河岸の歌声

かなり昔のことで、当時の人はもう誰も生きていません。私も伝え聞いた話ですので、かなり脚色されているかもしれません。

互いに知らない人はいないというほど小さな村での出来事でした。その村は、山の斜面がV字型に迫っている谷間にあって、人々は谷底を流れる川の近くに軒を連ねて暮らしていました。日照時間は、夏でも5時間ほどで、あまり気温は上がりませんでした。むしろ肌寒いほどでした。過去に何度か山崩れがあり、山の中腹から斜面を転がり落ちてきたと思われる大きな岩が、河原のいたるところで水に洗われていました。

村にはこれといった産業もなく、人々は、山の斜面に、猫の額のような土地を耕して農業を営み、炭焼き窯で木炭を作って、山の麓の町で売りさばいて現金収入を得ていました。食糧として、穀物、野菜を自作自給し、狩猟でウサギ、鹿、そして猪などを捕獲し、川で魚やエビなどを捕ってタンパク源にしていました。

呉作は、この村の小作人で働き者でした。妻はセキといい、娘時代には、村一番の別嬪と言われていました。彼らには一人娘がいて、年頃の15歳で、名を彩(あや)といいました。

彩についてはこんなエピソードがありました。彩が5歳の時でした。雪解けで水嵩の増していた川で、母セキは洗濯をしていました。母についてきた彩が河原で遊んでいました。母がちょっと目を離した隙に、彩は足を滑らせて川に落ちてしまいました。彩は川底に沈んでしまって姿が見えなくなりました。少し下流に大きな岩があり、彩はその岩に引っ掛かっていました。セキは夢中で彩を河岸にひきあげました。娘は奇跡的に無事でした。彩は30分ほど、水中に沈んでいたと思われましたが、水から助け上げられたとき元気そうでした。居合わせた女たちは、不思議そうに顔を見合わせていました。30分間も沈んでいて生きていられるのだろうか、と。何はともあれ、彩が元気だったことについては、みんな喜んでいました。

彩はとても美しい娘に育ちました。中肉中背で、背中まで伸びた、繊細な流れるような黒髪が、時として日の光を浴びて虹色に輝いたものでした。この古くから言い伝えられてきた物語の中で、「彩はとても美しい娘」だったという表現だけは変わっていないということなので、本当に美しい娘だったに違いありません。村の若い男たちは、何とかして、自分の方に彩の気を引こうと躍起でした。しかし、彩の両親、とりわけ父の呉作は、しっかりと娘をガードして、男たちを寄せ付けませんでした。

彩は河岸の散歩がとても好きでした。溺れて死にそうになったことは、全く彼女のトラウマにはならなかったようです。彩が溺れたこともあったので、父親の呉作は、必ず河岸の散歩には付き添っていました。もちろんそれだけが理由ではありませんでした。周りの男たちに目を光らせていたに違いありません。彩は言いました、「私はもう15歳よ。子供じゃないのよ。溺れるようなバカなことはしないわよ。」呉作によれば、「彩、お前はいくつになっても、私の大事な子供だ。」

川の向こう岸では山の斜面を川の水が洗い、こちら側は、土手に沿って、人の通れる道が川面から1メートルほどの高さで続いていました。川岸には、ところどころ、人が下りて炊事や洗濯のできる石ころだらけの開けた河原がありました。晩春の土手には、山吹の花が咲き誇り、風に揺れ、川面は一面の黄色い光に輝いていました。女たちが、三々五々、川で洗い物をしていました。水面には岩魚が飛び跳ねて、キラッと虹色の輝きを放っていました。水の清らかなこと。川底の苔の毛並みを数えられるほどでした。

村の唯一の地主は庄左エ門という、初老の、どちらかというとのんびりしたタイプの男でした。村長も兼ねていました。庄左エ門の弟が亡くなって、その息子、すなわち甥を実の息子のように可愛がって育てました。甥は、幻三(げんぞう)という名前で、なかなかハンサムな男でしたが、痩せ型で、少し気が弱く、神経質なところがありました。幻三は成人前に町に出て仕事を見つけ、そこで知り合った女性と結婚して町で暮らしていましたが、戦に駆りだされ、負傷して、この村に滞在し、庄左エ門の館で療養していました。幻三は傷が癒えたら、再び妻の待つ町に戻るつもりでした。

療養中の幻三は、時々、川岸を馬車に乗って散策することがありました。そんな折に、呉作と彩の姿を見かけ、彩の美しさに心を奪われてしまいました。もともと気の多い男子でしたので、彩の美しさは彼を虜にしてしまいました。無理からぬことでした。幻三は川面に小石を投げながら、彩と一緒になれるようにと願いを込めました。町で留守番をしている妻のことはすっかり頭から消えてしまったようでした。

同じ村に、弥吉という小作人がいました。彼の息子の嫁に、彩を貰いたいと願ったのですが、呉作にすげなく拒否されてしまいました。弥吉はもともと、セキをめぐって呉作と争ったのですが、最終的に、セキは呉作を選んだのです。要するに、セキに振られてしまったのです。それだけに弥吉は呉作を怨んでいました。弥吉は、地主の庄左エ門に、呉作の悪口をさんざん言い立てました。そして呉作を村から追放すべきだと主張したのです。しかし、呉作は働き者で、信頼できる男だったので、庄左エ門は呉作に、永久追放ではなく、遠くの町での6か月間の仕事を言いつけました。

こうして、呉作は、6か月間、自宅を留守にしました。その間、呉作の妻セキは、農作業や家事に追われて、彩のことまで目が行き届きませんでした。弥吉は、幻三の彩への思慕を知っていましたので、呉作の留守を狙って、幻三の望みが叶うように暗躍しました。幻三が彩と2人きりになれる場を提供したりして、幻三と彩とを結びつけたのでした。世の汚濁を知らない彩は、幻三に夢中になり、真心を捧げました。

6カ月後、町での仕事を終えて呉作が村に帰ってきた時には、彩の心はすっかり幻三に奪われていました。呉作と入れ替わるように、戦傷の癒えた幻三は、妻の待つ町に帰っていきました。彩はみるみるやつれていきました。彩は魂が抜けたように、虚ろな目をして、ぼんやりと河原の岩の上に腰を下ろして、川面を眺めていることが多くなりました。彼女の周りでは、アキアカネが飛び回り、路傍には、艶やかな火炎のような彼岸花が、あの世とこの世の境界を示すかのように、線状に並んで、初秋の冷たさを含んだ風に揺れていました。そして傍目にも分かるほど、彩のお腹は膨らんでいました。

秋も深まり、木の葉が色づく頃、彩は幻三の子を産みました。生まれた男の子は、この世で一度も呼吸をすることがありませんでした。彩は産後出血がひどく、ショック状態に陥り、間もなく息を引き取りました。あの世に旅立つ前に、愛しい人の名前を呼んだようですが、誰もその名前を聞き取ることはできませんでした。家の周りは深い闇に閉ざされ、悲しみに沈んだ家族のすすり泣く声が微かに洩れ聞こえてきました。

その頃、川では不思議な光景がみられました。水の中から、数条の光が差してきて、5個の光の玉が水上に浮き上がってきたのでした。光の玉は、彩の家に向かって飛んでいきました。そして家の中に消えたかと思うと、しばらくして、6個の光の玉が家から出てきました。光の玉は川に戻っていきました。

幻三は町の妻と別れて、谷間の村に戻ってきました。伯父の庄左エ門が一軒の家を提供してくれたので、幻三はそこで酒場を経営しました。夜遅くまで飲み仲間とどんちゃん騒ぎ、朝は昼近くになってようやく起きてくる、そんな生活が毎日のように続きました。お金には困りませんでしたが、生活はすっかり荒んでしまいました。

ある日、幻三は久しぶりに河原を歩いていました。女郎花(おみなえし)が風にさわさわとさざめき、一面の黄色い小さな花が、約束を守れなかった幻三の心模様のように揺れ動いていました。彼は堪らず、川の流れに向かって彩の名を叫びました。すると、まるで彼の叫びに答えるかのように、1匹の岩魚が水面に飛び跳ねました。秋の清んだ陽光を浴びて、魚鱗が虹色に煌めきました。幻三は河原の岩の上に座り込んで、ぼんやりと水面をみつめました。岩のすそは流れに洗われて苔むしていました。先程の岩魚でしょうか、その苔に付着した虫をつついていました。幻三はぼんやりとその岩魚を見ていました。どこからともなく女の歌声が聞こえてきました。

私はあなたのもの
あなたは私のもの
それが2人の宿命(さだめ)
川は私たちの家
川は私たちの墓所

歌声の主を求めて河原を歩いていると、大きな岩の洞穴があり、歌声はその中から聞こえてきました。中に入ると、一人の女が座って歌を歌っていました。幻三が手を取ると、振り返った女は彩でした。紛れもない彩がそこにいました。
「彩、会いたかった。」
手を引っ張って、彼女を抱き寄せようとした瞬間、彩の姿は消えてしまいました。足元の水たまりでは、一匹の岩魚が苔をついばんでいました。美しい彩。幻三は失ったものの大きさをずっしりとその胸に感じました。幻三は重い足取りで家に戻りました。

数日後、幻三は店をたたみました。飲み仲間との付き合いも止めてしまいました。かといって、仕事をすることもなく、終日、ぼんやりと濡れ縁に座って過ごしていました。もともと痩せ気味でしたが、ますます痩せて、やつれて見えました。そんなある日、誰かに呼び出されたかのように、急に思い立って、幻三は河原に出かけ、あの洞穴に向かいました。幻三は知らなかったのですが、その日は彩の命日だったのです。

洞穴では彩が彼を待っていました。
「彩、もう一度やり直そう。」
彩は、洞穴から出てきました。幻三が彼女の手を取ろうとすると、彼女は幻三の手をすり抜けて、川の中に入っていきました。幻三も彩の後を追って川の中に入っていきました。川の真ん中近くまでくると、急に流れが速くなり、幻三は足を取られて体勢を崩し、水にのまれました。彩の姿はどこにもありませんでした。幻三はしばらく苦しそうにもがいていましたが、やがて動かなくなり、川下に流されていきました。

急に黒雲がわき、にわか雨とともに、雷鳴と稲妻が起こりました。弥吉の家に落雷があり、家で風呂に入っていた弥吉は、雷の直撃を受けて感電死しました。雨はひとしきり降り続け、水嵩が増して、川べりの作業小屋などが流されたりしました。あの清らかな川の水は、濁流となって、轟音を立てながら激しく流れ下りました。翌日には、川はいつもの穏やかさを取り戻しました。

幻三が失踪してから10日後に、はるか下流の河口近くで、男の水死体があがりました。男の遺体に寄り添うように、一匹の岩魚が虹色の体の側面を見せて死んでいました。発見者は、その近くに住む漁師でした。「そういえば、10年ほど昔だったかな、この同じ場所で女の子の水死体を見つけたことがあったな。」漁師は独りごとの様に妻にしみじみと言いました。「私たちの娘が5歳のときだったから、12年前になるわね。」妻も昔を思い出すかのように、晴れ渡った澄んだ空を見上げながらつぶやきました。

<イギリス民話より>

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