見出し画像

女性のユートピアを求めて――アルゼンチンクィア映画「The Daughters of Fire」と映画史への挑戦(翻訳)

 以前「2010年代ラテンアメリカクィア映画の傑作15本」というnoteの中で『The Daughters of Fire』というアルゼンチン映画を紹介しました。これまで観たどの映画とも違う画面とプロットに度肝を抜かれ、すべての要素が圧倒的で、オールタイムベストに入れるほど強烈な印象を残しました。

 というわけで、『The Daughters of Fire』と監督のアルベルティーナ・カリ(1973-)について書かれた記事「Seeking Utopia at the End of the World: Close-Up on "The Daughters of Fire"」を翻訳して紹介したいと思います。いつか日本でも観られるようになることを願って……。

あらすじ:久しぶりに再会した2人の女性。一人は女性のためのポルノ映画を撮りたい。もう一人は実家に帰りたい。彼女たちは道中で他の女性を乗せながら、パタゴニアを車で横断するポリアモリーな旅に出る……。


 アルベルティーナ・カリは、1990年代後半に映画製作を始めて以来、劇映画とドキュメンタリーの両分野においてアルゼンチン映画界の象徴的存在となっています。彼女は映画監督であり社会学者である父の血を受け継ぎ、クィア女性として、ホモフォビア、セクシズム、マチスモ文化の中で、セックスとジェンダーについての作品を発表し続けています。LGBTQ映画祭「アステリスコ」の創設メンバーとしてアルゼンチンの映画文化の振興にも携わっています。

 彼女の最新作『The Daughters of Fire』は、クィア女性同士の性交が衝撃的なまでに率直に表現されています。ポリアモリーな同性愛関係のユートピア的ビジョンを描いている点でカリの最もセンチメンタルな作品といえるでしょう。

画像3

 『The Daughters of Fire』はヴィオレタとアグスティーナという長い間の恋人同士である2人の女性が再会するシーンで始まります。ヴィオレタが語り手の役割を果たし、タイトルが流れる中で、1人の女性が自慰行為をするシーンが挿入されます。 脚本をアナリア・クセイロと共同執筆したカリは、女性の身体や欲望が映画史の中でどのように扱われてきたかについてこのオープニングで宣言しています。「重要なのは身体の表現ではなく、カメラの前で身体がどのように映像の一部になるかなのです」とヴィオレタのナレーションは語ります。

 カリはキャリアを通じて女性の理想的な秩序のあり方に挑んできました。短編映画『Barbie Can Also Be Sad』(2002)はバービー人形を使ったアルモドバル風のセクシャルなコメディです。

画像2

 トッド・ヘインズが『Superstar: The Karen Carpenter Story』でマテル社の人形でカーペンターズを描いたのとは違い、劇中のバービーは解剖学的な特徴を備え、性器を持ち、性交をします。バービーはパートナーのケンが浮気をしている間に複数の女性と性交を繰り返します。この映画は同性との性交に慰めを見出すバービーを描くことで異性愛の虚構を提示しているといえるでしょう。

 『The Daughters of Fire』はレズビアンの性行為がどのようなものであるかということをリアリズムをもって描き出します。この映画において性欲の対象となる女性は、2人、3人、5人と徐々に増えていき、次第にポリアモリー状態になります。性欲は若く美しい女性のためのものではなく、あらゆる体型、年齢、アイデンティティの女性に開かれています。

画像2

 『The Daughters of Fire』は、Jessie Jeffrey Dunn Rovinelliの短編『So Pretty』(2019)、ウォシャウスキー姉妹の『Sense8』、Arthur J. Bressan Jr.の幻のゲイ映画『Passing Strangers』(1974)のように、クィアなユートピアの世界観を提示しています。Leilah Weinraub監督のドキュメンタリー『Shakedown』とも共通する部分があります。この映画は2002年から2015年までレズビアン向けのストリップクラブで起きたいくつもの出来事を記録することで、ドキュメンタリーの形で「本物のレズビアン・ユートピア」を描いています。

 『The Daughters of Fire』の女性たちは、南米の地の果てであるパタゴニアの荒涼とした風景の中に、ユートピアとしての逃避場所を見つけます。

画像5

 『The Daughters of Fire』の構造がシンプルなことは、彼女の劇映画『Géminis』(2005年)や、近年のアルゼンチンの政治史を描くドキュメンタリー作品を観た人にとっては驚きかもしれません。社会学者であり映画監督でもある父ロベルト・カリは、イシドロ・ベラスケス(※)について撮影した映像とともに行方不明となりました。カリの両親は「汚い戦争」(※)の犠牲者です。カリにとって政治的なことは同時に非常に個人的なことでもあります。

※イシドロ・ベラスケス:1960年代、軍事政権下のアルゼンチンで強盗や誘拐を繰り返し、最後には警察に射殺された男。市民の間で反権力的ヒーローとして神話的存在となった
※汚い戦争:1970年代後半から80年代にかけて、軍事政権が活動家やジャーナリストらを拷問・殺害した国家的弾圧。死者・行方不明者は3万人を超える

  カリのドキュメンタリー作品「Cuatretros」(2016)と「Los Rubios」(2003)は、彼女が行方不明の両親を探すこととアルゼンチンの政治構造とをリンクさせて取り上げています。彼女のドキュメンタリーは劇映画に比べて洗練されていないかもしれませんが、最も過激で実験的な作品といえ、リティ・パンの自伝的作品『消えた画 クメール・ルージュの真実』を思い起こさせます。政治的暴力が彼女の両親に津波のように押し寄せ、その行方が解決されていないという歴史の闇は今なお残っているのです。

 カリはこう話します。「私はグランチャコ(国境付近の草原地帯)やキューバに行き、父と失われたフィルムを探しています。フィルムのアーカイブを調べ、動いている父の映像が残っていないか探しています。私は生きている家族と死んでいる家族を同時に探しています。私は革命と正義を探しています。私は行方不明の父と母を、遺骨を、名前を、彼らが私に残したものを探しています。父がイシドロ・ベラスケスを通じてしたかったように、ブルジョアの正義によって粉々にされた人々の怒りを通じて、私は私自身の声を探しているのです」。

画像4

 カリにとって性交による逃避と慰めは単なる快楽ではなく、権力に対する反抗でもあります。『The Daughters of Fire』は各国のクィア映画祭で好評を博していますが、映画の内容のみならず、この作品が性のあり方と個人的な政治性を結びつけていることも理由のひとつでしょう。

 『The Daughters of Fire』は女性の自慰行為のイメージが強調され、気のおけないパートナーとの時間の中で育まれる性のあり方を提示しています。この映画を単なる挑発的な作品だと切って捨てるのは簡単なことでしょう。しかしこの映画は、女性の快楽と性的想像力への讃歌であり、映画史において表現されてこなかったことを表現している唯一無二の作品なのです。

©Caden Mark Gardner 23 MAR 2020


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?