追い詰められる”ひきこもり”と”家族”

ほんとうにつらい。被害者も加害者も出てしまいました。被害者の皆様には、こころよりお見舞いを申し上げます。私にとって、他人事ではありませんでした。

私の兄は、引きこもりでした。高校1年で中退し、その後、夜間の高校に通い始めましたが辞めて、アルバイトなどをしていましたが転々とし、最後は営農者として自立を目指しましたが挫折しました。

父は公務員で兼業農家です。今思えば、どこかで立ち上がって欲しい願いがあり、一見、放任と思える距離で兄と向かい合っていたと思います。ですが、時折見せる叱責が、兄にとっては ”憎しみを深める” 言動の様でした。私は東京に居て、詳細は両親から聞く話から想像するしかありませんが、日中は、母と兄だけでくらし、勤めから帰った父とは顔を合わせる事もなかったとの事。

兄は、私の結婚式には出席しませんでしたが、「おめでとう」と言ってくれました。両親を「しっかり留守番するから」といって、結婚式へ見送ってくれたそうです。

その後、兄の行動が社会一般からは逸脱し、夜にしか行動しなくなっていました。父も限界が来ていて、私に入院の手伝いを要請しました。帰郷し、朝早い時間に迎えの車から駐在員一名と社会福祉職員一名の助力を得て、兄が潜んでいる納屋を取り囲み、一つしか機能していない扉から、一人二人と入っていき、兄を外へ ”引きずり” 出しました。

突然のことで、白目をむいて大声を上げる兄。ものすごい力で抵抗します。それでも、私は兄を諭しながら二人の公務員の人の助けを借り、迎えの車の後部座席へ兄を押し込めました。その時の兄は、大声で「〇〇さあん、〇〇さあん」と叫んでいました。それは、父の名前ではありませんでした。

その現場での両親の表情を私は覚えていません。弟が兄を拘束するという局面を、どんな思いで見ていたのでしょうか。ほんとうは、兄に嫁が来て後継ぎとしてつつましいが幸せに暮らす家族を思い描いていたはず。

兄は入院して約10年程治療に専念し、今はグループホームで暮らしています。多くの人の助けの中で、安定した生活をしているようです。

今、思い返すに、あの時の私の判断と行動は正しかったのか。今でも結論が出ません。自身の幸せしか考えていなかったのではないか、そう、責めてみるのです。やがて、わたしは、両親の面倒を見るためにUターンし、時折、兄を見舞うことになります。その時だけは、「これでよかったのだ」と思えるのです。

私の子供は、やがて成人を迎える歳になります。まだ、幼児の頃、兄に二人の子供を見せた時、相好を崩して「こんにちは」と声をかけてくれました。二人の子供は、その記憶も残っていないようで、きっと、忘れられた伯父となっているのでしょう。

そして、父が亡くなり、朝に、父にあわせるために連れて帰りました。兄は、一人、庭の石に腰掛け、見慣れた風景の中にポツンと存在していました。そして、何事もなかったかのようにグループホームへ帰っていきました。私は、兄が父の死に顔を見ていたか記憶がありません。

以上が、私の経験した概要です。詳しいことは書けませんでした。書くちからがないことと、思い返そうとするともやがかかって見えなくなるのです。何かの参考になれればと思った次第。

ほんとうに、苦しかった。

どうか、被害にあわれた方のお心がやすらかになられることを。

どうか、加害を犯した人の家族が自責の深淵から抜け出せますように。


#COMEMO #NIKKEI

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?