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ダライ・ラマ 回想(2)

2007/0604

(『ダライ・ラマ 回想(1)』より続き)

そして、12年の時を越え単独インタビューの実現。目の前のダライ・ラマは気さくなおじいさんという感じだ。うっすらと毛の生えたきれいな形の(うちの祖父を少し思い出させた)坊主頭がそう思わせるのか。無論、バリトン調のハキハキした声、時折見せる眼光の鋭さなどに“オーラ”は現れていた。

私は率直に質問をぶつけた。

「あなたは1988年にチベットの独立を放棄し、それ以来、チベットの完全自治を中国政府に求めている。しかし、中国政府は無理難題な『前提条件』を突きつけ事実上対話の再開さえ拒否。しかも、チベット難民の殆どは、たとえ表には出さなくても、チベットの独立を望んでいる。あなたが独立要求を放棄したことを厳しく批判するチベット人知識者にも会った。難民達はあなたの政策の『意図』を本当に理解し支持しているのですか?」

「ははは」と少し笑いながら、ダライ・ラマはこう続けたー

「チベット難民たちは政策を支持してくれていると思いますよ。もちろん、私は一人一人に『私の政策を支持していますか?』と聞いて回った訳ではないですがね。」

質問を笑いながらはぐらかされたことに、正直、ムッとしてしまった。

私はアメリカ留学時(3年間)、「チベット問題」に関する相当のリサーチをした。しかも、単独で3ヶ月間、難民コミュニティーに滞在しながら様々な難民(老若男女、政府関係者、聖職者、etc. )へのインタビューを重ねていた。殆ど何の実質的な勉強さえもしないでインタビューに臨む大多数の連中とは訳が違うーそれなりの自負があった。「笑いながら答えるとは何事か!」不敬にも心の中でそう叫びー

「私が聞いていることはそんなことではない。チベット難民の間で『チベット問題』に対する本当の気持ちが一致してない状況の中で、どうしてチベットの“大義”のための闘いが実を結ぶというのか。いかにして、問題解決への光明が見出せるのか」と早口の英語で捲し立ててしまった。

すると、ダライ・ラマのそれまでのどことなく緩んだ穏やかな表情が一変し、厳しく真剣な顔になった。

「ビデオカメラを一度止めて下さい。先ず、オフレコでお話しましょう」

ダライ・ラマは具体的な個人名・団体名を挙げた後、

「インド及び世界各地の様々なチベット難民たちが、チベット独立を放棄した私の政策を厳しく批判していることを知っています。特に、若い世代。たが、中国政府が交渉を頑に拒み何十年も状況が変わらない中、一体、どうしろというのです。批判するのは構わない。しかし、ならば、彼らには具体的な“青写真”を提示してもらいたいのです」 

そう熱く語った64歳(当時)のダライ・ラマの目頭はうっすらと濡れていた。

彼の孤独、焦躁、悲しみが少しだけ分かった気がした。

10分の約束だったインタビューは結局1時間に及んだ。外に出ると、若い僧侶達が儀式の準備で忙しく走り回っている。その日は奇しくも「ブッダの生誕祭」の日だったのだ。私はダライ・ラマより頂いた絹のスカーフに触れながら、「独自の視点で『チベット問題』を伝えていかなければならない」と改めて感じていた。

(『ダライ・ラマ 回想(3)』へ続く)

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