「近代」とオリエンタリズム

平成18年11月17日の記事(http://blog.livedoor.jp/k60422/archives/50649559.html)。

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 オリエンタリズムという議論がある。詳細はリンク先のウィキぺディアを見てほしいが、要はイメージ論のことである。オリエンタリズムの議論は発展して、今では「東洋から見た西洋」、「東洋から見たアフリカ」などさまざまなイメージに関する議論となっている。例えば、アフリカと言えばサバンナを思い浮かべてしまうが、実際にはアフリカには高層ビルも立ち並んでいるのである。「オリエンタリズム」とはそういう「イメージによる思い込み、先入観」のことを今回の記事では指すこととする。

 用語解説はここまでにして本題に入る。我われは「西欧近代」をイメージするときに、「自由」とか「平等」といった市民革命の旗印を思い浮かべ、ヨーロッパはさぞ自由で平等な国なのだろうと思ってしまう(もっとも、最近はこのような純粋無垢な言説は減ってきたが)。その上で「まだまだ近代化が足りない」とか「反近代的」だとか、そういう認識を前提に「アナクロニズム(時代遅れ、時代錯誤)」と批判したりされたりする。しかしこういう言い分は正当なのだろうか。

 確かにヨーロッパは最初に体系的に「自由」、「平等」といった思想を打ち出した場所である。だが、そのヨーロッパが意外に「保守的」であることはそこまで知名度のある話ではない。イギリスでは階級とか爵位が未だに残っている(ここまでは有名)。ヨーロッパに現れたさまざまな「近代的」言説は、ヨーロッパにおいては現実という暗黙の前提に敗れ続けているのである。だから一番最初に市民革命を成し遂げたイギリスには爵位が残っているのである。そして後になって近代思想を導入した国ほど、近代思想に忠実な、「近代的」な国となってしまっているのである。「近代思想にどれほど忠実か」を「近代的」の基準とするならば、イギリスよりドイツのほうが「近代的」で、ドイツより日本のほうが「近代的」になってしまうのである。もしかしたら、この後支那のほうが日本より「近代的」になるかもしれない。あるいはアフリカのほうが…。こうなってくると何を基準にヨーロッパのほうが近代的だと思っているのか、根拠が揺らいでくる。西尾幹二氏はこういっている。「われわれは百年の近代化の道を歩きつづけて、気がついてみると、ヨーロッパよりも日本のほうが古い因襲や習俗をすっかりふるい落としている。日本人の生活様式は、もう伝統を守ろうとする頑なさをもたない。文化の平均化は急速に進んでいる。平等意識はヨーロッパよりも発達している。階級の差などと言うものももう拘束力を持たない。職業の世襲も行われない。便利な生活用具はむしろ日本のほうに多い。日本人にはいかなる神話もなければ権威もない。信仰心も一般に薄い。共同体意識も薄弱である。われわれは自由である。つまり、完全に『個人』である。もしも古い因襲や習俗や権威からの開放を『個人』のあり方の唯一の目標とするなら、日本人はいまやそういう目標に到達してしまっているとさえいえるのかもしれぬのである」。そう述べた上で西尾氏は「人は自由に耐えられるのか」や「共同体から離れた『個人』が本当にありうるのか」という問題設定をしているのである。そして「人は不自由にぶつかって初めて、自由の何であるかに触れるのである」という結論に落ち着いている。人は自由に耐えられないし、「独立した個人」など幻想に過ぎない。独立した個人があると思っている人は、自分が不可避的に何に依存しているのか、おそらくそれが空気や水のように身近すぎて見えなくなってしまっているのであろう。世にアナーキストという思想を持って人がいるが、アナーキストこそ、「自由」、「平等」、そして「独立した個人」という近代思想の熱烈な原理主義者に他ならない。近代思想の実現はそのままアナーキーな状態へ突き進むことなのである。

 特に我われ非西洋人が「近代化」と言うときは、往々にして「ヨーロッパ化」に他ならない。しかしその「目指すべきヨーロッパ」と、「現実のヨーロッパ」との間には抜きがたい溝があるのだ。これこそオリエンタリズムに他ならない。オリエンタリズム的イメージにより、「西洋こそ近代」と思い近代化に邁進した結果、実は西洋よりも遥かに「近代的」で、遥かにアナーキーな世界が実現してしまったのである。

 ところが今に至っても日本の伝統を取り戻す試みを「時代に逆行するアナクロニズム」であるかのように冷笑する向きは無いとは思えない。確かに前近代をそのまま再現しようと言う行為はアナクロニズムであるし、我われが近代化することによって得たメリットを見つめていない議論であろう。しかし「自由」や「平等」、「個人」と言った近代思想に対し、もっと懐疑的になる必要があるのではないか。近代思想の実現者は、「西欧」に無く、「西欧化を目指した非西欧」にあることを思いながら。

*参考文献:「ヨーロッパの個人主義」(講談社現代新書、西尾幹二)

      「ヨーロッパ『近代』の終焉」(講談社現代新書、山本雅男)

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