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アーサー・フレックは4度走る

アーサー・フレックは4度走る

 映画を映画たらしめているものはなんでしょうか。それは走ることです。文学、漫画、絵画、音楽、舞台、さまざまな芸術様式がありますが、「走る」という身体的躍動をまるごと収められるのは映画だけです。映画が発明されてから今日に至るまで走ることは映画の重要なテーマであり続けています。普段意識しませんが走るというのはかなりの異常行為であり、日常で私たちはめったに走りません。走るときはたいてい何か異常なドラマが起こっています。映画は日常におけるその異常性をあらためて突きつけてくれます。

 『ジョーカー』劇中で主人公アーサー・フレックは4度走ります。
①看板を取り戻すために走る
②射殺したあと高揚して走る
③母の入院記録を奪って走る
④警官から逃げるために走る

 この4度の疾走がそれぞれ起承転結と結びついていることがわかるでしょうか。悪ガキに看板を盗まれるところからすべてが始まり、衝動的に3人の男を射殺することで物語が動き始め(余談ですがエンドクレジットが”Wall street three”でちょっと笑いました)、母の入院記録を見て自分の中の人間性が崩壊し、警官から逃げながら今から自分が為すべきことにはっきりと目覚めます。

 そして走り方に注目すると身体の動かし方が徐々に異様になってくることがわかります。1度目では道路を走る車をよけながら申し訳無さそうに道を横切りますが、4度目ではまったく同じシチュエーションながら車などおかまいなしに真っ直ぐ走って衝突しています。これは異常です。

 また1度目ではピエロ靴を履いているにもかかわらず驚くほど速いスピードで追いかけていますが、だんだんドタドタしたような動きになり、3度目ではギャグのような走り方で階段を駆け下り、最後は踊っているのか走っているのかわからなくなるまでになります。走り方のバリエーションの豊富さに目を奪われます。

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 ホアキン・フェニックスはスケジュールの関係で映画が順撮り(脚本の順番どおりに撮影すること)でないことに最初はフラストレーションを感じていたそうです。それはそうですよね、これだけ難しい変化を演じるのですから。ところがそこはさすが名優、「ジョーカーのシーンを撮影の前半で演じたことで閃きがあった。今まで演じてきたアーサーは間違いだったってね。キャラクターへの理解度がまったく違う段階に達し、アーサーへのアプローチを変えた」と語っています。

 4度走ると書きましたが、彼は最後の最後でもう1回だけ走ります。5度目はすべての終わりであり始まりでした。

アーサー・フレックは左手で文字を書く

 私は昔から「左利き映画」について強く注目してきました。フィクションにおける左利きは「そう設定しないとそうならない」点で非常に重要な要素です。皆さんがなにか創作するときそのキャラクターを左利きにするでしょうか。わざわざ左利きのキャラクターが出てきた場合、それはどういう意味をもたせられているのでしょうか。

 日本でも一昔前は気味悪がられていましたがキリスト教圏での扱いはその比ではなく、「悪魔は左手に宿り、病気は左手からやってくる」と言われるように、絵画の中の悪魔は左利きで描かれていることが多いです。マタイ伝の「右手のすることを左手に告げるなかれ」という一節は一般に「善行をするときはなるべく人に知られないようにこっそりとすべきである」という意味だとされていますが、「悪魔に考えを知られないように」という意味でもあります。Rightは正しくLeftは余りものなのです。

 私はこのシーンを忘れることができません。アーサー・フレックは左利きです。

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 ホアキン・フェニックス自身は左利きではありません(ちなみに亡兄リバー・フェニックスは左利きでした。左利きの俳優は覚えているので)。そして原作のジョーカーも左利きではありません。英語の掲示板で「あれ? ジョーカーって左利きだったっけ?」という疑問を持った人がたくさんいたようで、原作コミックスから利き手がわかるシーンを抜き出していましたが左利きであることを示唆するものはありませんでした。つまりこれはホアキンの役作りによってなされた創作です。

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 アレクサンドル・デュマの『モンテ・クリスト伯』に左手で文字を書くと人格が匿名になるという一節がありますが、ホアキンの左手から一文字一文字アップで映し出される筆跡は人格が匿名になるどころか、アーサーという男のバックグラウンド(学校に行っていたか、精神を病んでいるかなど)を完璧に表現しています。左手で細かなニュアンスを出すために相当訓練したのでしょう。

 彼は銃も左手で撃っていましたね。銃を左手で撃つのはかなり難しいので、役作りのために練習したことが想像できます。

アーサー・フレックはバスに乗る

 この映画では黒人女性という存在がシンボリックに扱われています。隣人のシングルマザー、ソーシャルワーカーもそうですし、バスで「子供に構わないで」と冷ややかな視線を送る女性も黒人です(あまりこういうカテゴライズは好きではないですが明らかに意図的なのでそれに従います)。

 バスと黒人女性といえばやはり思い浮かべるのはローザ・パークス事件です。1955年当時バスは黒人席と白人席に分かれ、白人が多く乗ってきたら黒人席を譲らなければいけませんでした。この映画の舞台(1980年代初頭)のわずか25年前には黒人がバスに座るのが普通ではない時代があったのです。かつて白人男性(強者)がバスで黒人女性(弱者)を見ていた視線は、そのままアーサー(弱者の白人男性)への視線に跳ね返っています。

 時代設定が1980年代初頭であることは直接は描かれませんが、冒頭に出てくるワーナー・ブラザースのロゴがモスバーガーを逆さまにしたようなもの(ごく短期間のみ使われた)であることで表現されています。

 近年のハリウッド映画では白人男性性は否定されるべきものとして扱われるのが普通です。白人男性にドリームを与えた『ロッキー』シリーズは時代が下って2010年代には黒人が主役の話になりました(全然関係ないですが『ロッキー』も『ジョーカー』も職場の専用ロッカーを撤去される話ですね。専用ロッカー大事。そしてロッキーは階段を上る映画、ジョーカーは下る映画)。英語の評論を読むと「強者だから叩いていいとされている白人男性が弱者サイドになったときのカウンターパンチ」というようなものが非常に多く、このあたりは日本的な感覚だとなかなか驚かされます。

アーサー・フレックは冷蔵庫に入る

 ここからは小ネタです。

・コメディ映画が作れなくなった時代のコメディ映画
 監督のトッド・フィリップスは2009年のコメディ映画『ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い』が大ヒットし、脚本も高く評価され、ゴールデングローブ賞 作品賞 (ミュージカル・コメディ部門)を受賞します。この年のライバルはあの『(500)日のサマー』と『NINE』でした。30代にして頂点を極めてしまったわけで、このときの彼はまさに天才と呼ぶにふさわしい存在でした。

 そんな彼は『ジョーカー』を作るにあたり、「最近はウォーク・カルチャー(不当な差別やバイアスを撤廃していこうとする価値観)のせいでコメディ作品を撮ることができない」と発言したと報道され、世界中から叩かれています。実際のニュアンスは多少異なるようですが、一部のコメディアンにとっては「言えることが少なくなった」というのは偽らざる本音ではないでしょうか。時代の変化についていけず何を言ってもウケなくなったコメディアンは劇中のアーサーのように滑稽です。コメディ映画が作れなくなった時代にコメディアンがコメディ映画にギリギリ片足を残して作ったのが『ジョーカー』でした。

・金獅子賞
 『ジョーカー』はヴェネツィア国際映画祭で最高賞の金獅子賞を受賞しましたが、ここ数年ヴェネツィア国際映画祭はすっかりアカデミー賞の前哨戦的な色合いが強まりました。2年前の金獅子賞『シェイプ・オブ・ウォーター』はその勢いのままアカデミー作品賞を受賞したのは記憶に新しいところです。『シェイプ・オブ・ウォーター』は1960年代という時代設定とジャンル映画の型を借りることで現代の移民、異人種、不寛容の問題を鋭く警告しています。それと同じように『ジョーカー』が1980年代という時代設定とアメコミ映画の型を借りることで現代の新自由主義、社会福祉のカット、貧富の差の拡大を描いているのは誰の目にも明らかなところです。同時代を描いた映画はしばしば同時代を描かないものです。

・冷蔵庫
 冷蔵庫の棚を取り外して自分が冷蔵庫に入る印象的なシーンがありましたよね。あれってもしかして「ストーブにくくりつけられたせいで頭がおかしくなった」と知って、冷やして自分を元に戻そうとしていたのでは……(?)。

・父
 『ジョーカー』と同じ映画祭に出品され、日本でも米国でも同時期に公開されている映画が『アド・アストラ』です。この2作は大きな共通点があります。それは父親の不在とそれを希求する心理です。『ジョーカー』は存在しないと思っていた父がはるか向こうにいることがわかり、やっとたどりついて「ただ抱きしめてほしいだけなんだ」と言う話です。『アド・アストラ』も存在しないと思っていた父がはるか向こうにいることがわかり、やっとたどりついて「ただ抱きしめてほしいだけなんだ」と言う話です。こう見るとまったく同じですね。

 主人公が苦難の末に父に出会うという映画は何度も何度も繰り返し作られています。人類史上世界一読まれた本が「苦難の末に父に出会う」というプロットだからです。そしてこういった映画ではけして「父は偉大だった」「父は優しかった」とはならず、主人公が望むものは得られず身勝手な父に振り回されます。神は身勝手だからです。


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