㊙︎教養小説『次郎物語』をめぐる「私淑」

 本稿では、成長物語の一ジャンルである教養小説を、読者はどのように受容し、物語の主人公や作者に思いを寄せていたのかについて、『次郎物語』と作者・下村湖人の追想録を素材に検討する。なお、雑誌に投稿する論文のドラフトにもなりうるため、無闇な引用や剽窃、情報流出は望ましくない。筆者のセキュリティ管理は甚だ甘いかもしれないが、筆者以外の誰の手によっても投稿・編集されることはよしとしない。万一のときには厳しく糾弾、告訴する覚悟だ。しかし、仮に知見のある読者がいる場合、諸々の批判や指摘、情報共有は受け入れるつもりでいるので、豊かで興味深い示唆があればご教授願いたい。

 堅苦しい前置きをしたが、文学作品をめぐる面白い現象であると考えているし、会ったこともない人間の文章に惹かれて強く敬慕するという、ともすれば奇妙な人間の営みが可能になる人間心理、メディアの可能性が示唆されるので、意義深いと思う。以下、ほとんどが論文の構成に則っている。

また、執筆中に思慮したが、評伝というよりは追想録・回顧録に近いメディアを分析対象としていることを近日自覚した。

1. 問題設定と本稿の目的
2. 分析の対象と方法
3. 先行研究
4. 教育思想家としての下村湖人
4.1. 下村湖人の思想と朝倉先生
4.2. 評伝に見られる受容
5. 評伝に見られる「私淑」
6. 自伝的教養小説はいかに読まれたか
6.1. 友愛感情の組織化
6.2. 無限定性をもつ啓蒙的受容
6.3. 本稿の限界と課題

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1. はじめに(問題設定と本稿の目的)
 下村湖人の代表作、自伝的小説として読み継がれてきた「次郎物語」(全5部)は、多数の読者を魅了し人生に影響を与えてきた。本稿は「次郎物語」と下村湖人を追想する評伝を素材に、現代日本社会における小説を通じた「私淑」のあり方および機能について検討する。分析の補助線とするのは、文学論における小説のパタンであるビルドゥングスロマンと、日本社会に根ざした「私淑」の文化である。主人公の様々な経験や移動をとおしての自己形成をモチーフとする物語の一ジャンルを、近代ドイツ文学の呼称からビルドゥングスロマンと呼ぶ。「次郎物語」が下村湖人の自伝的教養小説であることは広く知られ、日本のビルドゥングスロマンを代表する一作といって過言ではない。主人公・本田次郎の成長がしばしば読者のロール・モデルとして機能し、作品が読者をある意味啓蒙するような関係が認められる点で、教養小説のカテゴリに属するといえる(登張 1964:4)。ビルドゥングスロマン、日本でいう教養小説が読者を啓蒙する物語のパターンをもっているのに加えて、「次郎物語」は教育思想家の出自をもつ下村湖人の処女作であった点と、しばしば下村湖人に対してインフォーマルな敬慕を示す文章が残っている点で特異だ。現在、ビルドゥングスロマンの存在を担保した近代社会の制度や文化は、様々にゆらぎをみせている(竹内 2020)。現代にその典型を看取しがたいビルドゥングスロマンだが、戦後社会にも認められる教養小説「次郎物語」では、読者はどのようにこれを述懐しているのだろうか。また、日本文化の文脈に即して、作者下村湖人と読者共同体の間には、どのような関係性が生じていたのだろうか。

2. 分析の対象と方法
 分析の対象作品である「次郎物語」は、本田次郎の幼年期から青年期までの魂の成長を描く自伝的教養小説である(張 2009:230)。1941(昭和16)年に第一部が出版され、1954(昭和29)年に第五部をもって完結した。本稿でも全五部を対象とする。作者の下村湖人は1884年、佐賀県の生まれであり、教育家・小説家である。佐賀中学校、第五高等学校を卒業し、1909(明治42)年に東京帝大英文科を卒業したのち、佐賀中学校教師になり、以後複数の中学校と高等学校で校長を務めた。1931(昭和6)年、台北高等学校校長の職を辞して上京、社会教育に専念したのち著述生活に入り、「次郎物語 第五部」を刊行した翌年の1955(昭和30)年に死去した。
 もう一つの分析対象である下村湖人の評伝とは、「一教育家の面影 下村湖人追想」である。1956(昭和31)年に、『新風土』同人の間で企画がおこり、下村湖人の先輩、友人、同僚、教え子、社会教育時代の関係者、門下、親戚、身内、人間関係、愛読者から寄せられた百二十余篇の回想を集めて刊行された。『新風土』という湖人が主宰した同人文芸雑誌に関連する民間人の言も多数集められ、読者層の幅広さを物語っている(永杉編 1956)。編集にあたったのは『新風土』の同人のうち加藤善徳、永杉貴輔であった。
 本稿の構成においては、教養小説研究、下村湖人研究および「私淑」文化研究を概観したのちに、評伝における「次郎物語」特有の「私淑」に焦点を当てる。教養小説研究については、そのパタンに関する研究が多数なされているため本稿の視座に基づき整理する。下村湖人研究のレビューについては、彼の教育思想と実践がいかに「次郎物語」に凝縮して記されているかに着目する。「私淑」文化研究については、教育文化としての「私淑」の歴史社会学的研究を概括し、後述の議論に繋がる。教養主義的読書と結びついた「私淑」のあり方とその歴史的な変容を踏まえ、評伝に見られる敬慕が教養小説「次郎物語」特有の表れ方をしていることを論証する。
 下村湖人の評伝を対象とした研究は管見の限り見当たらず、メディアの受け手である読者の受容については資料選択・仮説構築型の研究となるだろう。作者と読者共同体の間の関係性について、現代日本の教養小説特有のパタンが確認されることで、日本型「教養」の伝承(筒井:2009)に一つの形式が存在したことを明らかにする。

3. 先行研究
 ビルドゥングスロマンとは、人生の旅路を歩み出した青少年が様々な試練に遭遇し、精神的な成長を経て自己確立(Ausbildung)に至る過程を描く物語を典型としている。代表的な作品に、J.W.ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』、グリンメルスハウゼンの『阿呆物語』、ディケンズの『デイビッド・カッパフィールド』などがある。ビルドゥングスロマンの多くは主人公の教養・立身出世・自己確立を主題にしているとともに、読者自身の教養を促し啓蒙する機能をもつ(登張 1964)。
 下村湖人を教育学的視点から研究したものに、上岡安彦(1978)がある。上岡の分析によれば、下村湖人は「当時の日本の教育者への抗議」という性格の内容をもって、親ないし教育者への児童の人間性理解ならびに教育理解の書として「次郎物語」を編んだ。子どもを読み手と想定して「次郎物語」を書いたのではないにもかかわらず、思春期における生きる意欲を失おうとしている年頃の少年少女に元気づけられるものを内蔵している。下村湖人の手による「あとがき」の分析を通じて、「人間の生きる相に即して教育実践すると同時に教育を人間性において徹底的に考えていった」性質の「教育の理論」をもっていたことを明らかにする 。教育行為がもつ矛盾の構造を乗り越える形態として、自伝的教養小説という形式が選ばれたとされる 。
 稲垣恭子によれば、指導関係を<人格的―没人格的>という軸と<直接的―間接的>という軸から類型化すると、間接的ではあるが情緒的な絆を含む人格的な関係を、「私淑」型と呼ぶ。すなわち、間接的で一方向的な師事のスタイルが「私淑」であり、出版メディアを通した積極的で選択的な「私淑」が「次郎物語」同時期のスタイルといえる。出版メディアを通した「私淑」が広がる重要な土壌になったのは、学術・教養書や総合雑誌を軸とする教養主義文化であり、その中心は岩波書店だった。教養主義的な読書の広がりとともに、読書により「私淑」も拡大したが、古今東西の著名な学者や芸術家、思想家を「準拠的個人」にすることで、直接には師事できない人物に接近し、自らの人生をそれになぞらえ、理想的な自己イメージを保持できる。単なる直接の師弟関係の代替から、積極的な選択としての「私淑」が広がっていった(稲垣2017:165-179)。「私淑」は、擬似師弟関係としての「私淑」から、積極的選択としての「私淑」、さらにメディアへの公開や新しいネットワークへと展開する「シシュク」へと、メディアとの関係の中で大きく変容してきたと概括する(稲垣2011:186-211)。ここで指摘される「シシュク共同体」は、読者(隠喩としては弟子)たちの間の議論の場やバーチャルな「師弟共同体」が広がりうることを示唆しており、本稿の分析対象である評伝は、まさしくその理念型と呼ぶに値するものだ。この読者共同体の無限大の拡がりも、現代に連なる「私淑」≒「シシュク」文化の特徴である。
 上述の先行研究を踏まえ、仮説構築と分析枠組みを以下に示す。教養・立身出世・自己確立を主題とする点で、「次郎物語」は戦後日本社会の典型的ビルドゥングスロマンである。「次郎物語」に特異な点として、下村湖人が教育をめぐるイデオロギーをもって執筆した自伝的教養小説かつ教育論であることと、国内の読者たちがこれを通読し主人公・本田次郎に加えて下村湖人本人への「私淑」を実現していたこと、の二点が挙げられる。分析の枠組みとして、下村湖人が描写の中に埋め込んだ教育論、および読者が受容したそのエッセンス、そして読者が亡き下村湖人に寄せた「私淑」の無限定性を設定する。

4. 教育思想家としての下村湖人
 本章では下村湖人の自伝的教養小説かつ教育論である「次郎物語」が、どのようなイデオロギーをもって書かれ、読者がどのようにその教育論を受容したのかを分析する。分析にあたって評伝から前提にできることは、複数の言質から、「『次郎』も結局は自らの教育観を書いたものです(大西 1956:51) 」という旨の湖人の自己言及が確認されていることである。つまり、下村湖人は「次郎物語」をはっきりと教育的意図をもって著した。
4.1. 下村湖人の思想と朝倉先生
 教育思想家としての下村湖人については、戦前から一貫して、生活者に根ざした協同生活訓練を通じて地域に協同社会を建設するという考え方で戦後の日本社会に向き合ったとされる。教育著作として代表的な『塾風教育と協同生活訓練』では、「よき習慣を作ることを通じて、過去のよき継承者たる資格を得ること」と「正しい価値判断の能力を養うことを通じて、新しい将来を創造しようとする努力を生むこと」ができることが求められた(下村 1940上原 2016)。前者の素養は旧来の師弟関係において養われるが、後者の素養は非教育者相互の友愛感情によって結ばれた自然的な社会においてこそ養われるとされている 。湖人は師弟間の信頼関係と被教育者相互の友愛関係を同様に求め、「友愛感情の組織化」を図った 。荒正人による下村湖人評によれば、彼は「明治人として武士道と儒教精神のバックボーンをもち、他面、武者小路実篤などの白樺派風のヒューマニズムの影響を受けた人」であり、「帝国文学」にも関係した人物だった (荒 1956)という。
 さて、次郎物語の作品内に、下村湖人は登場するのだろうか。既に定説にあるが、本田次郎のモデルは下村湖人の幼少期であり、第二部から登場し第四部で鍵となる朝倉先生のモデルが湖人自身であることは疑いがなく、下村も「五巻目は殊に朝倉先生の体験が私の体験になっている」と認めている 。彼は当時中学一年生の次郎が五年生(三つボタン、苗字は室崎)の卑怯で陰湿な挑発に接して、小刀を振り上げるシーンに、校内巡視の先生として初登場する。「色の浅黒い、やや面長の、髯のない」「眼がすきとおるように澄んで、よく光って(下村 1950=2020:277)いる人物である。「君は小刀を握っていたね。あの時はやむを得なかったかもしれんが、これからは、もう兇器だけはよしたほうがいい。戦争じゃないからな。日本人同士が傷つけ合うようになっては大変だ(下村1950=2020:280)」と諭し、大慈悲心や四誓願、葉隠を引き合いに出しながら訓すのであった。この事件後、次郎は急速に朝倉先生に心酔し、先生に紹介された「葉隠抄」の警句に、「大慈悲を起こし人のためになること」を志して、中学生の次郎は成長を遂げていくのであった。第三部では「白鳥会」という朝倉先生主宰の会合に参加する 。第四部は、1932(昭和7)年の設定であり、五・一五事件について素直に述べられた朝倉先生の所信が軍人を刺激し、憲兵隊が問題視するようになる。結局、朝倉先生は知事から辞職を勧告され、次郎の朝倉先生留任運動もむなしく、次郎の中学校退学および朝倉先生の辞職・東京への転出という終わりを迎える。この一連の考察は張季琳(2011)に詳しい。
 ここでは、朝倉先生の教育実践から個人のメッセージを読み取る。朝倉先生の教養の骨格は禅をはじめとする仏教思想や『葉隠』をも含む武士道など東洋的なものであり、これは作者下村湖人にもおおむね当てはまる。彼は英文学を専攻し、英語教師を勤め、西洋思潮にもそれなりに通じていたはずであるが、その根底にあるのはやはり仏教や儒教に根ざす人道主義であったと言えるだろう(張 2011:232)。荒による湖人評との対応関係において、朝倉先生の言動には下村湖人の思想が含有されているものと見てよい。つまり、作者が自己の教育観や時局観を朝倉先生に語らせ、かつ作者自身の教育者としての理想を朝倉先生という形で作中に具像化したということである。
 さらに、一層明瞭に湖人の言葉が作中に登場するのは、文庫版の「次郎物語」である。講談社の青い鳥文庫で文庫化された「次郎物語 上・下」では、平易な文体(敬体)に書き改められた上で、湖人の言葉で読者への語りかけがなされている。小中学生の読者に向けて添えられたこれらの言葉は、朝倉先生に憑依して湖人が作中に登場すること以上に、作者による青少年読者の啓蒙・教育という形をとっている。例を挙げる。
 むかし、中国の王陽明という大学者は、「山の中の賊をやぶるのはたやすいが、自分の心の中の賊をやぶるのはむずかしい。」といいましたが、次郎のような境遇にいると、ことに、それがむずかしいのです。わたしたちは、次郎をさげすむ前に、もし、わたしたちが次郎と同じ境遇にいたら、どうだったろう、と考えてみることがたいせつなのではないでしょうか。そして、そんなふうに、なにごとも自分の身にひきくらべて考える人なら、次郎の悪いことは悪いこととして、かれを心からにくむ気にはならないだろうと思います。((上)p .163)
 直接引用した上記のように、湖人が小説内で子どもたちあるいは教育者や親たちに語りかけ、武士道や儒教精神と相性の良い彼の思考を滑り込ませていることが確認できる。青少年(男子)のビルドゥングスロマンのパタンを踏襲した物語の内部で、決して青少年特有でない問題や人格形成に通じるメッセージを湖人は発信し続けている。青い鳥文庫の版では、朝倉先生が登場する場面までには至らない。湖人の意図は定かではないが、地域に協同社会を建設するという実践の根底にある思考を、武士道や儒教精神や陽明学と組み合わせたテクストを通じて、「次郎物語」の中で読者を組織化する機能をもった小説に昇華させている。教育思想家としての下村湖人は、「次郎物語」を通じて自らの教育観・人生観に率直に、これを著していたのであった。しかしながら、対面で実際に「次郎物語」の読者に接するとき、また特異な印象を残して湖人が世を去ったことが以降の評伝から示唆される。

4.2. 評伝に見られる教育観の受容
 では、作中の朝倉先生や青い鳥文庫版の語りかけにも評伝の中の直接的な関係にも見られるような、上述の下村湖人の教育観を、「次郎物語」の読者たちはどのように受容しただろうか。本節では、評伝のうち教育観に言及し、かつ下村湖人への敬慕を示した寄稿に焦点を当てる。特徴として、評伝の第四部には「次郎物語」の読者となったのを契機に、下村湖人を個人的に敬慕した者の寄稿が並べられている。
 学校のクラブ活動の一端で作家訪問をしただけの対面であったが、東京・千早高校三年の豊田玲子は、湖人を「先生」と呼ぶ。「生涯にただ一度しかお目にかかれなかった先生。私が先生とお呼び申し上げ、いかにも知ったかぶりでいることを、先生は笑ってお許しくださることと思います(永杉編 1956:197)」と書く。さらに「先生のお話はやさしかった。先生が云われるように、私達は特にむずかしいことも新しいこともお聞きしなかった。私にはなんだか不満のような気持がどこかにあった。それに私の生囓りの今の文学作品などは、先生の云われたこととあまりに違っているような気がした」と振り返る。
 前者では、一度だが対面を伴う学習の経験があり、直接的な師事を認識していることが明らかだ。後者では、湖人があとがきで述べるところの「教育行為がもつ矛盾の構造(上岡 1978)」がほのめかされる。仏教や儒教の精神に基づく一部教条主義的な教育を行うことでは、「教育した先の理想像を描くこと自体に既に被教育者に求める大切なものの拒否を伴ってしまう」という湖人のジレンマが顕在化してしまう。豊田が「不満のような気持」を感じたように、師弟関係の信頼と被教育者の友愛感情という二点を重視する湖人本人の教育スタイルは、被教育者への抑圧を回避した、調和的で簡易的なものであったことが分析から明らかになる。
 他方で、教育者として教育に従事するものたちは下村湖人ならびに「次郎物語」からどのような教育観を摂取しただろうか。北海道教育委員の木呂子敏彦は、「先生今や亡し。しかし、先生はひたすらに若き青少年の前途に心をかけられ、祖国の未来を信じ、教壇にたゝない師父としてその生涯を文筆によって全うせられたのである(永杉編 127)」と寄稿した。木呂子のように、すべての青少年さらには祖国の父・教育者として、下村湖人を位置付ける稿は教育者や文部官僚の言葉に多数見られる。
 より個人的な問題から人生観を改めるに至った読者の言も複数収録されている。例えば、「一読者」と名乗る江戸恒雄は、「一番大切なのは、Tさんとの因縁を十分生かすことです。人生において最も大切な仕事は、高貴な魂の結合を全力をあげて成就して行く事です、もし君等が君等自身の魂の高貴を信じるならばもっと勇敢であっていいように思います」という下村の言を回想し、「愛情の芽生えを意識する」同僚との「魂の交流」を肯定し、協同生活を意識した人間関係を築いている(江戸 1956)。個別具体的な関係についても湖人の助言を仰ぎ、湖人の「友愛感情」「共同生活」の重要性に触れ、自らの生活に応用した経緯がある。「次郎物語」を通読したのみの読者よりも、直接対面して助言を仰いだ読者のほうが、自らの生活に全面化して教訓を捉え、「次郎物語」の文脈からやや距離をとった自己啓蒙を行っているようである。すなわち、これら下村湖人のイデオロギーは、彼が戦前の教育論の中で語った協同生活を通じた鍛錬、友愛感情の組織化を湖人が直接的に伝達している側面が強い。

5. 評伝に見られる「私淑」
 本章では、昭和10年代以降の「教育小説」である「次郎物語」を通じて、作者・下村湖人と読者たちとがどのような関係性にあったかを分析する。結論を先取りして述べると、教育観を受容するとともに、評伝に見られる「私淑」は、「次郎物語」の主人公たる本田次郎から著者の下村湖人へと延伸するとともに、評伝の寄稿者が時空間の双方に無制限に広がる読者共同体を想定する、という拡大をもった教育文化である。
 評伝に寄せられた百を超える評伝のうち、「私淑」とコーディングできたものの大半は第四部に集中している。ここには、「次郎物語」の通読を契機に本田次郎ならびに下村湖人への思慕を深めた者たちの言葉が並ぶ。「私淑」とコーディングできたうち、その典型的なものを羅列するとともに、徐々にその無制限性が現れたディスクールを抽出してそのエッセンスを明らかにする。


 私は先生の著作によって結びつけられている一青年です。特に次郎物語は、今春高校卒業と同時に全四巻を購入することができ、そしてまた最近は五巻を読ませていたゞくことが出来、本当に嬉しくありました。卒業後就職に失敗した私は、先生の作品に励まされて来ました。私はどうかして悪環境を克服しようと心がけました。十月からその目的の一環として、職業補導所に毎夜通い、経理事務の技術を身につけようと、一生懸命勉強しています。(次郎君の苦しい時は私も苦しいのだ)と思って頑張っています。これは現在の私に与えられた唯一の希望であり、就職の失敗から与えられた収獲だと思っています。(中略)先生にお願いがあります。それは本当にお体に留意されて、次郎を育てゝいたゞきたいことです。(佐藤広治 新潟県在住 p.210)

 佐藤はいわゆる「勤労青少年」(井上 2012)だと推測される。悪環境におかれ教育システムから排除された格好の青少年にとって、苦学・アスピレーションへと心を掻き立てる作品として受容されたことが窺える。就職に失敗した春にこれを購入・読破し、さらに「育てゝいたゞきたい」に象徴されるように、職業補導所での訓練を通じて「成長」を遂げたいという自己の願望を投影させる対象として、本田次郎に期待を寄せている。啓蒙的に次郎物語を受容し、「結びつけられている」感覚をもって刻苦勉励している。一青年の佐藤はけっして孤独ではなく、広がる読者共同体を想起し、本田次郎を透徹した先に著者・下村湖人への私淑をここに記している。

次郎物語を読んだのは十八才の時だった。こんなに真剣に考え、反省して読んだ本はない。幼い頃患った足の不自由からくる気の弱さ、不満、愛されたい心をもちながらその上奉公をしていて色々な目に会い(原文ママ)、絶えず苦悩しよりどころを求めていた折であった。(中略)
その都度克己鍛錬という言葉を念頭において二年間努力した。そこで私は勇気をあたえてくださった先生に、感謝の気持をお伝えしたいと思い昭和二十八年十月四日午前十時、喜びと不安な気持ちでお伺いした。「私の自己建設」という奉公日記、次郎物語を読む前の私の生活態度と、読んでから後の考えとを記したノートをお見せした。(中略)
先生は、「あなたの日本一の洋服屋となる気持ちは尊い、今の人はどうも一つの道に辛抱してその道で一流の人になる希望を抱く人が少ない、生活そのものが真の教養なのだ」そして「色々と数多く本を読みなさい」と言われ、特に力強く「あなたはこれから金が必要なのだから、無駄使いをせずに金を貯めることに努力しなさい」と言われた。
(中山富夫 p.202)

 中山富夫の文章は平易であり、既に示した分析枠組みから理解可能だろう。脚の不自由というハンディキャップをもつ彼は、「次郎物語」との出会いを通じて自らの鍛錬に臨み、「私の自己建設」と名付けた「奉公日記」を携えて下村湖人のもとを訪れたのであった。「自己建設」は無論、ビルドゥングと同義であり、自己確立を目指す主人公の本田次郎と自らを重ね合わせて「教養」を感得していたことが見てとれる。
 本来の読書ならば個人的で一方向的な「私淑」が師事スタイルの典型であるが、青年中山は湖人の自宅を訪れて師事している。豊田玲子同様にこの「私淑」は、自伝的教養小説「次郎物語」の読書を契機として作者と対面し師事を深めている点および、他の読者たちにこの対面の事実を開陳する点で、特殊である。後者については評伝へのあらゆる寄稿者に該当しうることだが、「有名性の欲望」という側面も言及する必要がある(稲垣 2017)。評伝への寄稿は、本人の純粋な敬慕や役割期待を遂行する行為といえるが、「私淑」という枠組みを通じて検討すると、話題性と有名性をもつ師と並んだ(接近した)感覚をもたらす、という副次的な目的に適うものである。評伝というメディアの特性ゆえに偶然分析可能になった資料だが、このメディアの特性にも注意して「私淑」という教育文化を見定める必要がある。
 しかしながら、「私淑」のスタイルが一方向から双方向、特に読者共同体の維持と拡大に変容を遂げていく過程を評伝に認めることができる。特に勤労青少年が教養小説を受容する際のディスクールおよび具体的な行動として、佐藤と中山の例は新奇性が高く顕著な「私淑(シシュク)」のあり方を示したものといえる。

先生はなくなられた
だけど次郎は生きている
それぞれの読者の胸に
先生は次郎となって生きておられる
次郎は強い 素晴しく強い人間だ
私は生きていていろいろのことに出あう
そして負けそうになるときっと思う
次郎はもっと強いぞ
次郎ならきっとやり通す
ほらお前もしっかり頑張るんだ
私は内からのこの強い声にはげまされて
努力し精を出し頑張る
私はこうして 苦しみ 悲しみ 悩み
怒りを克服し一歩前進して
少しでもより高い人間に近づこうとする
(中略)
読んでからもう何年か経つけれど
今の読みおえたときの実感そのまゝの強い印象は消えない
あの時は素晴しかった
私の目にはなにもかもが生きかえったように新鮮さを増した
私の人生は俄に輝き出したように思えた
先生は自らおっしゃっている
もし教育は何かと人にとわれたら
私はだまってこの書物を渡すと
次郎物語は私の一つの転換だった
先生はなくなられ お姿はないけれど
それぞれの読者の中に生きておられる
そしてこれからこの書物に接する人達の中に
永遠に生き続けてゆかれるのだ
(山田義子 P.204)

 山田は、青森県黒石市の女性詩人と推定される。本田次郎を通じて個人的に下村湖人を慕い、熱烈な哀悼と決意を詠んでいる。「次郎物語」との出会いが彼女の転換点となって彼女を「強く」「高い」人間に近づけ、人生に「輝き」を与えていると、彼女は詠む。また、日々の苦労のなかで自分自身を奮い立たせる「加熱装置」的な機能を果たしていることが示唆される。佐藤の例とは異なり、自身の人生全般にわたって自らを発展させ加熱させる「教育」のメディアとして、「次郎物語」を捉えている点で「教養小説」として受容していることが明らかである。さらに山田は、「次郎物語」の読者共同体を明瞭に意識し、作者の死後も継続する「私淑」の存在を示唆する点で、教養小説特有の「私淑」の様態を呈している。自分を奮い立たせている物語の主人公が読者たち個々人に対しても教育のメディアとして作用していることを明言する。その上で個人的に敬慕し「私淑」する下村湖人先生が、「それぞれの読者の中に生きて」いること、すなわち読者共同体の巨大さおよび下村湖人の精神の永遠性(不死)を、ここに断言している。これからこの書物に接する人達」の中にも息づくことを当然視する姿勢からも、時空間の無限定性をここに見ることができる。作者が逝去したのちにも作品の主人公は読者共同体の中で「生きて」いるのだ。
 これら3名の記述を代表としながら、1940年代から下村が死去した1955年ごろまでの「教養」と「私淑」の先行研究と合致するか照合してみよう。稲垣の「私淑」文化をめぐる研究の論脈を踏まえ、「次郎物語」という教養小説の読書行為が遂行していた意味を分析する。教養主義的な読書の広がりとともに拡大した「私淑」は、「次郎物語」を読んで主人公の本田次郎に共感した読者たちにおいては、次郎から延伸した先に下村湖人なる「教育家」像を措定し直接的に師事するという意味で、より無制限な「私淑」=「シシュク」を可能としていたのではなかったか。
 以上、「次郎物語」の読者や評論家の評伝をもとに、下村湖人による「教育小説」としての側面から「次郎物語」を検討した。下村湖人は「次郎物語」の各章末やあとがき、さらには他の著作を通じて、教育者および親/青少年の読者の多方面にメッセージを送っており、その教育観は教育者たちに大きな示唆を与え、直接的に啓蒙するものであった。「次郎物語」は彼の教育観が平易な物語の形で示されたものであり、朝倉先生という具像化を認める教育者たちは彼の教育思想を受容し個人的な敬慕を評伝に示した。他方で、一般の読者たちの間では主人公の次郎への共感と同時に下村湖人への「私淑」が時空間の無限定性をもって拡大していったことが窺える。読者が経験した啓蒙は「それぞれの読者の中(前述・山田)」に生き続け、読者相互を「結びつけ(前述・佐藤)」る教育だと、特に若年層の若者はこれを受容したのであった。5章に示した「私淑」の事例は、勤労青少年や学生を中心とする若者の間に偏って確認され、「次郎物語」が契機になった思慕が作者・下村湖人への「私淑」へと敷衍して、湖人との対面から双方向の関係性に発展するあるいは評伝執筆によってオープンになる、といった形でオープンな「シシュク」への変容・揺らぎを示唆するものであった。

6. 自伝的教養小説はいかに書かれ読まれたか
 分析で得られた知見について、ビルドゥングスロマンと「私淑」文化を補助線にしつつ、再度検討する。その際、評伝の中で下村湖人の言動に込められた教育論としての「次郎物語」に関わる知見と、「次郎物語」の受容に関わる知見との2つに分けて述べる。

6.1. 友愛感情の組織化
 先行研究同様に、下村湖人の教育観および人生観は、主著『塾風教育と協同生活訓練』以来通底する、友愛感情、調和、協同生活といった共同的・情緒的で生活に根差した理念とともに「次郎物語」でも表現された。この理念を説く仕掛けとして、湖人の理想の教育者像=分身というべき朝倉先生という存在が、ビルドゥングスロマンの内容に具像化されている。さらには、熱心な読者の訪問や文通にも丹念に対応し、「先生」というポジションから離れて自ら啓蒙を試みた下村湖人本人の営みが、「次郎物語」の受容を一層昂進させた側面がある。この受容の昂進を支えたのが、熱心な読者共同体を伴う「私淑」の文化であることが主に5節の分析から明らかになる。
 ビルドゥングスロマンが自伝的教養小説とほぼ同義である事例は多数あるが、下村ほどはっきりとその性質を認めて打ち出した近現代日本の小説家は、他にいない。友愛感情を伴う読者共同体が教養小説「次郎物語」を通じて組織されたと同時に、物語のプロットに止まらない作者本人に対する個々の熱烈な「私淑」が、寄稿に示された内でも数十篇あった。塾風教育や協同生活訓練を通じて湖人が訴えた実践的な友愛感情の組織化は、「次郎物語」を通じて迂回的に達成されたといっても過言ではないだろう。下村湖人が『塾風教育と共同生活訓練』以後に企図した青年団や壮年団、公民館構想が「次郎物語」の刊行と前後して充実を見せたことは、彼の教育思想は一定程度「次郎物語」の受容と並行して進んだものと考察できる。自伝的教養小説がその教育思想と著者の営みゆえに、友愛感情を伴った読者共同体、若者のリアルな共同体を組織化したことが、本稿の評伝の分析から明らかになった。

6.2. 無限定性をもつ啓蒙的受容
 稲垣の「私淑」の先行研究から、メディアとりわけ読書を通じた「私淑」は選択的であり、確執や葛藤を回避しながら間接的な師事を可能になることが明らかである。本来はひそかな師事スタイルであった個人的で一方的な「私淑」が読書を通じて形成された一方で、オープンなスタイルを取ることも少なくないような「シシュク」が、現代の学びの可能性として記されていた(稲垣 2017)。下村湖人の死後すぐに刊行された本稿の分析対象である、評伝「一教育家の面影––下村湖人追想」に見られる啓蒙的受容は、この知見を援用・例証する萌芽的な事例だ。すなわち、日本のビルドゥングスロマン=教養小説をめぐる「私淑」は、個人的で一方的な「私淑」からオープンで双方向的な過程をもつ「シシュク」へと教育文化が変容したとする境界線に、下村湖人「次郎物語」と読者共同体によるメディア(「評伝」)のコミュニケーションを位置付けることができる。自伝的教養小説であるというメディアの特性を6.1.に示すとともに、評伝に見られた「無限定性」こそが「私淑」から「シシュク」への補助輪となったことが明らかになった。
 先行研究ではメディアクラシーが「私淑」という教育文化に変容をもたらしたという総括的な理解がもたらされていた。しかし本稿では、作者の個人的経験や教育思想が内包された自伝的教養小説および作者を偲ぶ評伝、という具体的なメディアを通じて教育文化の変容が遂げられたことを、テクストから実証的に明らかにした。自伝的教養小説ゆえに生じた「準拠的個人」の転位・延伸、評伝ゆえに生じた「有名性への欲望」の回路・その充足、という二つのメディアそれぞれの特質を踏まえ、教育思想や個人的な思慕を軸にした読者共同体の、時空間の無限定性が、「私淑」のメディアクラシー化の分節点として明らかになる。

6.3. 本稿の限界と課題
 本稿の限界としては、分析の対象が下村湖人追想の評伝であり、非常に熱烈に湖人を敬慕した人々の受容に偏ってしまったことをまず挙げる。
 別稿で論じるが、教養小説としての「次郎物語」の解読や解釈は湖人研究家によって多数なされている(張 2011:233)ものの、本稿ではそのわずかしかあたっておらず、下村湖人の経験や他国のビルドゥングスロマンとの共通点・相違点については触れていない。本稿では作者下村湖人の意図と読者共同体の受容の特殊性から、教養小説「次郎物語」が成長物語として読者を啓蒙した側面を明らかにした。他方で、物語のプロットやコンテクストの側面から、「次郎物語」がいかに読者の「私淑」に資する要素を存しているのか、明らかにできていない。
 さらに「評伝」というメディアの扱い方について、定まった評価に基づいた精緻な分析はができていないことに、この研究の課題と可能性がある。寄稿者の特性やディスクールの類型について分析することで、「次郎物語」が読者にどのように受容され、評伝における語りはどのような現れ方をするのか、一層の研究が必要である。

〈文献〉
稲垣恭子、2017、『教育文化の社会学』放送大学教育振興会。
井上義和、2012、「低学歴勤労青少年はいかにして生きるか?」『教育における包摂と排除–もうひとつの若者論』(稲垣恭子編)明石書店。
上原直人、2016、「戦時下から戦後改革期における下村湖人の教育思想と実践」『研究名古屋大学大学院教育発達科学研究科附属生涯学習・キャリア教育研究センター紀要 生涯学習・キャリア教育』第12号、pp.33-44。
上岡安彦、1978、「「教育の構造」分析 -下村湖人『次郎物語』第一部について-」『駒澤大学教育学研究論集2』pp.101-126。
下村湖人、1940、『塾風教育と協同生活訓練』三友社。
筒井清忠、2009、『日本型「教養」の運命』岩波書店。
登張正実、1964、『ドイツ教養小説の成立』弘文堂。
永杉喜輔編『一教育家の面影–下村湖人追想–』新風土会。渡部治、2016、「『次郎物語』と下村湖人の思想」『国際経営・文化研究』淑徳大学紀要。

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