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ダライ・ラマ回想(3)

2007/06/16

(『ダライ・ラマ回想(2)』より続き)

翌2000年、ダライ・ラマは初めて教育機関(京都精華大学)の要請を受けての訪日を果たす(それまでの招聘元は宗教団体)。いつもと同様、ダライ・ラマの外国訪問を阻止しようと中国政府は躍起になり、招聘元に圧力をかけてきた。しかし、若い大学スタッフが果敢にこれを凌ぎことなきを得る。「環境と人間」に関する講義、シンポジウム、心身障患者との交流等、約2週間の滞日は中身の濃い勢力的なものだった。(この訪日の映像記録を後に制作することになった:『ダライ・ラマー21世紀への提言』)。

東京の宿泊先のホテルで再会を果たす。驚いたことに、昨年のインタビューのことを事細かに覚えていて下さった。彼の秘書官によれば、1959年、インドに亡命した際にインタビューを受けたインド人ジャーナリストのことを、数十年後に再会した際もその時の状況などもふまえ詳細に覚えていたという。ダライ・ラマの記憶の良さは“伝説”らしい。_________________________________________________________

二年後、2002年、私はブッダガヤ(インド)にいた。チベット仏教の最も重要な儀式の一つ・「カーラチャクラ・イニシエーション」の取材だ。釈尊(ブッダ)成道の地でダライ・ラマによりその儀式が17年ぶりに執り行われると聞き、準備もそこそこに飛んできた。小さなブッダガヤの町はインド、ネパールのみならず世界各地からのチベット難民、チベット系民族、チベット仏教信者、欧米のバックパッカーなどでごった返していた。何と、中国国内のチベットからも大勢来ていた。ものすごい土埃で前が霞んで見えない。「100万人ぐらい居るんじゃないの!」ダラムサーラから来ていた友人は口を抑えて呆れている。

儀式初日。四方を壁で仕切られた儀式会場には、集まった人々の熱気が砂塵と共に激しく舞い上がっている。視線は壇上の“玉座”に注がれて微動だにしない。無論、そこに座るのはダライ・ラマ。間もなく、チベットのトランペットのけたたましい音と共にダライ・ラマが登場した。「?」、いつもと様子が少し違う。顔が青白い。いつもの快活さが無い。どうしたのか?体調の悪さは説法を初めて直ぐに明らかになった。声の張りが全くないのだ。深刻なのだろうか...

説法は早々に切り上げられ、別の僧侶が引き継いだ。

結局、ダライ・ラマはムンバイの病院に搬送されることになった。体調不良をおして、儀式に先立って史跡巡礼を強行したことが悪かったらしい。ダライ・ラマも既に66歳(当時)。過密スケジュールが過ぎた。

”支柱”を失って、チベット亡命政府の役人達は明らかに狼狽えていた。ダライ・ラマが重要な儀式をキャンセルするなど前代未聞の事態。儀式のためにダライ・ラマに同行していた知人の若い僧侶もさぞかし慌てているだろう。

「大変なことになったな」

しかし、彼は私の声を制止する様にはっきりと言った。

「ダライ・ラマが不在でも全く問題はない」

嬉しかった。本当に嬉しかった。その言葉こそ、正に聞きたかった言葉だった。チベット難民に関するドキュメンタリー第一弾として製作した『チベット難民ー世代を超えた闘い』のテーマ、メッセージは、ダライ・ラマという存在に頼らずに奮起して自ら立ち上がる一般の難民たち、特に若い世代のアクション、即ち、イニシアチブである。それこそが、彼らの「大義(=チベットの真の解放)」の実現に繋がると信じるが故だ。

若き僧侶たちは、ダライ・ラマの代わりの高僧と共に、無事、儀式を執り行った。

しかし、ダライ・ラマが不在になったことで、役人達は大いに動揺し、“ダライ・ラマフリーク”である大多数の外国人達はそそくさと会場を去って行った。

その光景に、「チベット難民」や「チベット問題」を取り巻く状況が露呈していた。

この「事件」が、ダライ・ラマを絶対視し極度に依存するチベット難民やいわゆる”チベット サポーター(支援者)”の意識・体質を変える切っ掛けとなるのだろうか。

(『ダライ・ラマ回想 (4)』へ続く)

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