安政5年

【江戸時代の台風(「颶風(ぐふう)」)と台風対策~勝海舟の『氷川清話(ひかわせいわ)』より】見えてくるのはいかに徳川時代の防災に対する心構えと対応が素晴らしかったか見えてきます。

【江戸時代の台風(「颶風(ぐふう)」)と台風対策~勝海舟の『氷川清話(ひかわせいわ)』より】見えてくるのはいかに徳川時代の防災に対する心構えと対応が素晴らしかったか見えてきます。
皆さま 台風19号が上陸してきます。何事もなく無事通過することを願うばかりです。さて久しぶりに自宅にいます。
じゃあ江戸時代は?少し調べてみました。
■江戸時代に関東地方を襲った「安政3年(1856年)の台風」江戸が壊 滅!?の凄まじさ歴史上の台風といわれています。死者は10万人出したといわれています。
その前に 実は「台風」という名称が使われるようになったのは1956年(昭和31年)と、最近のことです。それまではどう呼ばれていたのでしょうか?
平安時代は「野分(のわき・のわけ)」と呼ばれていました。風が野の草を吹いて分けることからこの名称が付きました。あの『源氏物語』にもその名称を確認することができるそうです。江戸時代になると「颶風(ぐふう)」と呼ばれるようになり、明治時代になって「大風(おおかぜ)」や「颱風(たいふう)」と今日にも通ずる呼び方になりました。
歴史上で有名な台風が「弘安の台風」。1281年(弘安4年)、この台風が日本に侵攻してきたモンゴル軍を襲い、撤退に追い込みました。このことから「神風」とも呼ばれたこと日本史で習ったかと思います。
「安政3年の台風」は1856年9月23日から24日の夜にかけて関東地方を襲った台風。非常に強い勢力を持ったまま、伊豆半島付近から江戸の西側を通過したそうです。恐るべきはその猛烈な風でした。風による被害だけでなく、それによって引き起こされた高潮と洪水が江戸の町を襲ったそうです。被害は江戸をはじめ、関東の広い範囲に及び、約10万人もの死者を出したそうです。ーJapaaanー参照
■勝海舟さんの談話より
 今回は、明治二十九年に、東北で津波が起きたときに、勝海舟さんが明治政府と江戸時代の対応の比較を述べた文章をご紹介します。いくら天下太平の江戸時代とはいえ、地震・津波・台風・洪水・飢饉・火事・疫病は頻繁にやってきていたので、徳川幕府という軍事政権の対応や考え方が分かって興味深いものがあるのです。
参考文献【『氷川清話(ひかわせいわ)』 勝海舟著 講談社学術文庫P175より】
★難民の救済
 天災とは言ひながら、東北の津浪(つなみ)は酷(ひど)いではないか。
 政府の役人は、どんなことをして手宛(てあて)をして居るか、法律でござい、規則でございと、平生やまかしく言ひ立て居る癖に、この様な時に口で言ふ程に、何事も出来ないのを、おれは実に歯痒(はがゆ)く思ふよ。全体人間は幾(いく)ら死んで居るか、生き残りたる者はまた幾らあるか、おれは当局で無いから知らないけれども、兎(と)にも角(かく)にも怪我(けが)人と飢渇(きかつ)者とは、随分沢山あるに相違はない。
この様な場合に手温(てぬ)るい寄附金などと言うて、少し計(ばか)りの紙ぎれを遣(や)つた処が、何にもならないよ。昔、徳川時代の遣り口と、今の政府の遣り口とは、丸で違ふよ。
今では騒ぎ計(ばか)りいらくつて、愚頭(ぐず)々々して居る内には、死ななくてもよい怪我人も死ぬし、飢渇者もみんな死んでしまふよ。ツマリ遣り口が手温るいからの事だ。何と酷(む)ごたらしいぢやないか。
徳川時代にはチヤント手が揃って居るから、イザと言ふこの様な場合になると、直(す)ぐにお代官が被害地に駆け附(つ)けて、村々の役人を集め、村番を使うて手宛をするのだ。
先づ相応な場所を選んで小屋掛けをするのだ、此処で大炊(おおた)き出しをして、誰れでも空腹で堪(た)まらない者にはドン/\惜気(おしげ)もなく喰(く)はせるのだ、さうすると、この様な時には、少し位、身体の痛む者も、みんな元気が附(つい)て来るものだよ。
炊き出しの米は、平生やかましく責立(せめた)てなくとも、チヤンと天災時の用意がしてあつて、何処(どこ)へ行きてもお蔵米がかこつてある。それだからイザ天災といふ時でも、苦労せずに、窮民を救ふことが出来るのだ。
窮民に飯を喰はせなければ、みんな何処(どこ)かへ逃げて行つてしまふよ。逃げられては困るヂヤないか、どこまでも住み慣れたる土地に居た者を、その土地より逃がさずにチヤンと住まはしておくのが仁政と言ふものだよ。
それから怪我人は、矢張り急場の間に合はせに幾らも大小屋を建て、みんな一緒に入れて置くのよ。さうして、村々のお医者はここへ集つて夜の目も眠らずに、急場の療治をするのだ。
 何でもこの様な時は素早いのが勝ちだから、ぐづ/\せずに療治していつたものだ。それゆゑ、大怪我人も容易に死な>かつたよ。
徳川時代は、イクラお医者が開けないと言うても、急場になつてマゴ/\する様な者はなかつたよ。それに、なか/\手ばしつこい事をして療治するから、ドンナ者でも手遅れの為(ため)に殺す様な事はなかつたものだよ。
左様(さよう)の風にやつて行くと津浪のために無惨なる者も憂き目を見る様な事が無くなつて来る。それから、三ヶ年も五ヶ年も、ツマリ被害の具合次第で納税を年賦にして、ごく寛(ゆ)るくしてやるのだ
こう見てもいかに徳川時代の防災に対する心構えと対応が素晴らしかったか見えてきます。
それは 思いやりとお互い様そして共生の文化だったかと思います♪
かんながら ありがとうございます

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