文字を求めて

大和(奈良県御所市近郊、金剛山の近く)に、法華経をひたすらに読誦して精神修養していた男がいた。丹治比氏(たじひうじ)の出であった。
その男は才気煥発で、8歳までに法華経をほとんど暗唱していた。ところが、何度繰り返しても、一か所の一文字だけがどうしても覚えられなかった。20歳を過ぎても、読誦していると、いつもその文字のところにきて一旦停止してしまうのだった。前世からの罪によるものだと思い、観音菩薩に祈って、仏前で懺悔し罪の赦しを請うた。

ある夜、夢の中に、ある人が出てきて言った、「お前の先祖は伊予の国別郡日下部(愛媛県松山市の西北部)の猴(さる)だ。その家に行けば、お前が法華経でつまずく理由が分かるだろう。」彼は途端に目が覚めた。それにしても妙にリアリティの高い夢だった。
両親に相談して、彼は伊予の国に行くことになった。旅費を蓄え、旅装を整えて、陸路を広島まで行き、そこから船で四国に渡る計画を立てた。

広島の港に着いたとき、海辺で大きな亀4匹が売られていた。売られていけば、亀は間違いなく殺されるだろう。彼は自分の財布をのぞいてみて、何とか足りそうだったので、亀4匹を買って海に放した。亀たちは嬉しそうな様子で沖に向かって泳ぎ去った。

翌朝、予約しておいた船に乗って、瀬戸内海を四国に向かった。突然、ある島陰から海賊が現れ、彼の乗っていた船を襲った。荷物を船に残したまま乗客全員が海中に放り込まれた。彼は泳ぎを知らなかったし、知っていたとしても、この大海の真ん中ではどうしようもなかった。彼は死を覚悟した。ところが、必死でもがいているうちに足に石のようなものが当たり、彼の体が浮きあがって腰のあたりまで水につかった状態で海上を四国に向かって運ばれていった。彼は亀の背中に乗っかっていたのだった。こうして彼は四国の浜に着いた。後からついてきた3匹の亀が彼の金品や荷物を運んできた。海賊に奪われた船の底に亀たちが穴を開けて船を沈め、彼の荷物をくわえて運んでくれたのだった。

亀たちは3度頭を下げて彼に感謝の意を表し、彼も助けてくれた亀たちにお礼を言った。乾かしておいた服を身に着けると、彼は四国の地を西に向かって歩き始めた。夕焼け時分に人家を見つけて、泊めてもらうことになった。その家には、夫婦と、15歳ぐらいの一人娘がいた。海での恐ろしい経験や旅の疲れで、彼は久しぶりにぐっすりと眠った。

翌朝、朝食を済ませて出発しようと荷造りをしていると、娘が、一緒に連れて行ってくれと言う。両親も驚いていると、娘は男の妻にしてほしいと言った。両親は娘の真剣な気持ちを理解し、男も娘のことを大層気に入ったので、出発を3日延して、互いのことを語り、将来のことを話しあった。そして旅は安全とも限らないので、帰りに必ず立ち寄ることを約束して、男は一人で伊予に向かって旅を続けた。

伊予の国に入り、道々、家を訪ねながら、猴(さる)の家を探し当てた。門を叩いて案内を乞うと、召使の女が出てきた。男の顔を見てハッとしたようだった。そして慌てて奥にひっこんで、家長の妻に言った。
 「門のところに客人が来ておられます。それが亡くなられたお坊ちゃまにそっくりの方です。」

家の中に案内され、挨拶を交わした。家長も妻も、客人の顔かたちや性格までもがあまりにも亡くなった息子によく似ていたので、とても驚き、また嬉しい様子だった。互いに自己紹介をした。家長の姓名は、男が夢の中で聞いた通りだった。家長は、客人の顔をじっと見つめながら、
 「ひょっとして、20歳で死んだ我が子の霊魂ではないかと思うのです」
と言った。男は、ここまで来るきっかけとなった夢の話をして言った。
 「その夢が本当ならば、あなた様方は私の両親ということになります。」

家長は、息子が起居していたという堂に案内してくれた。
 「これはいつも息子が読んでいた法華経です。」
男がその法華経を手に取って開いてみると、どうしても覚えられなかった箇所が、燈火で焼けて欠損していた。欠損のまま放置していた罪を懺悔して、その部分の文字を復元すると、完全に覚えることができた。たいそう信心深い人たちであったが、この不思議に深く感動し、喜び合った。親子の契りを結び、男は1か月ほど滞在して孝行を尽くし、帰路についた。遠ざかる息子の背を見送る両親の頬を数条の涙が流れた。

帰路途上、夫婦の契りを交わした娘の家に立ち寄った。新しい父母に感謝の意を表して、妻として娘を連れて大和に帰った。大和の父母は、息子が無事に帰ってきたこと、かわいい妻を連れてきたことを大変に喜んだ。彼らは、その後、いくつもの困難を乗り越えながら、幸せな家庭生活を送ったと聞いている。男の夢に現れた人物は、観音菩薩ではないかと主張する向きもあるが、不信心な私には分からない。

<日本霊異記上巻第18+第7>

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