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「死」について考える

死にたい人、死にたくない人、死ねなかった人、大切な人が亡くなってしまった人。生きている限り、人は必ず「死」と向き合う。「死」を言語化して認識するのは、地球上で人間だけだ。きっと、そこに「意味」を見出すのも人間だけである。

人の身体には莫大なエネルギーが流れている。細胞が分裂し、ホルモンが分泌され、電気信号が流れている。よく「死ぬのは一瞬」と言う人もいるが、それを全て止めてしまうのにも膨大なエネルギーが必要だと思う。しかし、そんなに大変なことなのにも関わらず、命が無くなった後に残るのは、永遠の無だ。温かく柔らかかった皮膚は、ゴムのように硬く冷たくなる。心地よい体重は、鉛のように重くなる。自在に動いていた骨たちは、折れてしまうほど脆く儚くなっていく。哲学も宗教も全て取り払って、肉体だけが残り、消えていく。それが私の認識する「死」である。彷徨う魂は、あるのかもしれない、無いのかもしれない。ただ、残された人たちの心の中には確かに存在している。

生きている限り、皆が等しく持っているものが「死」だ。そこに例外はない。この国では、切腹を「尊厳死」として扱っていた時代があった。今日も何処かで誰かが、自分で命を絶っている。腹を切って出るものは「尊厳」ではなく、赤く光る内臓である。血液は温かく生臭い。傷口は熱い。「死」を象徴化し過ぎてしまうと、その先に待っているのが極楽浄土の様に感じてしまうが、それは違うと思う。待っているのは「」だ。自分の人生を全て記録できるのは、自分しかいないのだから、死んでしまったらもう何も残らなくなってしまう。「死んで何かを遺す」のなんて到底できそうにないのだから、生きているうちに記していきたい。真正面から「死」と向き合うことで「生」とも向き合う。それが私の死生観である。

生きてる方が痛いし辛い。そんなの当たり前だ。だからこそ、他の痛みからは逃げていい。だって生きているのだから。「生きていれば楽しいことがある」なんて無責任なことは言いたくない。そんなの本人にしか分からない。ただ「死んでしまいたい」の裏にあるのは、「きちんと、生きたい」なのかもしれない。生きることに真面目すぎる人が、「死」を自分の逃げ場として捉えてしまうのかもしれない。

暑くなって来た、汗が噴き出す、コンクリートに反射された光を眩しく感じる。雨上がりの匂いがする。スマートフォンの光が目に刺さる。これが「生」だ。貴方が今している呼吸も「生」だ。私たちは生きている。意思に関わらず、生きようとしている。物凄いエネルギーで、生かされていることを、一瞬足りとも忘れたくないと思った。

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