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ガイノセントリズム論序説:なぜ我々は女性の「お気持ち」に対して何ら抵抗できないのか?

近年様々な論客が「フェミニズムに対する敗北宣言」のような記事を書いており、その多くには「フェミニズムは『政治的にただしい』から我々は抵抗のしようがない、フェミニズムが蔓延した社会でどう生き残るかを考えたほうがいい」という論調が見られます。

ただ、我々はフェミニズムを「政治的にただしい」とも、「リベラリズムに連なる」とも思っていません(もちろんこれらに則ったフェミニズムもあることは私も理解していますが、内実としてそうではないという意味です)。抵抗のしようがないのは、他にも大きな要因があるのです。

「政治的にただしい」から?

もし「政治的にただしい思想」であるなら、少なくともその独善的でダブルスタンダードに満ちた部分は、より弱者性の高い勢力によって淘汰されるはずです。しかし実際にはそうはなりませんでした。それは「より弱者性の高い勢力」の思想・主張をも取り入れたフェミニズム団体の共同声明彼女らがどう反応したかをみれば明らかです。

そしてもう一つ注目すべきは、この共同声明に係る論争について、反フェミニズム(といっても様々な批判の方向性があるのですが、それについては後述します)の代表的論客、はっきり言って白饅頭とかよりも上の、オピニオンリーダーのオピニオンリーダーと言うべき存在であるProf.Nemuro氏が、共同声明に反対するツイフェミを支持する立場をとったことです。

フェミニストに辟易してきたアンチフェミは、旧フェミを脅迫する新フェミやTを応援したくなるかもしれないが、それはnaïveに過ぎる。旧フェミは所詮は強欲女、我儘女、ヒステリー女だが、理念主義者の新フェミはポル・ポトの同類であり、潜在的な危険度は比較にならない。「性別による特性は存在しない」や「外見と身体は男だが性的指向及び性自認(自称)は女の男装する人物は女→男扱いは許されない差別」を社会の基本原理にすることを支持する人は別だが、そうでない人は「敵の敵は味方とは限らない」ことをよく考える必要がある。
Feminist establishment / women in powerとは『動物農場』の🐷であり、他の動物(市井フェミを含む一般大衆の女)は利用するだけの存在に過ぎない。T男が🐕の役割を果たしてくれることが、エリートフェミがトランスジェンダリズムを支持する理由の一つである。T男を異民族に置き換えれば移民問題と同じ構図になる。
『動物農場』の最後では、🐷が敵だったはずの人間たちと手打ちするが、エリートフェミが欲するのもpowerであってsisterhoodではない。
アンチフェミはツイフェミと対立するTの男や🐷を味方だと思わない方が良い。🐷の思う壺である。

要するに「草の根フェミの被害者カルチャーよりもLGBTQ+のムーブメントのほうが社会を滅ぼす危険性が高い」ということです。

このような「特定の集団を差別するために“女の権利”を利用する」というスタンスは、今に始まったものではありません。古くはナチスドイツの時代、このままでは町の娘たちがユダヤ人に寝取られ強姦されてしまうといって反ユダヤ主義が煽られていましたし(いわゆる「フェミナチ」というミームもこれが元になっていると考えられます)、この構文はセルビア人がボスニア人を民族浄化しようとした時も、フツがツチを虐殺した時も、日本のネトウヨが在日外国人に対してヘイトスピーチをばら撒いていた時にさえも現れました。

よく「日本のフェミやリベラルは韓国人男性が日本人女性をレイプしてもだんまり」と言われますが、はっきり言ってそのスタンスのほうが左派の考え方からしても、「政治的ただしさ」に照らし合わせても、よっぽどまともな反応です。逆にこうした左派のスタンスに抗議するフェミニストも多くいますし、それがきっかけでネトウヨ側に転向した女性もいるほどです。

あるいは、最近の小田急線通り魔事件をきっかけにして出てきた「フェミサイド」という言葉にも、そのような念を感じずにはいられません。特に日本の女性は(「自分以下」ではなく)「自分の倍以下」の生活水準の男性を人間として見られない人がまだまだ多数派です。私も加害者の行動は支持できませんが、その背景になっているものは明らかに、全く強者の“蔑視”と言えるものではなくこのような「多数派女性の性質」に対する本物の“憎悪”です。そしてやはりフェミニストを名乗る男たちからは「自分の妻や娘が標的になっていたかもしれない、だからこそ抗議しなければ」という反応が出ており、共同声明を支持した側と思われる人から「家父長制のフィルターを通さないと抗議できないのか…」と呆れられていたようです。

以上のように、フェミニズムは決して「政治的にただしい」ものとは言えませんし、ましてリベラリズムに連なる思想とさえ言えるものではないのです。ではなぜ「政治的にただしい思想」「リベラリズムの中核思想」と見なされていたのか。

簡単な話です。
彼女らが「リベラル思想」「政治的ただしさ」を牛耳る存在であったから。

そしてそれを牛耳っていた手法も陰湿です。下の記事では、リベラル側の男性のことを中心に語っていますが、保守側においても同様の構図があるものと考えられます。

そしてこの構造は、「リベラル側」の男性にも顕著にあります。久米泰介氏によれば、既存の、フェミニズムに親和的な男性解放論のリーダー格といわれる人々(いわゆる男性学者)は、その妻にフェミニストの妻を持っているか、フェミニズムがその地位を与えているに過ぎず、彼女らに逆らえば発言力を失わされる立場にあるのだそうです。おそらくこれは男性学者に限らず、リベラルの側の男性なら例外なく(まあLGBTのみ例外といえるでしょうが)そうであると考えられます。
これはある種、日本のリベラリズムに、いや保守主義でもそうなるのですが、根深くある病理といえます。いくら日本社会は男性社会であるといわれようと、女が彼ら強者男性の妻としてそれをせびっているのであれば、女性優遇(および男性冷遇や男性蔑視)は済し崩し的に進めさせるしかありません。まずフェミニズムがリベラルを牛耳っている状態を正さなければ、弱者男性が救われることは断じて無いと言えます。これは別に非モテという意味ではなく、okoo20氏がLGBTや貧困、黒人などとして挙げている、何らかの「社会的弱者」としての属性を持った男性も含めての話です。

これって、「政治的にただしくない思想」の代表的な例であり、共同声明を出した側があくまで批判・闘争の対象としている「異性愛規範」そのものですよね。

そう、フェミニズムは「リベラル思想」「政治的ただしさ」を牛耳りながら、その実「政治的にただしくない思想」を最大限に利用し、その勢力と結託していたのです!!この結託を、マスキュリズム思想やMGTOW思想では「ガイノセントリズム」(gynocentrism)といいます。

私は何度でも繰り返し訴える、「彼ら」がフェミニズムに反対する理由は一つしかない

これは私の記事でも繰り返し繰り返し言ってきたことですが、「政治的にただしくない側」がフェミニズムに反対する理由はただ一つしかありません。それは「女性の地位向上によって、伝統的な家族観が破壊され、若者の非婚化と少子化が進み、将来的に社会を滅ぼす」というものです。非モテの「フェミのせいで俺たちがモテなくなってしまった」という類の批判も、それを「若者目線」で書き換えたものでしかありません。

一方で、それ以外にフェミニズムに反対する理由がないからこそ、「地位向上や家族解体に関係ない部分での」フェミニズム政策や論点について消極的支持に回るわけです。これは「フェミニズム政策をやめた」ことで知られるハンガリーでさえ、子育て支援策をやめたわけではないことが象徴的であると思います。

またProf.Nemuro氏は、激化する韓国のフェミニズム・反フェミニズム対立について、両成敗的な評論をしています。

これは男女間の分断をあおる両者が非婚少子化を加速させていることを彼らが問題視しているからです。特に彼は韓国での草の根フェミニズムの隆盛が出生率の急減に直接的な影響があることにも同記事で触れています。

小山晃弘氏によれば、本来反フェミニズムは「平等主義」「自由主義」「伝統主義・共同体主義」という3つの方向からの批判があるのですが、こうした「政治的にただしくない」あるいは「ジェンダー保守主義的な」批判はもちろんこれらの中の「伝統主義・共同体主義」にあたるものです。まあ「将来的に社会を滅ぼす」とか言っているあたり直感的にわかりますよね。日本ではまだまだこの勢力を侮ることはできません。

これはフェミニズム側の記事ですが、注目してほしいのは彼女らがこうした「伝統主義・共同体主義」からの批判を「バックラッシュ」と呼んでいることです。バックラッシュとは「(フェミニズムへの)反動」を意味していて、本来そこには平等主義ないし自由主義からの批判も含まれるのですが、日本のジェンダー論の文脈では伝統主義ないし共同体主義からの批判しか指しません。理由は簡単です。2000年代までは、フェミニズムへの批判はこの方向からしかなされていなかったからです。平等・自由主義からの批判は日本では2000年代末期に勃興し、2010年代に入ってから一部の人々で真剣に議論されるようになった、まだまだ「新興勢力」であり、あまつさえ一度伝統・共同体主義の一派としての「非モテ勢力」につぶされかけています。

運命の衆院選が迫っている

以上のように、我々がフェミニズム、いや「女性のお気持ち」に抵抗するのが困難なのは、「政治的ただしさ」だけでなく、「政治的にただしくない勢力」すなわち「ジェンダー保守」・「男性社会」、いやもっと端的に言いましょう、「家父長制」・「異性愛規範」にまで(広義の)“フェミニズム”が入り込んでいるのが大きいです。

小田急の通り魔はおそらくそれをわかっていた。だからこそ、「女」に対する憎悪を「男女双方」に向けたのではないでしょうか。

そのうえでまず我々がやらなければならないのは、「何のためにフェミニズムに反発しているのか」をはっきりさせることです。

自由・平等を守るためなのか。
伝統・共同体を守るためなのか。
あなたはどっちですか?

共同声明を支持するか否かでフェミニズムが二分されているなら、この時局を利用しない手はありません。少なくとも共同声明は「平等・自由主義」のほうに乗っかったものです。

次の衆院選では明確に“フェミニズム”に反対する候補は出てこないでしょう。しかし共同声明を支持しているか否かは深く調べれば出てくると思います。平等・自由主義の立場から反対している人は「共同声明を支持する候補」を、伝統・共同体主義の立場から反対している人は「共同声明を批判する候補」を支持するべきです。

ただこれだけは言っておきたい。もしあなたがたが伝統・共同体主義の立場から、すなわち「家父長制」や「性別役割分業」を取り戻すためにフェミニズムに反発しているのなら、それは「女にとって都合のいい家父長制」あるいは「女にとって都合のいい性別役割分業」にしかならないということを覚悟しなければなりません。

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これは一昔前に英語圏で出回った、フェミニズム(我々の言う「エリートフェミニズム」)を風刺した漫画の一片ですが、「フェミニストが実際に戦っている相手は強者男性単体ではなく家族観そのものである」ことを示しているように見えます。つまりは伝統・共同体主義の「女性の地位向上によって、伝統的な家族観が破壊され、若者の非婚化と少子化が進み、将来的に社会を滅ぼす」という方向からの批判に相当します。

しかしながら、この風刺画には、もっと深読みできることがあります。注目すべきはその家族構成。赤ん坊の性別までは分かりませんが、娘(と思われる人物)が最前列に立っていますよね。これには「俺たちこそが妻や娘の権利の擁護者だ!」という彼らの驕りを感じさせます。実際そのようなスタンスから「彼ら以外の反フェミニズム」を攻撃する、いわゆる「アンチ・アンチフェミ」と他称される勢力は少なくなく、noteにさえ何人かいます。

ここまでを踏まえたうえで、もう一度改めて問います。

何のためにフェミニズムに反発しているのか。
自由・平等を守るためなのか。
伝統・共同体を守るためなのか。
あなたはどっちですか?