犬の糸

今は昔、三河の国にある郡司がいた。彼には2人の妻があった。本妻と最近知り合った女だった。本妻の家では、白い犬をペットとして飼っていた。犬の名前を「つむぎ」といった。彼らは蚕を飼って、糸を作っていた。それを売って、そこそこの暮らしをたてていた。ところが、ある年、なぜか飼っていた蚕が全部死んでしまった。稼ぎがなくなり、先行きが見えなくなった。すると夫はこの妻に寄り付かなくなった。新しい妻の家に入り浸りになったまま戻らなくなった。

本妻の家は貧しくなり、使用人もひとり減り、ふたり減り、そして誰もいなくなった。やがて、日々の食べ物にも不自由するようになり、女はなけなしの食べ物を犬の「つむぎ」と分け合って暮らしていた。

そんなある日、女は、蚕が1匹、桑の葉を食べているのを見つけた。彼女は、この蚕をつかまえて籠に入れ、桑の葉を与えた。蚕は食欲旺盛で、どんどん葉を食べ、丸々と大きくなったが、繭を作ることはなかった。妻は、ペットとして蚕をかわいがった。

女が、いつものように籠の中に桑の葉を入れて、蚕がもりもりと元気よく食べる様子を見ていた時に、犬の「つむぎ」が近づいてきて、パクリ、ゴクッと蚕を呑み込んでしまった。女は、「これ、つむぎ、何をするの」と叱ったが、すぐに思い直して、「怒ったりしてごめんね、つむぎ。お腹がすいていたんだね。」女は、自分の恵まれない哀れな人生を嘆き、犬の頭をなでながら、ぽろぽろと涙を流した。太陽は東から昇り、西に沈んだ。それが何度繰り返されたことだろう。

ある時、女は「つむぎ」のお腹が少し大きいような気がした。「もしかして、お前、子どもができたのかい?そんなはずはないわね。お前は男の子だものね。碌に食べてないから、むくんだのかねえ。可哀想に。私の貧乏にお前を巻き込んでしまったねえ。」そんな女の様子を悲しそうな目で見ていた犬がクシュッとくさめをして、頭をぶるぶるっと振るわした。その拍子に、2つの鼻の穴から白い糸のようなものがぶら下がった。

女は鼻汁かと思って、拭いてやると、それは糸だった。手繰っていくと、次々と糸が出てきた。女はその糸を糸車に巻き取っていった。やがて糸車だけでは足りなくなり、壺とか、そこらじゅうのものに巻き付けていった。最後に蚕の殻のようなものが出てきて、糸は尽きた。そして「つむぎ」は死んだ。蚕は犬の体の中で繭を作っていたのだ。女は犬に土をかけ、「つむぎの墓」という卒塔婆を立てて、丁重に「つむぎ」を葬った。

そして月日は矢のように過ぎた。ある日、たまたま夫がこの家の前を所用で通りかかった。家は廃屋のように落ちぶれた有様だった。夫の心に、妻との楽しい思い出が浮かんできて、今はどうしているのか様子を知りたくなり、訪ねてみようという気持ちになった。壊れかけた戸を開けて中に入ってみると、妻は一人きりで、焦点の定まらない目をして座っていた。呼吸はしているようだ。それにしても彼女の周りと言わず、家の中は糸だらけだった。

驚いた夫に妻は、夫が去った後のことを、一部始終、語った。夫は糸の素晴らしさに目をみはった。見事な糸だった。その白さ、艶、しなやかさなど、立派な絹糸だった。そして膨大な量。夫は妻と相談して、その糸を売った。高い値がついたので、彼らは巨万の富を得た。その後、夫婦は仲良く、末永く暮らした。妻は、死ぬまで、「つむぎ」の墓に詣でては花を活け続けた。元々、本妻の蚕が全滅したのは、新しい妻の仕業とも言われたが、真実のほどは定かではない。

<今昔物語巻26第11>

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