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【時事】沖縄「復帰」50年を迎えて

概要

 沖縄県は2022年5月15日、日本「復帰」50年を迎えた。50年前の5月15日と同じく雨の降る中で迎えた復帰の日だった。宜野湾市コンベンションセンターでは沖縄復帰50周年記念式典が開催され、会場の周りでは「記念式典粉砕!」「辺野古新基地建設反対!」という声が響いていた。警察によって道は封鎖され、物々しい雰囲気が漂っていた。

 1969年11月に佐藤・ニクソン会談で日本「復帰」が決まったが、その内容は当時の沖縄が求めていた「核抜き・本土並み」とは程遠いものだった。米軍基地は変わらず沖縄に在り続け、新たに自衛隊が配備された。戦争体験者は「日本軍の再来だ」と言った。

 復帰50周年記念式典のオープニング映像「沖縄の歩み」では、沖縄戦の歴史に軽く触れた程度で、基地問題については一切触れられなかった。沖縄が日本に復帰したことを祝うムードで満ちていた。

実際に式典会場付近に行ってみて

 修士論文と一緒に提出するドキュメンタリー映像作品制作のため、雨の降る中、ビデオカメラ SONY FDR-AX60 を片手に宜野湾コンベンションセンターに行ってきた。幸い車を降りたあたりで雨も上がり、映像撮影に集中することができた。会場内には関係者以外は入れないので、会場の外の様子を撮影することに。

会場には関係者とプレス以外は立ち入り禁止=撮影・筆者

 物々しい警備の数で、至るところに警察官が立っていた。パッと見た限りでも、福岡県警と熊本県警がやってきており、別の場所には宮崎県警も来ていると周りを歩く人たちが話していた。宮崎県警と言えば、今年の1月にうるま市で男子高校生の運転するバイクが巡回中の男性警察官と接触し、高校生の右眼球が破裂・失明した事件を思い出す。接触したのは宮崎県警から沖縄県警に特別出向している警察官だった。2016年にうるま市で起きた女性暴行殺人事件を受けて始まった制度である他都府県警からの特別出向で沖縄の若者が取り返しのつかない怪我を負わされるという、どこまでも沖縄をめぐる不条理を痛感させられる事件だった。

物々しい警備=撮影・筆者

 会場入口の向かい側の道では式典反対を叫ぶデモ隊がシュプレヒコールを叫んでいた。僕は最初、このデモ隊とは国道58号線を挟んで反対側の歩道(つまり会場入口の目の前)にいたので、横断歩道を渡ってデモ隊のすぐ近くに行き、撮影をすることにした。旗などを見る限り、おそらくは中核派の集団だと思われる。

式典反対を叫ぶデモ隊(反対車線から)=撮影・筆者
式典反対を叫ぶデモ隊(目の前で撮影)=撮影・筆者
式典反対を叫ぶデモ隊(目の前で撮影)=撮影・筆者
式典反対を叫ぶデモ隊(目の前で撮影)=撮影・筆者

 先ほどまで僕がいた会場側の歩道で細々と「基地問題反対」のプラカードを掲げながら訴えている人たちは、迷惑そうな表情をして中核派の集団を見ているように見え、こういう中核派のやり方が本当に支持を集められるのか、問題解決のための糸口になるのかは、正直微妙だと思った。デモが悪いとかの短絡的な話ではなく、伝え方の問題であったり見せ方の問題、さらには歴史的な問題も含めて、あらゆる不条理がこの場に集約されているような居心地の悪さをどこか感じていた。

元山仁士郎さんのハンガーストライキ

 会場側の歩道では宜野湾市出身で一橋大大学院生の元山仁士郎さんがハンガーストライキを実行していた。元山さんは5月9日からハンストを実行しており、この日で7日目、おそらく体力の限界にも近い状態だったのではないかと思う。そんな中での体を張った意思表示がどんな意味を持つのか、この現場に実際にいることでヒシヒシと感じるものがあった。

ハンガーストライキをする元山仁士郎さん=撮影・筆者

 最初は国道58号線を挟んで会場側にいた元山さんだったが、会場から出ていく首相たちの乗る車に見えるようにか、反対側の歩道(先ほどの中核派の集団がいた側の歩道)に移動していった。そのころにはすっかり道も封鎖されてしまい、反対側の道にわたるだけでも一苦労だった。中核派の集団を抜け、会場からの出口に近い場所に移動出来た元山さんだったが、次第に警官隊が元山さんの周りに集まってきて道をふさぎ、最終的には常駐警備車両まで使って道路から元山さんが完全に見えないようにしてしまった。

 警備をすること自体が悪いとか間違っているとかは思わない。それこそ首相を含め要人がたくさん集まっている会場だから、警備するのは当然だろう。だが、いったいどんな大儀があって、自分の体を追い詰めてまで訴えている若者の声をかき消すのか…。一切暴力的な訴えをしていないにもかかわらず、それすらも顧みられない国家運営の在り方に、疑問を持たざるを得ない現場だったように思える。

元山さんを隠すようにする常駐警備車たち(いわゆる「かまぼこ車」)=撮影・筆者
表情が曇る元山さん=撮影・筆者
記者たちの質問に答える元山さん=撮影・筆者

 ハンストの進捗や現在の気持ちなど、一通り記者たちの質問に答えた後、元山さんは同伴した医師のもとで体調チェックを行い、ドクターストップを受けた。ドクターストップを受けた旨と今後の展望について記者たちに説明をしていた元山さんの表情は無念感を募らせているように見えた。ちょうど地元の高校の放送部の生徒たちが元山さんの取材に来ており、カメラを回していたのが印象的で、元山さんも「積極的に質問をして良いんだよ」と優しく声をかけていた。月並みだが、こんなどうしようもない状況の中でも、なんだか未来に希望の持てる一幕だったなと思った。

ドクターストップを受ける元山さん=撮影・筆者
元山さんを取材する高校生たち=撮影・筆者


「復帰」50年とは何だったのか

 そもそも「復帰」とは何なのか。言葉一つをとっても、「復帰」なのか「返還」なのかによって見え方や聞こえ方は全然違うように感じる。これらの言葉において主語がいったい誰なのか意識することは非常に重要な視点ではないか。より正確に言えば、「施政権返還」が一番しっくりくるかもしれない。なんにせよ、沖縄が本当の意味で独立した自主性、自己決定権を持てているのかと言えば、まったくそんなことはないと思う。

 果たして本当に「復帰」50周年が祝いの席だけなのかと言えば、そんなことはないはずだ。もちろん沖縄が1972年の時点で日本に返還されていなければ今よりももっと酷い状況になっていた可能性は十分にある。しかし、だから「復帰」が100%良いことだらけだったかと言えば、それも短絡的すぎると思う。

 日本全体で見たときの米軍基地の沖縄への負担集中は疑いようのない事実で、3日に1回は米軍関係者による事件事故が発生している現状を見れば、お祝いできる感情にならない人がいることも容易に想像がつくような気がする。もっと良い「復帰」の形はなかったのか、本当に良いところだけを見て現状に満足してしまっても良いのか。そういうある種の踏み止まらせるような力が、式典会場の周りにはあったように思える。

 「復帰」50年を迎えるにあたって、本当に見るべきものは何なのか。沖縄が積み重ねてきたポジティブな側面を見てお祝いするのが一概に悪いとは思わないが、お祝いムードに流されて本当に解決しなくてはいけない問題から目を背けてしまうことになるなら、いっそお祝いなんてしないほうが良いような気もしてしまう。

 大事なのは、50年前に解決できなかった問題が今の沖縄の問題に直結しているということで、逆に言えば今を生きる自分たちが解決できなかった問題は、きっと50年後の沖縄を苦しめることになるだろうということ。そういう視点を持ったうえで、「復帰」50年を過ごすことが、問題を解決するための小さな一歩になると思う。

ちなみに・・・

 2022年は沖縄の日本「復帰」50年というだけでなく、琉球藩設置から150年の年でもある。琉球藩設置を皮切りにして琉球処分が行われ、沖縄が日本に組み込まれていったという歴史を見ると、単に「復帰」50年を掲げるだけでは不十分な気もする。強めの言葉で「植民地主義」という言葉が沖縄の中では使われたりしますが、沖縄という地域のより深い部分まで理解しようと思ったら、どうしてもここら辺のエスニシティまで見ないといけないと思う。自戒の念も込めて。

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