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痛いのと、痛くないのと。

「死にたい」と思う人は多いけれど「あ、死ぬかも」を経験した人ってどれだけいるのだろう。

私が人生で初めて「死ぬかも」と思ったのは、熱性けいれんを出したときだった。(いま思えば小児てんかんだったのかもしれない。)

とにかく頭がぼーっとして、ぐらぐらしたまま唾液が止まらなくて、気付いたら銀色の大人に運ばれて、うるさい車に乗せられていた。ピーポーピーポーという音で再び意識が飛んで、目覚めた時には、真っ白な世界。天国かなぁと思った。

その次は、大学4年生のとき。当時、私は1日2箱半を吸いきるヘビースモーカーガールだった。その日も「少し呼吸は苦しいけど、タバコ吸えるから大丈夫〜」とタカをくくっていたら、帰宅後に本格的に息ができなくなって救急搬送されたのだ。パクパクしているのに空気が全然入ってこなくて「あ、死ぬ」と冷静に思った。結果的には、肺炎と喘息と気管支炎のトリプルパンチで、今はもうタバコを受け付けない身体になった。

まぁ、そんな感じで「死ぬな」と思ったことは何度かあった。でも、もう頭がぼーっとして救急車に乗せられていたあの感じや、パクパクしても息が吸えないあの苦しさを、もう鮮明には思い出せない。

初めて失恋したとき、頭が真っ白になって何も考えられなかった。自分の価値も分からなくなったし、他人に振り回されている自分も大嫌いで、とにかく一生この苦しみを背負っていくのだろうと思った。でも今の私は、その人の顔すら鮮明に思い出せない。交わした言葉も、最後の挨拶も、笑えるほど記憶に残っていない。それ以外でも、生きてきた中で、耐え難い苦しみや痛みは何度も経験してきたけれど、その辛さをすべて思い出せるかといったら違うし、きっともう既に自分の脚色すら含まれていると思う。

何が言いたいのかと言うと、絶望は永遠に続くものではない。その痛みを、3年後の自分が全く同じように抱えているかと問えばそれは違う。その時にはその時の、悩みや痛みがある。だから私はいつでも楽観的に考える。「なんとかなるさ、時間が解決してくれるさ」と。

人は「説明のつかない痛み」を長く引きずりやすい。しかし、人間というものは案外強くできていて、痛みや苦しみのメカニズムを言葉で説明できるようになると回復の一歩が見つかったりするのだ。そう、いわば言語化は「絆創膏」の一種とも言えるだろう。

パクパクしても息ができない苦しさは、悲しいのに泣けなかったり、傷ついているのに痛くなかったり、そんな絶望感と似ているなぁと、私なりに解釈できたとき「あぁ生きていける、乗り越えられるワ」と思ったわけだ。

どんなに痛くても、苦しくても、私の頭は回転をやめない。なんで痛いの?なんで苦しいの?なんで寂しいの? 1つの苦しみには100の疑問が付いてきて、この私の強さといったら100の解答を用意してしまうことなんだろう。

痛いのと、痛くないのと、
痛くなくなってきたのと、
それが生きている証なのかもしれない。

#人生 #ひとりごと #真夜中のつぶやき
#痛み #悩み

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