男と蛇

"法華経普門品(ふもんぼん)第25に「弘誓深如レ海(ぐぜいしんにょかい)、歴劫不思議(りゃっこうふしぎ)」とある。 観世音菩薩が、仏の道によって、生きているものすべてを迷いの中から救済し、悟りを得させることを、自らの使命として誓う、その誓願の深さは海のようである。人智の及ぶところではない。"

昔あるところに、若い頃から鷹の飼育と調教を職業とする40歳前後の男がいた。常に数匹の鷹を飼っていて、鷹のベテラン調教師でもあった。ある時、調教し始めて日の浅い鷹が逃げてしまった。男は2人の従者とともに、逃げた鷹を追って山に入った。山奥の峡谷の崖っぷちに大きな榎(えのき)があり、その木の枝に鷹が巣を作っていた。惚れぼれとするような立派な鷹が巣の縁にとまっていた。どうやら小さな雛が育っているようだった。親鳥があれだけ立派であれば、雛も立派な鷹に育つだろう。それを確認すると、逃げた鷹を捉まえることを諦めて、男は下山し、家に帰った。

雛の巣立ちが近くなる頃に、男はもう一度山に入った。鷹の巣は、深い谷の淵に張り出した大きな榎の枝に作られていた。3羽の雛がかなり大きく育っていて、巣の中で翼を広げて盛んに羽ばたく練習をしていた。雛を捕獲するために、男は木に登った。巣の近くまで登り、もう一息で手が届くところまできた。そこから一歩進めて、手を伸ばし、雛を掴もうとした。そのとき、木の枝が折れて、男は、40メートルはあろうかという谷底に向かって真っ逆さまに落下した。もちろん、岩だらけの谷底まで落ちれば、間違いなく死んでいただろう。幸運にも、彼は、崖の中頃に突き出していた木の枝に当たり、その枝を掴んだ。九死に一生を得た。だが、見下ろせば深い谷、見上げれば高い峰。降りるもこともならず、登るもならずで、進退窮まった。万事休すであった。

崖の上に残された2人の従者たちは、慌てふためいた。こわごわ崖の上から谷底をのぞいたが、下までは見えなかった。もちろん男の姿も認められなかった。とても男が生きているとは思えなかった。悄然として家に帰り、事の次第を男の妻子に報告した。話を聞いた妻子は嘆き悲しみ、現場に行くと言ったが、従者たちは、それは無益であると説得して思い止まらせた。

さて、墜落した男はどうなっただろうか。彼は、崖壁に生えた太い木の枝を掴んでぶら下がっていた。そして崖壁から少し飛び出している石にお尻を載せた状態であった。だが、下手に動けば墜落して落命するだろう。枝を握っている手は痺れてくるし、腰かけている尖った石で、お尻は痛くなった。この状態のまま3日経った。目の前にある木の葉の露を舐めたり、葉っぱを食べたりしていたが、そのうちに、めまいがしたり、時々、ふっと目の前が暗くなったりした。頭痛とむかつきにも悩まされた。傾眠状態になり、うとうとしていたが、完全に意識がなくなって枝から手を離したりすれば、谷底に落ちてしまうだろう。美しい妻や、可愛い子供たちのことが思いやられた。それにしても、誰も助けにこなかった。

男は幼少のころから熱心に読誦していた法華経を唱えていた。観世音菩薩普門品第25にある、「弘誓深如レ海(ぐぜいしんにょかい)、歴劫不思議(りゃっこうふしぎ)」の行(くだり)を暗唱しているときだった。谷底のほうから、がさがさという音が聞こえてきて、何かがこちらに近づいてきた。やがて、シューッ・シューッという荒い息遣いとともに、それは正体を現した。長さが2丈(約6メートル)もあろうかと思われる、電柱のような大蛇だった。背中は紺青色で、何やら墨で書いたサンスクリット文字のような黒い模様があり、首の下は火のような紅色だった。男は、身の毛がよだち、眠気も一気に吹っ飛んだ。蛇の餌になるものと覚悟した。ところが、蛇は、男に何の危害も加えることなく、まるで男に気が付いていないかのように、ズルッ・ズルッと膝元を通り過ぎようとした。男は、とっさに腰の刀を抜いて、蛇身に突き刺して、刀を握ったまま蛇の背中にしがみついた。蛇は、痛くも痒くもなさそうで、男を背中に乗せたまま、しゅるしゅると崖を登って行った。

崖の上にたどり着いたところで、男は蛇の背中から降りて、突き刺していた刀を抜き取ろうとして力いっぱい引っ張ったが抜けなかった。刀がつき刺さったまま、蛇は振り向きもせず反対側の谷へずるずると降りていった。去って行く蛇の後姿を見送ると、男は仰向けに寝転がった。ちょうど榎(えのき)の木の根元だった。榎の木を見上げると、巣立ちして間もない3羽の若い鷹が枝にとまって、不思議そうに男を見下ろしていた。しばらく体を休めたあと、男は立ち上がり、フラフラともつれた足取りで、山を下りていった。

家では、男は死んだものと思い込んで、遺体の無い、いわゆる認定死亡によって、男の葬式が行われようとしていた。そこへ、衰弱しきった姿で男が帰ってきたので、家族や親戚一同は大変驚いた。それだけにまた喜びも大きかった。葬式は祝宴に早変わりした。男は簡単に経緯を語ったが、疲れ切っていたので、その日は早めに休んだ。

翌朝、目覚めると、いつものように朝食の前に経文を開いて読み始めた。すると、「弘誓深如レ海(ぐぜいしんにょかい)、歴劫不思議(りゃっこうふしぎ)」と書かれた箇所に、蛇身に刺さったまま消えたはずの彼の刀が突き刺さっていた。あの大蛇は、この経文の変化(へんげ)だったのだ。男は思わず、経文に向かって手を合わせた。

<宇治拾遺物語巻第6の5>

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?