる深刻な心の危機に陥ってしまったときは、どうか「中の人」のことを思い出してあげてください。

そして、「中の人」が本当に望んでいることにも、耳を傾けてあげてください。


あいたくて
       工藤直子

あいたくて

だれかに あいたくて

なにかに あいたくて

生まれてきた─

そんな気がするのだけれど

それが だれなのか なになのか

あえるのは いつなのか──

おつかいの とちゅうで

迷ってしまった子どもみたい

とほうに くれている

それでも 手のなかに

みえないことづけを

にぎりしめているような気がするから

それを手わたさなくちゃ

だから

あいたくて


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