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(今度こそ)卒業を迎えて思うこと:教育に「魔法の杖」はないし、要らない

前回書いたとおり、国際教育政策分析コース(International Education Policy Analysis)では、スタンフォード大学全体の卒業式の後も、7月末まで修士論文を書き続けます。高校生から院生まで、学外の人向けのプログラムが多く開講されるので、キャンパスは夏も引き続きにぎやかですが、自分のコースでは、授業の負荷が一気に軽くなるので、とても心穏やかに過ごすことができました。笑

そして、1年間を通じて継続的に取り組んできた修士論文 ”Weighted School Funding for Economically Disadvantaged Students and Academic Achievement: The Case of the Every Student Succeeds Act in Massachusetts’ School Districts" がようやく完成!感慨深いです。

修士論文は、プログラムディレクターおよびアカデミックアドバイザーのサインをもらった上で、教育大学院の図書館に保存されます。「この大学で取り組んだこと」がはっきり形に残るのは嬉しいことですね。

夏学期は基本的に授業は週1回。6~7人のグループで他の人の論文の草稿を読んで、長所と改善点を指摘しあうワークショップをします。加えて、論文に限らない1年間の「業績」を文書にまとめたり(いつか転職活動、博士課程への出願をする時などに思い出せるように…という趣旨ですね)、将来のプランをシェアしあったり、といった感じです。

自分は「マサチューセッツ州のスクール・ファンディングと学業到達度の相関」といういわゆるQuantitative(定量的)な調査を行いましたが、インタビュー等を通じて、数値化しがたいもの(人の「感じ方」、教科書の「記述のされ方」等)を扱うQualitative(定性的)な調査をしている人、両者をミックスした調査をしている人もいます。自分のグループのラインナップはこんな感じでした。

(Quantitative)
・ブラジルでの保育拡充・保育義務化が母親の労働市場に与えた影響の分析
・「21世紀型スキル」のうち、国・地域等ごとの、環境保護活動への参加を促す要素の特定

(Qualitative)
・Translanguaging(多言語を1つの会話で境界なく使うこと)に対するカリフォルニアの教師の捉え方
・グローバルなICT教育活動を行っている2組織の意思決定ファクター分析
・アメリカ、ガーナ、南アフリカの教科書における黒人の歴史の表現のされ方の国別比較・経年比較

見事にバラバラなのがお分かりいただけると思います。

卒業後の進路もバラバラで、自分の起ち上げた会社に戻る人、国際機関に行く人、ベイエリア(サンフランシスコ湾岸地域)に留まってEdTech/リサーチ関係/カリキュラムデザインなどの職に就く(または職をじっくり探す)人、母国に帰って政府系機関や教育サービス事業の仕事に就く人、などなど。論文の執筆を通じて、現状分析→問題設定→解決方法の提案スキルが身に付く+興味関心分野の知見が身に付くということで、リサーチ分野以外の仕事に就く人もたくさんいますし、一度働いて、またPhDで戻ってきたい、という人も多いです。

1年間に無料でもらったグッズを並べてみました。(Tシャツ、ナップザックはあと2つほどもらったと思います。)これだけグッズ漬けになると、卒業後に寄付のお誘いが来た時に快く応じようと思う…のでしょうか…?笑


さて、気持ちの面で感じたことは前回まとめたので、今回は「教育学から学んだこと」をまとめてみたいと思います。全て書くとキリがないので、とりあえず、3点に絞りました。書ききれない分や、豆知識的に面白い調査研究の話、「スタンフォード・ベイエリアから学んだこと」、スキル面(英語の学び方など)等々は今後書きたいと思います。

学び①:教育の問題を解決する魔法の杖はない。

いきなりネガティブな学びかい、と思われたやもしれませんが、自分自身、魔法の杖とまではいかなくとも、何かしらの「答え」めいたものを探して海外留学したふしがあるので、これは声を大にして言いたいと思います。また、自分としてはこれはネガティブな気付きではなくて、「だからこそ、様々な立場から、新しい実践を積み重ね、評価検証し、良いものを広げ、同時に、いま意味がないこと・もう十分やったことを止めていくことが大事」という趣旨だと思っていただければと思います。

どの国も、どの現場の人も悩んでいます。

「知識の詰込み型から課題解決型への転換を早く進めないと!」
「技術は社会の姿を大きく変えたのに、学校だけが数十年前と同じ姿だ!」
「学校や大学の学びは、社会で生きるために役立たない!」

全部、こちらに来てから、アメリカの教育について聞いた言葉です。日本でも聞かれる言葉ではないかと思います。

「細かい文法などに重きをおいた教育が子供の意欲を奪っているので、小説の読解など子供が楽しめる内容にシフトしたところ、英語力の水準が下がってしまったので、また文法にフォーカスしなおした」

シンガポールで20世紀終わりに起きた話です。「どんな先生でも子供みんなの自発性を高められて、結果的にスキルも向上してみんなハッピー」という取組は、この1年間、聞いたことがありません。どの国の教育も紆余曲折を経ています。

「どんな取組に効果があるのか」についての研究も、結果は分かれています。

1980年代後半にテネシー州で行われた大規模実験 "Project STAR” では、幼稚園児と教員をランダムに大小のクラスサイズに割り当て、小学3年生までそのクラスサイズをほぼ維持したところ、マイノリティ・貧困層の子供の学力にポジティブな効果がみられた…という結果が出ています。イスラエル、スウェーデン、ボリビアでも、少人数学級には効果があるという研究結果があります。

一方、コネチカット州で、自然発生的に、または州の政策によってクラスサイズが変化した学校を調査したところ、ポジティブな効果はみられなかったそうです。また、Project STARの結果を受けて、カリフォルニア州が26億ドルを投じて一律にクラスサイズを削減したところ、目立った効果はみられなかったとのことです。理由として最も有力な説は、「豊かな地域で教員の雇用の機会が増えたので、経験豊富な教員はそちらに移動し、貧しい地域に良い教員が残らなかった。」というもので、実験がうまくいったからといって、より広域的な取組が同じようにうまくいくとは限りません。

出典はこちら:Project STARイスラエルスウェーデンボリビアコネチカットカリフォルニア

同じように、子供の学力の伸びに応じて給与に差をつける(インセンティブ付けをする)ことで中国の教師のパフォーマンスが向上したという研究もありますし、かと思えば、チリで、保護者に学校の選択権(=公金の支払先)を完全に委ねて学校間で競争をさせたら、学校は優秀な子供のリクルーティングに注力してしまい、学力の底上げとしては大失敗、という報告もあります。

研究結果を書き並べると際限がありませんが、テクノロジーの活用、「チャーター・スクール」なども話はだいたい同じです。効果があると学術的に合意されているのは幼児教育くらいでしょうか(全ての調査でいい結果が出ているわけではありませんし、「どんな集団の」「どんな子供に」効果をもたらすのかまで解明されたわけではないですが)。

脱線しますが、チャータースクールのWikipediaについて、と日本語版英語版、それぞれ情報量を比べてみてください。そもそもWikipediaをどこまで使うべきか論はさておいて、とりあえず英語でも調べてみるといい分野は結構あると思います(英会話と違って、今の日本人の英語力でもできるはずですし、Googel、Chrome翻訳につっこんでもいいでしょうし)。


魔法の杖はないと学ぶと同時に、今やっていることのやり方を変えるだけでも、大きなインパクトが生まれうるということを学びました。

ミシガン州では、いわゆるトップスクールの大学で、授業料減免制度を設けているにもかかわらず、成績の良い貧困層の子供が応募してくれないことに困っていました。そこで、制度の周知方法を抜本的に変える実験を行ったところ、応募してくれる人も合格する人も大幅に増えて万々歳だったそうです。

具体的には
・4年分の支援があることを「約束」するメッセージを出す
・出願料も減免されることをきちんと伝える
・「授業料免除」と言っても伝わりづらいので「奨学金」の一種として周知
・周知パンフレットのデザインを大幅に変更
・親、校長など色々な経路で周知を促す
など色々な工夫がされていたようです。

また、ニューイングランド地方の中学校では、添削した作文を生徒に返す際、「作文にコメントしたのは、あなたに期待していて、あなたが期待に応えられると思うからです」と書いた付箋と、「コメントしました」と書いた付箋のどちらかをランダムに貼って返却する、という実験が行われたことがあります。結果、前者の「期待」グループは、後者と比べて、著しく学習意欲もライティングの質も高まったそうです。

出典はこちらです。もちろん、なんでも付箋を貼って返却せよ、という話ではありません。添削は非難・偏見によるものではなく、もっとできるという期待・信頼のあらわれだと示すことが大事…という結論です。


こうした取組は、日本でもそれ以外の国でも、やっている先生は当たり前のようにやっているのではないかと思います。ですが、「いつ」「どこで」「誰が(どんな人が)」「誰に(どんな人に)」「何を」「どうやって」やって「どんな」結果が出たのか分からないと、他の集団でもうまくいくこと(External Validityと言います)が保証されません。例えば上記の例で、もともと作文嫌いな子だけを集めたクラスで実験をしていたとしたら、作文好きな子が多い学校で同じことをやっても、あまり意味がないかもしれませんよね。(逆にもっと高い効果が出るかもしれませんけど。)

また、何を「しなかったのか」までしっかり観察しないと、そもそも「付箋の中身が変化を引き起こした」という主張の正当性(Internal Validityと言います)が担保されません。作文を返す時、「期待」の付箋の生徒に対してだけ、先生が満面の笑みで返却をしたとか、それ以外の生徒に対して、後ろめたさから冷たい言葉をかけたとか、そんなことでも結果は変わりうるわけです。

こうした考察が最も得意なのはアカデミアの方々なので、日々の指導法から広域的な政策まで、学術の知見を借りながら、今やっていることにせよ、全く初めてのことにせよ、きちんと取組を評価検証していく(=エビデンスを集める)ことが大事なのだろうと思います。その結果、継続するなり改良するなり、あるいは取りやめるなりしつつ、効果の高い取組が波及していけば、魔法の杖がなくとも教育は良くなっていくと思います。

なお、残念ながらValidityを数値化するお手軽なツールは存在しない…のですが、教育に限らず実験に限らず、「この取組のInternal ValidityとExternal Validityはそれぞれどうか?」と考察するのは、「なぜうまくいっている/いっていないのか」「この事象はどういうメカニズムになっているのか」を理解する助けになると思っています。これは統計学の授業と修士論文の執筆を通じて得られた、色々なことに応用可能な学びの1つかと。


もちろん、これはあくまで「スタンフォードの」「教育大学院の」「国際教育政策分析コースの」「自分が取った授業・論文の執筆・その他イベント等を通じて」感じたことなので、特定の問題については特定の魔法の杖がある可能性もあります(External Validityは議論の余地があるわけです笑)。医療も、特効薬が開発された分野もある一方で万能薬は未だないですから、それと同じかもしれません。教育というのはそれほど幅広いです。。。


学び②:理想の社会像があってこそ、教育の質が測れる。

先ほど「効果の高い取組が波及していけば、魔法の杖がなくとも教育は良くなっていく」と書きました。「効果の高い取組」とは、教育を「良い方向」に向かわせるものだと思います。では「良い方向」とは何で、誰が決めるものなのでしょうか。

結論を一言でいえば「目的次第」「社会次第」ということなのですが、それでは議論するための共通言語にならないということで、少なくともアメリカにおいて考慮されている・されるべき点をまとめた論文をご紹介します。

より詳しい内容は、本にもなっています。

2人の社会学者と2人の哲学者の共著だそうですが、専門用語は全然出てこず、とても読みやすいです。論文内ではまず、「西洋的な価値観である」と断った上で、教育の場(主として学校)で育まれるべき価値を6つに分類しています。

①経済的生産性
②自立心
③民主主義の構成員としての素養
④健全で親密な人間関係
⑤他者を尊重する態度
⑥自己実現や情熱を注ぐ対象を見つけること、それを見つける力

さらに、「教育」によって得られるものとは別に、子供を取り巻くものの中で尊重されるべき価値が5つあると。

1.子供時代としての幸せ
2.保護者の意向
3.民主的プロセス
4.居住の自由
5.その他の公益

上の6つより若干抽象的で分かりにくい感もありますが、1つ1つを解説するのが目的ではないので説明は割愛します。重要なのは、これら11個の価値は、しばしば互いに相反するということです。単純化しすぎな例ではありますが、数学の時間(主に①)を増やせば音楽(主に⑥)が減る、ということです。

著者によれば、これらの価値を、全て尊重しつつ、どういったバランスで、どういう原理で多数の子供たちに配分するかについて合意を形成するのが意思決定者(連邦、州、地方政府それぞれ裁量があります)の仕事であると。配分の「原理」には3種類ある、というようなことも論文内には書いてありますので、興味のある方はご覧になってみてください。

そして、意思決定のためのコアバリュー(=どういう社会でありたいか)に基づいて、何が有効か判断するために、エビデンスをきちんと収集する必要がある、と。つまり、「エビデンス」「調査研究」を集めれば良い教育が勝手にできあがるわけではなくて、理想の社会像がまずあって、「ある取組が、その理想に向かっていくものなのか」決める助けがエビデンスである、と言えると思います。

これは、統計学の授業や論文の執筆の過程で習ったこととも合致していて、統計は「たまたまうまくいったんじゃないの?」「特別な人たちだからうまくいったんじゃないの?」といった疑問を解消するためにはとても便利なものです。が、そもそも「『うまくいった』って何?」という指標の設定の仕方を教えてくれるものではありません。それは、リサーチならば、先行研究を踏まえつつ、リサーチャー自身の興味関心・問題意識から決められるものですし、ビジネスや政策ならば、顧客のニーズや市民の意志に基づいて、会社や行政・政治が決定を下すものであろうと思います。

そうした観点で見ると、1年間の中で少しもの足りなかったのは、かなりの調査がテストスコア偏重であったことです。これには2つ理由があって、1つにはアメリカでは「①経済的生産性」という価値が貧困の解消などの文脈でかなり重視されていること、もう1つには、短期的に測定可能・比較可能なのはやっぱりテストスコアである、ということです。

テストスコア、特に数学と英語は、労働者としての基本的な生産性を示すものと捉えられていて、実際に、教育年数など他の指標よりも、テストスコアと将来の賃金等との結びつきが強いという研究結果もあります。「出席日数」「留年の有無」「学校全体での成績(GPA)」など、また別の指標への注目も高まっていますが、国・地域によらず比較できるものとしてはまだテストスコアが主流と言っていいと思います。また、これらの指標も、将来的な年収等と結びつくから注目されているわけで、「貧困からの脱出のための経済生産性の向上」がアメリカにおいてコアバリューの1つであることに変わりはありません(Project STARもミシガン州の実験も、「貧困層への効果」が1つのキーワードであったことを思い出してください)。むろん、アメリカでも②~⑥の価値が大いに重視されているから、それが論文にも明記されているわけではありますが。

翻って日本を見ると、少なくともアメリカと比べれば、テストスコアに対する注目度は低いと思いますし、「経済的生産性」「年収」のために教育をやる、という言葉がしっくりこない方も多いと思います。教育基本法には「人格の完成」を目指すと書いてありますし。テストスコアと賃金との結びつきがどこまで強いのかも不明瞭です(=External Validityがないかもしれない)。

また、子供の7人に1人が相対的貧困と言われる状況にあって、貧困の連鎖を断ち切ることはいまや教育・福祉の大きなイシューですが、公教育が「そのために今のような形でデザインされた」というわけではないでしょう。

では、もし上述の6つの価値の日本版を作るなら何になるだろう?配分の原理はどうなるだろう?というのは、自分の限られた体験だけに基づいて決められるものではないですが、そんな議論が日本でもっと盛り上がったら面白いだろうな、と思います(日本でも教育哲学という分野は注目を集めていますから、いつかぜひそうした方々のお話しを伺ってみたいです)。例えば、「地域(コミュニティ)とのつながり」みたいなものは①~⑥に収まらないでしょうし、「アカデミアとしての素養の準備」は広義の①に含まれるのか?なども、意見が分かれそうです。

いずれにせよ、(1) まず高めたい価値があって、(2) その価値が相反する場合にどうするかというコアバリューがあって、(3) そのために有効なものが「良い教育」である、ということを、この一年、繰り返し教わりました。極端な話として、学力なんて一切気にしないという教育ならば、Project STARの実験は何のエビデンスにもならないわけですし、トップ層も含めて全員の学力が上がらないと意味がないというならば、エビデンスとして「効果は不明瞭・不十分」ということになろうかと思います。

若干余談ですが、テストスコアをはじめ、いくつかの指標は、「世界共通で測れる」ことも、研究者の興味関心を惹いてきた理由の1つです。

そして、あくまでもそうした世界的な指標で見れば、という話ではありますが、日本の総体・相対的な教育レベルは、とても高いです。例えば、アメリカをはじめ沢山の国が高校卒業率を向上させようと努力していますが、アメリカの卒業率は2018年で89.8%。日本は1974年に90.8%に達しています。授業でも「19世紀という早い段階で初等教育に重点投資をして発展を成し遂げた国」として紹介されましたし、PISA、TIMSSなどの国際学力調査でも毎回上位です。

また、アメリカではMath Anxietyという言葉があるくらい全国的に数学が苦手な人が多く、サンフランシスコの先生は日本に訪問して改善策を学ぼうとしたりしています(参考)。日本の大学生は勉強しない、と言われて久しいですが、少なくとも理数科目に関して言えば、高校まででやっていることのレベルがそもそも高いです(だから大学で学ばなくていい、と言いたいわけではありませんが)。

学校が「詰込み教育」「画一的」と批判されるのは日本に限らない話ですし、「日本の学校が子供のクリエイティビティを他の国より著しく奪っている」というエビデンスも見たことはありません。学術的な調査ではないですが、アドビ社の「世界で最もクリエイティブな国・都市」に関する意識調査では、2016年、日本・東京が1位です。

社会・経済的に不利な状況から学業で立ち直れる生徒の割合が高いという調査もありますし、来年(2020年)からは、住民税非課税世帯の大学等の授業料・入学金が減免の上、給付型奨学金も拡充されます。

「日本の教育は全国的に一切何の問題もない」とはとても言えませんし、おそらく誰もそう思ってはいらっしゃらないと思います。また、「総体として良い」ことと「個別に問題がない」ことは全く違う話です。かつ、上述のように、教育の質は、比較ではなく理想と目的から決まるものです。既に良かろうとも、もっと良くしない理由はありません。

一方、広域的・システム的な議論においては、日本の教育は、相対的に悪いところを見つける方が難しいです。GDPに対して公的支出比が少ないという話もありますが、他国の人からすると「費用対効果がすごいね」という感じです。家計負担、いじめ問題などは一定程度世界共通の問題です。教員の働き方問題は、子供の教育上の課題とはみなされないので、ピンとこないようです(深刻だ、ということは伝わりますが)。留学当初、どうもうまく日本の教育の問題点を説明できなくて、英語力のせいだと思っていたのですが、どうやらそうではありませんでした。

…ただし、自分のような留学生をはじめ、「本来英語が流暢であるべき人」のスピーキング・リスニングは、平均すれば世界で最低だと思います。リーディングは問題なくできますし、ライティングもそこそこで、それは重要な教育の成果だとは思います。他方、スタンフォードの留学生は、母語がなんであろうが、島国出身であろうが、帰国子女でなかろうが、英会話は総じてとても流暢です。。。

くどいですが、英会話が唯一の課題だと言う気は全くありません。が、むやみに悲観的になる必要はない(楽観もですが)のだろうと感じました。


学び③:学校だけを見ていても、学校に・教育にまつわる課題は解けない。

アメリカでは、6つの教育の価値と、5つの教育を取り巻く(教育外の)価値があり、11個のバランスを考えるべき、という論文をご紹介しました。これが何を意味するかというと、理想の教育を考えるためには、教育外のこともあわせて考えなければならない→つまり、理想の社会全体について考えなければならない、ということです。

例えば、以前の記事でご紹介したとおり、アメリカは「人種やジェンダーなどで区切って、ある指標を見たとき、人口全体と比べて著しいギャップがないこと」が非常に重要視されます。歴史的に特定のグループを明らかな形で抑圧してきたため、「たまたま」では説明がつかないようなグループ間の差を埋めることが「平等」「社会正義」とされ、そのために教育ができること・すべきことが特定されていきます。

一方、例えばメキシコでは、教育において、人種で何かを区切ろうという概念はありません。メキシコ出身のクラスメイトは、「アメリカの大学院に出願するとき、初めて自分の人種を書かされた」と言っていました。これは、区別することはかえって分断と対立を生みかねないから、みんなメキシコ人として扱うことこそ平等である、という社会正義に基づくものなのだろうと思います。

こうした違いは、学校の現状や歴史だけを見ても説明できません。「なぜそれが課題なのか?」「なぜその課題が生まれたのか?」を考えることは、課題解決の重要なステップだと思いますが、一般的に言って学校における課題を分析するためには、学校外の文脈を知る必要があると思います。

また、課題設定面だけでなく、解決策も、学校「だけ」で実行できるものなのか・されるべきものなのかは、ケースバイケースだと思います。

1966年、ジェームズ・サミュエル・コールマンという社会学者が、教育の平等性の現状について、アメリカの65万人以上の生徒を対象に調査した大規模な研究結果を発表しました。通称 "Coleman Report" と呼ばれるこの有名なリサーチの結論は、一言でいえば「学校教育の効果は、家庭の経済状況による影響を上回ることができない」というものです。コールマン自身もこの研究も、教育学の世界では極めて有名で、アメリカのスクールファンディングや教育経済についての文献を読むと、必ずと言っていいほどこのレポートが引用されています。

アメリカでは、この結論をもって、「学校への追加的投資は不要/非効率」と主張する人、「格差の是正のために一層学校に投資すべき」と考える人、両方の人がいます。前者は、では他の方法でどう子供を支援するのか、という話ですし、後者は、今の在り方の学校に追加的投資をして、格差が是正できるという担保がありません。要はどちらも、自分の思想に整合するような形で解釈をしているわけです。(なお、親の格差を子供が受け継いで何が悪い、という主張に出会ったことはありません。)どちらの立場からも、この問題を解決する魔法の杖はまだ出てきていないわけですから、アメリカにおいてどちらが正しいのか、50年経った今でも答えはないと言っていいと思います。

いずれの立場に立ったとしても重要なのは、学校外で子供のために何ができるのか、何が起こっているのか、という観点です。例えば、学力に大きな影響を与えるのは、学校においてはもちろん先生方ですが、複数の国で「栄養状態の悪い子視力が弱いのに眼鏡を持っていない子は如実に成績が下がる」という研究が報告されています。給食は学校で出せますが、3食は無理ですし、学校で眼鏡は作れません。

最近では、家庭だけでなく、地域の経済状況も学力に影響するという論文も出ています。いわく、地域の経済が豊かな方が、家庭の経済力が子供に与える影響はより大きくなるそうです。逆に、仮に豊かな家庭の子であっても、周りが全体的に貧しければ、家庭が与える恩恵は小さくなる、と。まだ通説とまでは言えないようですが、いずれにせよ、学校と家庭の状況だけでは見えないものもある、ということでしょう。

また、「質の高い教員の確保」は、学校教育の一大イシューでもあり、かつ、雇用のイシューでもあります。以下の記事が分かりやすいかと思うのですが、アメリカでは長年、女性の仕事が教師以外にほぼなかったため、低めの賃金でも人材が集まったと言われています。

女性の社会進出が進むにつれ、他の職業との比較がなされるようになり、今までの賃金体系では人を確保できなくなっている…という話を、教育経済の授業でも聞きました。学校・学区が頑張っていい人を採用し、トレーニングを充実させればいい、というのは今でも一般論として正しいとは思いますが、その難易度は上がっているのだと思います。

たとえば「英語教育」のような、直観的には学校教育の枠の中に収まるものさえ、学校外の要因を無視してはならないと思います。例えば、インドやシンガポールの人の英会話のレベルがものすごく高いのは、学校外でも使うからです。シンガポールでは、家でも多くの人は英語を話します(なので、言語的アイデンティティに影響があったのではないかという議論があります)。インドは国内の方言が通じない時に英語を話すという事情があります。

また、言葉を話し始める前の年齢から、生の英語の「コミュニケーション」を聞く機会があると、将来的に発音を聞き分ける能力に良い影響があるという論文もあります(ただの音源や映像は、その実験では効果なし)。こういった機会は学校だけで提供するのは難しいでしょう。

さらに、同じ国・地域からたくさんの人が英語圏に行くと、周りに、訛りを理解してもらえるようになるというアドバンテージも発生します。「学校が英会話をやらないから日本は英会話の能力がない」と一概に言えるものではないだろうと思います。


そもそも、学校という存在自体、インフラ技術・規制、都市計画、外国人居住者など、学校がコントロールできない様々な要素の上に存在するものです。日本のように、学校が防災拠点や地域コミュニティの中心に位置付けられている国では、なおさら、「学校教育」の一言でくくれない要素を幅広く考慮して初めて、理想的な学校の在り方が実現できるように思います。

(参考)1年間で取った授業は以下のとおりで、今回書いたことはおおむね授業から得られた知見です。

秋学期(9~12月)
- Applied Research Methods in International and Comparative Education I: Introduction
- Introduction to Data Analysis and Interpretation
- Introduction to International and Comparative Education
- Entrepreneurship and Innovation in Education Technology Seminar
- Entrepreneurial Approaches to Education Reform

冬学期(1~3月)
- Applied Research Methods in ICE II: Master's Paper Proposal
- Statistical Analysis in Education: Regression
- Economics of Education in the Global Economy
- Child Development and New Technologies
- Mini Courses in Methodology: Stata

春学期(4~6月)
- Applied Research Methods in ICE III: Data Collection and Analysis
- Resource Allocation in Education
- Global Education Policy & Organization
- VIP: Very Impactful People - Social Innovation & the Social Entrepreneur

夏学期(6~7月)
- Applied Research Methods in International and Comparative Education IV: Master's Paper Workshop


3点に絞ったものの、1つ1つがとても長くなってしまいました。最後まで読んでいただいた方、ありがとうございます。

さて、クラスメイトの進路のことを書いたのに、自分のことを書いていなかったのですが、上述のように「学校のことだけを見ていてはいけない」と一年を通じて痛感したので、より広い視野からの学びを得るべく、来秋からスタンフォードの公共政策プログラム(同じく1年制の修士課程)に進学します。教育大学院では、国際比較教育学という分野を切り拓いてきたパイオニア的な教授、その直接の弟子にあたる方々の授業を受けることができ、とても光栄でした。「教育」を見る視野がぐんと広がった気がしています。(今日書いたこと以外にも、まだまだ学んだことはたくさんあります!)公共政策では、ノーベル経済学賞受賞者、連邦政府の元ディレクターなど、大物感がある人の授業が受けられますし、政治学、意思決定論、行動経済学など、教育との関わりが深いものがたくさん学べそうで、ますますワクワクします。引き続き、日本人があまりいない領域だと思うので、公共政策の学びもゆくゆく発信できればと思います!

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