石長比売(イワナガヒメ)と木花之佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)<後編>~ 古事記の暗号 6
ニニギがイワナガヒメを送り返したのは、イワナガヒメが醜かったからです。
醜い=「見・難い」
イワナガヒメは「見るのが難しい」のです。
永遠性の象徴ですから。
永遠なんて、そんなものどこにある?
私たちは、永遠を見つけることができません。
それは、時間と言う概念に縛られているからです。
でも、時間は概念上のものであって、存在しないかもしれませんよ。
時間が存在するか否かに関する議論は、ここ最近のことだと思いますが、
数字の0(ゼロ)が、この世には存在しないことは周知の事実でした。
0(ゼロ)は概念上のもので、実際に存在しているものではないのです。
古代人には、0(ゼロ)という概念はありませんでした。
0(ゼロ)という概念がなかったということは、死の概念もなかったかもしれません。
勿論、人や動物が死んで動かなくなり、やがて腐敗する様子は目の当たりにしたことがあるでしょうから、肉体的な意味での死は認識していたでしょう。
ただ、「死んだら全て終わり」と考えていたわけではないことは、神話を読めば分かることです。
黄泉の国、根の国・底の国というのは現世(物質的空間)とは異なる異界として描かれてはいますが、黄泉比良坂(よもつひらさか)という出入り口を通じて往来できる世界でした。
黄泉比良坂の「さか」は、傾斜地の意味ではなく、恐らく「境(さかい)」の意味でしょう。
この世とあの世の境の意味であり、黄泉比良坂にはやはり岩戸神社にあるような洞窟のイメージがあります。
古代人にとって「死」は、現代人における数字の0(ゼロ)と同じで、概念上のものであり存在しない、という認識だったかもしれません。
つまり、物質的空間における肉体的な終わりはあるけれど、意識空間におけるスピリットに終わりはなく永遠である、という認識だったのではいでしょうか?
ところで、時間が存在しないとなると、どうなるでしょう。
未来も過去もないわけですから、「いま」という瞬間しかありません。
「いま」という瞬間が永遠にあるだけです。
いや、瞬間というのは、すぐ通り過ぎるものでつかまえることもできないのに、それが永遠ってワケが分からん、ってことになるのは、私たちに時間の概念があるからです。
時間の概念がある限り、イワナガヒメ(永遠性)は見にくいのです。
反面、期間限定で桜が咲き誇り、やがて散る、その儚さと美しさに感動できるのは、時間という概念のお陰かもしれません。
ニニギがイワナガヒメを送り返し、コノハナサクヤヒメだけを留めたのは、
私たち現代人が未来や過去ばかりに意識を向け、「いま」に心を留めないのに似ています。
将来の幸せのための目標や仕事に追われ、「いま」を犠牲にし、目の前に既にある豊かさを味わおうとしないのに似ています。
そして、自分の外側にある物質的な豊かさや繁栄ばかりを求め、自分の心の中にある本当の願いや喜びに目を向けようとしないことにも似ています。
目に見える物質世界の中で、有限である資源を奪い合うのに夢中で、目に見えない永遠のスピリットの世界にある無限の豊かさに気付かないことにも似ています。
社会の要請に応えるための偽りの目標ではく、わたしたちそれぞれが「本当の自分を生きる」ための夢やビジョンは、どこからやってくるのでしょうか?
目に見えない永遠のスピリットの世界からではないでしょうか?
夢やビジョンは、肉体の眼では見えません。
私たちは「見る」ことにおいて、眼という肉体器官に頼りすぎてきたのかもしれません。
そのため、「わたし」が本当に求める夢やビジョンが「みにくく」なっているのです。
縄文時代の遮光器土偶は、「わたし」の外側を見る視界を遮り、内側の目を開く、という祈りが込められた土偶なのかもしれませんね。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?