見出し画像

季節の味わい「モンブラン・セゾニエール」によせて

プロローグ、栗の季節に躍りだすDNA

秋といえば栗、栗といえば秋、秋に行きたい場所と言えば、もう言わなくても分かって頂けると確信しているお馴染みの場所、ブロンディール
正確には秋も冬も春も夏もすべての季節にそれぞれのブロンディールがあるから、春夏秋冬ブロンディールせずにはいられなく、季節毎などという受け身の待ち姿勢でなく、月3〜4回は通わなければ気が済まないのがブロンディール。そんなに通っていれば当然のように季節も前に進む訳で、季節が進むからブロンディールへと向かうのか、ブロンディールへと向かっているから季節が進むのか、ブロンディールの事をそんな風に考えていると、いよいよこの季節がやってきた。
そう、栗と林檎の季節、ブロンディールにも収穫の秋の訪れが。
この時を待ち焦がれていた。
夏の行事「アシェットデセール(グラッセを用いた皿盛りデザート)」がfin、つまり終わりを迎えた時からずっとブロンディスト(ブロンディール大好きビト)たち界隈はそわそわとしていた。
歳を重ねるごとに年々季節の移ろいが早く感じられ、また温暖化によって季節と季節の境目が曖昧になっていく中で、秋の訪れを最も感じる瞬間。
今回はこの2大秋を感じるブロンディールな味覚のうち、『栗』に焦点を当てたいと思う。
なぜなら、私は栗に特別な想いがある。
好きな食材というだけでは留まらない想い。
栗が私という人間の形成に影響しているのは間違いなく、DNAに刻まれていると言っても決して過言ではない。
幼少の頃に両親に毎年のように連れて行ってもらった「あの栗拾い」。母方の親戚が山丸ごとに栗の林を(趣味で)育てていた。なんと恵まれた栗環境。
さも当たり前のように、「秋といえば栗」という思考に育てられ、栗が記憶に身体にと刻まれていった。

スクリーンショット 2019-10-26 0.22.42

その時の貴重な映像が残っている。叔父が8mmビデオで撮影してくれていた。
当時まだ子供だった私が夢中になって栗を拾っている。長靴で下に落ちている栗のイガを辿々しく開いては中から栗を取り出し籠に入れる、そして都度、手の平をスボンで拭う。(手の汚れがどうしてもその都度気になっていた模様)
時間制限も何もない採り放題、栗と幸せな家族の時間だけがそこには在った。
栗に紐づいた温かな記憶。
カゴいっぱいになった栗。採り立ての栗を大鍋で茹でてくれる。
栗本来のそのままの味わい。あの素朴な甘さがほろほろと解れるようにして口の中いっぱいに広がるあの味わい。これ以上食べると栗になるよ、と止められるまで食べ続けていた。栗のおいしさに夢中になっていたあの頃、そして今も。
秋といえば栗、そして家族との幸せな思い出。
こうして秋の訪れといえば栗がDNAへと刻まれたのだ。

秋の訪れとともに在るもう一つのモンブラン

画像4

そんな記憶を呼び覚ますモンブランがある。モンブランセゾニエールである。
モンブランセゾニエール、訳すと季節のモンブラン
ブロンディールに秋の訪れを静かに告げる、低姿勢なモンブランがモンブランセゾニエールなのである。
ここで言う低姿勢とは、大々的に「秋、始まりました」などと告知せず、いつの間にかひっそりとショーケースに並び始めているような、お客を呼び込みしようとする気配がほぼないという意味での圧が相当低めの低姿勢であるとともに、実際に通常のモンブランと比べて見た目の重心がかなり低い(見た目のインパクトがない訳ではないが所謂"映える"感じではない)という意味を指している。
ダブルミーニングでの低姿勢である。

モンブランセゾニエール=和栗のモンブランではない

誤解を恐れずに言うと、これは和栗のモンブランではない。
その証拠として藤原シェフはこれを和栗のモンブランとは表していない。
では何者なのか?
モンブランセゾニエールなのである。
モンブランセゾニエールとは、特選の熊本産和栗を使用したモンブラン。
モンブランセゾニエールとは、藤原シェフの美学に則った秋のモンブラン。
つまり、藤原シェフの美学により、和栗のあの味わいを活かしきる為に生まれた季節限定の唯一無二のモンブラン、だからモンブランセゾニエール。
ブレない。
ではなぜ、敢えて回りくどい言い方を採用するのだろうか?
恐らく、「和栗のモンブラン」という響きが『ブロンディール』という美学に合わないという点、一般化しつつあるフォーマットを避けたいという点、フランス菓子としての体裁を整えたいという点、そして何よりも、通年のオリジナルモンブランに敬意を払い、和栗という素材を最大限活かす為の全く別のアプローチを取っているのだと言う明確な意思表示を感じてならない。(という妄想をしている)

王道外しを読み解く

画像6

今やどのパティスリーにおいても季節商品として愛され戦略的に展開されている和栗のモンブラン。秋の集客に絶対の約束がされるモンブランは、和栗の登場でさらに力を得る。季節限定、香り高い和栗のペーストをたっぷりと絞り上げる見た目のインパクト、味わいを損なわない為に1時間以内の賞味期限を設けているお店など、まさに秋だけ今だけの特別感があるのが和栗のモンブランという訳である。

それでは、独自のスタイルをいっさいブラさず、我が道を突き進む藤原シェフが贈る和栗を用いたモンブラン=モンブランセゾニエールがどのような美学になっているのか、ようやく紐解いて行きたいと思う。
当然の事ながら、藤原シェフならではのセンスが発揮された唯一無二のオリジナリティ溢れる素晴らしきモンブランの為、ブロンディールでしか味わえない。
何を当たり前のことを言っているのかと思われるかも知れないが、同じように和栗という素材でモンブランを作っても、その見た目その味わいその印象、何もかもが似ても似つかないのだ。
その理由は、敢えて王道外しをしているからと言える。
王道とは、通年のモンブランで採用しているフランス式モンブランの王道の事を指す。つまり『絞り出したマロンペースト、クレームフェッテ(無糖シャンティ)、焼きメレンゲ』のモンブラン基本三大要素で構成される、絶対に安定のテッパンの構成の事である。
ストリングス状に空気を纏ったマロンペーストの風味をメレンゲが芳ばしさと食感で押し上げ、シャンティが口溶けを誘発する構成、見た目はこんもりとモンブラン山のように高さを。シンプルながらも、主となるマロンを引き立て、全体に洗練された印象の調和をもたらすこの構成が、モンブランの永遠の定番として君臨する。
しかし、モンブランセゾニエールは全く違うのだから面白い。
和栗のペーストは絞り出さない、
見栄えのする高さにもしない、
クレームフェッテは採用するが焼きメレンゲは採用しない。

しない尽くしなのである。
世間一般的に王道と言われる構成を、ここまで採用しない尽くしなのはやはり普通ではない。屈強な意思の強さと、自身の作り出すモノに対しての絶対の自信、そしてこうでなくてはならないという美学がなければ出来ることではない。
さらにここで注目すべきは、藤原シェフはメレンゲ遣いの魔術師とも表されるメレンゲの名手だと言う事。
あの至高のムラングシャンティ然り、通年のモンブラン然り、ヌガーグラッセ然り、メレンゲを巡るあらゆる可能性を探り、それぞれの菓子に最適解となるメレンゲ解を都度生み出している。つまりメレンゲに絶対の信頼が置けるのが藤原シェフなのである。
だからこそ、藤原シェフがモンブランセゾニエールにてメレンゲを採用しない事の真意を探らずにいられないのだ。

美学が解き放たれるとき

画像2

さて、セゾニエールは間違いなくフランス菓子として成立している。
何故だろうか?
それは意図が明確に感じられるからだと思っている。各パートに与えられた役割。
至高の和栗のペーストは、まさに和栗の一番搾りの如く、和栗の最も優れているポイントを、こちらの想像を超えて味わせる為に存在している。
恐らく必要最低限の副素材で仕上げられているのだと思う。口へと入れた際に広がる和栗のあの香りが尋常ではないのだ。この静かなる佇まいのどこにそんな凄まじいエネルギーが詰まっているのだろうか。
絞り出す為の副素材を絞った結果、絞らないという選択肢になったのではないか、という仮説を立ててみたい。
つまり、絞る為には栗のホクホクとした解れてゆくような粒子感をペースト状にする必要がある訳で、それには乳製品を加えて粘性を与えなければならないということだから、逆に考えれば絞らないという選択肢は、栗の素朴な食感と繊細な味わいを活かす為に採用されたのかも知れない。
すべては目指す味わいの方向に導かれ、その結果としてビジュアル(形)が成り立つという藤原シェフの言葉そのものだと言える。
更には和栗は繊細、その繊細な香りを逃さない表面積の少なさを同時に実現し、モンブランの名前の元となった白い山の如く、粉糖が和栗のペーストに淑やかに雪のヴェールを被せ護っている。まさに雪山(モンブラン)という見た目への拘りは、お菓子の成り立ちや意味合いを尊重する藤原シェフらしい仕上げでもあり、味わいのためであるという点でシンプルながら興味深くもある。

次に和栗ペーストの直下に居るクレームシャンティ。
無糖のクレームフェッテを採用している。
藤原シェフはここには砂糖はいらないとしている。
栗本来の素朴な甘味を活かす為には、外から甘さを補完する必要ないのだ。
甘さではなく、何をもたらしているのか?
それは和栗の香りをガトーとして洗練されたものに昇華する為の切れ味要因としての役割だ。使用しているのは乳脂肪分が高く、ミルキーな味わいが特徴で随分とコクがある、一方で口の中では若干の重さを感じさせながら瞬く間に冷たい口溶けで余韻だけを残すように広がってゆく。
栗自体が重ためのテクスチャーのため、それを包み込むように、口溶けを加速するように、旨味は残しつつ後味はスッキリと心地よく消えてゆく重要な存在。

最後にボトム。
焼きメレンゲではなくジェノワーズ(スポンジ)生地。
多くのフランス式モンブランの場合、焼きメレンゲを持ってくるのが通常であり、それによって食感のコントラストと味わいの芳ばしさ=奥行きを生み出している。
もちろんブロンディールの通年モンブランはこの焼きメレンゲ式を採用している。(藤原シェフはモンブラン発祥の聖地"アンジェリーナ"での経歴もあることからあの完成された伝統の形式)
だからこそ、モンブランセゾニエールで焼きメレンゲを敢えて採用していない事実に藤原シェフの意図、そして意味を見出さずにはいられない。
恐らく、目指す味わいの方向として全体のバランスにとって、焼きメレンゲではなくジェノワーズこそが適しているとの判断なのではないだろうか。
確かに、セゾニエールを食べてみればまさにその通りだと納得がゆく。
完璧で深遠な湖のような世界観の広がりが待っている。
コントラストで生み出す美ではなく、グラデーションのように重なり合うことで生まれる美。繊細な和栗だからこそ成り立つ美学がある。
和栗の生まれ持ったそのままの、ありのままの素朴な味わいが此処では存分に活きている。フランス菓子に和の素材が季節がしっとりと馴染んでいる。

季節は巡る、ブロンディールも巡る

画像3

モンブランが意味する景色は雪山、ご存知の通りMt.モンブランは日本にはない。
一方、和を感じさせるセゾニエールには私たち日本人にとって刺さる何かがあるのだろうと思う。
セゾ二エールの山は険しい雪山というよりは、日本的な情緒漂う世界観、柔らかに裾野へと曲線が広がってゆく優美な雪山を想像させないだろうか。香り高い和栗を使用した日本だからこそ実現出来る味わい、フランス式のモンブランに敬意を払いつつ、日本ならではの味わい日本ならではの美へと昇華している。しかし根底に流れるのは藤原シェフが描くフランス菓子なのだから、決して和菓子然としたものではない、そのバランス感覚さえも美学に彩られている。
世間の流行には目を向けずあくまで自然体、だらかこそ奥深くその美学へと引き込まれ、魅了されてしまうのだろう。
季節がやがて巡るように、私たちもブロンディールへと通い、巡る季節を愉しみ、次の季節に想いを馳せ、またあの扉を開ける。

最後に
この世の中の全てのモノに永遠なんて存在しないと思っている。
だからこそ今この瞬間を、セゾニエールの季節を歓び、今日もブロンディールへと通いたい。

Fin.

画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?