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どうせぼくも家族も友達も1人残らず死ぬ。だからこそ生きる価値がある。

生まれるということは死ぬということだ。
全ての人間が、生物が、生まれた瞬間から死ぬことが確定している。
この残酷で美しい事実に幼少期の僕は怯え、目を逸らし考えないようにしていた。

どうせ死ぬなら生きる意味とは何か、生まれてくる理由は何か、どうせ死ぬなら全てが無意味で生きている意味なんか無いんじゃないかと考えたことがある人は多いと思う。だが、全く逆だ。

この世のものは全て永遠に同じものは何一つない、全ての物質は変わり続ける。絶対的なルールである。この世は諸行無常であり、万物は流転する。     

この絶対的なルールは僕の力では愚か、どんなに大金持ちであろうと誰にも絶対に変えられない。

自分はもちろん母親も父親も兄弟も友達も自分の子供も全員がこの世から跡形もなく消えて無くなる。


もちろん、この絶対的ルールから逃れる術はない。死をどうにかしようとしても無理だ。不老不死にはなれないし、僕も君も君の家族もどんな大富豪も例外なく全員が死ぬ。
無理なのものは無理なので無理である。
死を避けることは諦めるしかないし考えるメリットもない。解決することが不可能なことを考えるのは時間の無駄だ。どうせ考えるなら、解決できることを考えた方がいい。

死に対する僕らに残されたできる唯一のことは解釈の仕方のみである。
死ぬというのは一般的にはマイナスであり、悲しく、辛く、悪いこととされているが、本当にそうなのか?
たしかに人生を100年だとすると、やりたいことがやりきれないこともあるかもしれない。40年の人もいればもっと短い人もいる。
ほとんどの日本人は60歳以上は生きるが、仮に100年でも短いとしよう。
生きる時間が足りない、もっと生きたい、だから永遠に生きたいと。
これは人類が常に考えてきたことであり、漫画や小説の話題でもよくある内容である。
だが、よく考えてみてほしい。
200年や300年生きたとして、まだ生きたいと思うかもしれない。
しかし、5000年だったらどうだろうか?1兆年だったら?5000兆年だったら?死なないということは何千兆年経っても終わらないということだ。
5000兆年も生きていたらやる事もなくなり、全てに新鮮味も無くなり、楽しく生きて行くことが難しくなるかもしれない。
そして、死のうと思っても死ねない訳なので、その苦しみは永遠に続く。永遠に終わらないマラソンを無限に走り続けるのは、まさに地獄である。
仮に不老も加わったとすれば、若いから今のうちに旅行に行こうとか、歳をとって時間がなくなる前に友達に会おうとか、子供と会える時間が少なくなる前に愛情を注ごうなどとこれまで通り考えるだろうか?
永遠にあるからいつでもいい、なんでもいい、どうでもいい、だっていつでもなんでもできるんだから。
毎日の人生や何気ない出来ごと、嬉しい事、成功したこと、子供の成長、美味しい食べ物、全てのものに価値を感じなくなってしまわないだろうか。
桜は散るから美しいのであって、一年中さきつづけていたら皆んなお花見をやめてしまうかもしれない。
いつか終わってしまうから、永遠ではないからそこに価値があり、大切にしようと思えるのではないだろうか。
いつか老いて身体が若い頃のように動かなくなって、シワが増えて髪の毛も抜け、歩けなくなり、最後には息もできなくなるから、今に価値がある、死が今に価値を与えてくれる。
若い時にできることをやっておこう、若くなくても死ぬまでの限りある有限の時間を楽しもうと思える。


いつの日か誰しもが必ずこの世から完全に消えて無くなってしまうから、死ぬことが、日常を、家族を、目の前にいる恋人を、今この瞬間を大事にしようと思わせてくれる。

何気ないただの1日をいつか死んでしまうから怖いと、いつか死んでしまうから無意味だとそうかんがえることもできるかもしれない。
だが、ぼくらには、いつか死んでしまうから尊く美しく素晴らしいと、いつか死んでしまうからこそ生きることに意味があると、そう考える事ができる。

おもしろかったら100円投げてくれるとよろこぶ。