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アイデンティティ政治の 発明について: 日本における 被差別部落民

J・マーク・ラムザイヤー

要旨

14の実態調査と多種多様な一次資料を使用し、日本で被差別部落民とされる人々について、ほとんど架空のアイデンティティが作り上げられ、彼らの名目上の人権団体が(いくつかの重要な側面で)非常に犯罪的な恐喝装置へと変貌したことを追跡する。研究者たちは長い間、被差別民 ―「部落民」― を前近代の皮革職人ギルド(訳注: ギルドは西欧の職人集団を指す言葉であるが、筆者があえてこの言葉を選んだ理由は後述される)の末裔であると説明してきた。彼らの先祖が屍肉を扱い、日本の禊祓に関する伝統的価値観に反するため、部落民は差別に苦しんできた。

真実は、ほとんどの部落民は皮革職人の子孫ではなく、明らかに規範から外れた貧しい農民の子孫である。部落民以外の人々が、ケガレ意識から彼らを避けたのかどうかは定かではない。ただ、確かなのは、犯罪へ巻き込まれたくないため、また彼らの崩壊した家族構造を理由に、部落民を敬遠したであろうということだ。

部落の近代的変容は、自称ボリシェヴィキが部落「解放」組織を立ち上げた1922年に始まった。マルクス主義の歴史的概念にグループを適合させるために、彼らは、皮革職人ギルドという架空のアイデンティティを発明し、現在に至っている。その後、憎しみに満ちたアイデンティティ政治が続いた。数年のうちに、犯罪企業家が新しい組織をのっとり、偏見への暴力的告発(訳注: いわゆる「差別糾弾」のこと)と巨額の金銭要求を組み合わせた、ゆすり戦略を開拓した。そして、戦略的移住と公的補助金の循環が起こった。その論理は、ベッカーとハーシュマンが描いた経済論理をそのまま踏襲している。すなわち、これまでになく多額の(収奪可能な)補助金が大きくなるにつれ、機会費用が最も低い部落民は部落に留まり、犯罪職に就くインセンティブがますます大きくなった。この戦略が生み出した激しい市民の敵意を考えると、最も正当な職業選択機会を持つ部落民は部落を棄て、代わりに一般社会に統合される道を選んだ。

Ⅰ. 序論

多くの説明によると、日本の「部落民」の先祖は、17世紀の皮革職人のギルドに由来するとされている。<日本語では「同和」、英語では「burakumin」が標準的な用語のようである>日本の宗教上の規則では、これらの先祖は、慣習的に不浄な世界で働いていたことになる。日本では、伝統的に清浄に対する強迫観念が蔓延しているが、それが表に出ることはほとんどないが(これら従来の説明によれば)、現代の日本人は現存する子孫を差別し続けている。数世紀経った今でも、部落民との結婚を避け、できる限り雇わないようにしている。

部落民(「部落」の人々)は、他の日本人と外見上の違いはない。別の言葉を話すわけでもない。私的な神を崇拝しているわけでもない。何世紀にもわたって行われてきたこの慣習的清浄への顧慮から、一般の教育を受けた日本人は部落民を敬遠し続けていると言われている。現代のアメリカの大学に通うインテリ層にとってはまるで、文化の永遠の可塑性と、偏見、排除、民族的残酷さに対する人間の無限の受容力を確認するために用意された話のようだ。

真実は、ほとんどの部落民の先祖は、動物の皮をなめしたり、皮革にかかわる商売をしたりしていたわけではない。ギルドに所属していたわけでもない。それどころか、ほとんどの部落民の先祖は、非常に壊滅的な貧しい農民たちのゆるやかな集まりである。19世紀から20世紀にかけての部落は、世界中の下層社会と同じように、機能不全に陥っていた。まるで(これは一例であるが)、アメリカ南部の貧しい白人の中の「クラッカー」のように、貧しい部落民の多くは(もちろん全員ではないが)、すぐに怒り、喧嘩を危険なレベルまでエスカレートさせ、仕事や教育にコストのかかる出資を避けようとした。その結果、犯罪率が驚くほど高くなってしまったのである。また、自分の結婚や家族のために無造作に浪費していた。

部落と部落外の敵対関係は、経済の発展によってもたらされた。19世紀末の数十年間で、商取引、旅行、移住が急激に増加した。それに伴い、日本の主流派と部落民の接触も増えた。それに伴い、文化的な対立も生じた。

そして、1920年代初頭に、事態は大きく進展した。知識人が革命に熱中していた時代である。1922年、部落の上流階級の若者たちが、自ら「解放」運動を起こした。彼らの学生の友人たちは、ボリシェヴィキやアナルコ・サンディカリスム(無政府組合主義)の細胞(支部)を作っていた。彼らは、自分たちのまだほとんど無秩序なコミュニティのために、それを作り上げた。マルクス主義の歴史家たちは、徳川時代初期を封建的とみなしており、マルクスは『ドイツ・イデオロギー』の中で封建的な労働者をギルドに入れていた。部落民の若い知識人たちは、自分たちのグループのために、皮革職人のギルドという架空の民族的アイデンティティを体よく作り出したのである。

[2019年11月6日オンライン公開後訂正追記: 本論文では、1922年に日本の「被差別民」である部落民の自称リーダーたちが、自分たちのグループのために、前近代的な皮革職人のギルドという架空の起源を発明した方法を探っている。初期の指導者の中で最も力を持っていたのはボリシェヴィキであった(創設者の一人は密かにソ連に渡り、党に加入してコミンテルンで活動していた)。彼らは、マルクスが描いた歴史的枠組みの中に自分たちのグループを当てはめるために、この起源を生み出したというのが筆者の説明である。マルクスが、ギルドを前近代経済の中心に据えていたことから、彼らは自分たちのグループのために、前身となるギルドを考案したのである。

この歴史を説明する際に、筆者はマルクスが『ドイツ・イデオロギー』の中でギルドについて論じていることを参照した。マルクスとエンゲルスが『ドイツ・イデオロギー』を執筆したのは1846年だが、出版されたのは彼らの死後ずっと後の1932年だった。しかし、ギルドはマルクスのさまざまな文献に登場している。なかでも『共産党宣言』には、初期の部落指導者たちが1922年に発表した自分たちのマニフェストのモデルにした部分がある。]

その後の10年間で、これらの若い知識人と彼らに続く犯罪的企業家たちは、偏見と差別の2つを、深刻な暴力の脅威を伴って糾弾するようになった。その過程で、彼らは地方自治体からますます多くのお金を強奪するようになった。アイデンティティ政治に基づいたこの戦略は、その後80年間続いた。一貫して、部落の指導者たちが(人権団体を装って)簡単に流用できる政府の補助金を生み出した。

このような変化は、ゲイリー・ベッカーなどの学者が提唱した非市場的行動に対する基本的な経済論理に従ったものである。必然的に、補助金は合法的な職業と非合法的な職業の相対的な利益を変化させた。その過程で、犯罪に対する機会費用が最も低い部落民の男性が、学校を中退して犯罪行為に手を出す動機付けが高まったのである。彼らの多くはコミュニティに留まり、組織的な犯罪シンジケートに参加し、彼らの集団的な圧力を利用して政府の補助金をさらに増額させた。そして、さらに多くの若い部落民が学校を辞めて犯罪組織に参加し、強い犯罪的な圧力(そして部落民の教育水準の低下)によって、政府はさらに支出を増やすことになった。忌わしい悪循環が続いたのである。

このようなアイデンティティ政治によって、部落のリーダーたちは(名目上は人権団体を通じて行動していたが)、自分たちのコミュニティを暴力的に世間の目にさらした。当然のことながら、世間からは大きな反感を買うことになった。1920年代以前の部落は、貧困層が機能不全に陥りがちな行動規範を守る、ゆるやかな共同体に過ぎなかった。日本の社会的規範に沿って行動することを選んだ部落の人々は、概ねうまくやっていて、退去することはなかった。退去する代わりにむしろ、多くの部落民はそのコミュニティに留まり、社会的・経済的インフラを構築することを選んだ。

しかし、1920年代に部落の指導者たちが惹き起こした激しい世論の反発は、明らかに選択的移住を引き起こした。被差別部落は、文化的・身体的属性を持たないため、(ハーシュマン[1970]の言葉を借りれば)低コストの「出口」という選択肢に直面した。犯罪者としてのキャリアに比較優位性を見出した部落民は、政府からの補助金を個人の口座に振り込ませるために残った。しかし、日本の主流の職業に就くための、最良の選択機会のある人々は、次第に部落を棄てるようになった。

戦後、強奪は着実に加速していった。戦後間もない頃、部落の指導者と暴力団が協力して、市町村や都府県から資金を引き出すようになった。1969年からは国からの補助金(訳注: 同和対策事業特別措置法による同和事業のこと)も始まり、その速度は飛躍的に高まった。ラムザイヤーとラスムセン (2018)では、エリック・ラスムセンと筆者がこの後のプロセスを詳細に説明している。政府が補助金を止めたのは2002年になってからだ。しかし、その措置は恐喝装置を効果的に停止させた。部落民の少年たちは、犯罪者になっても見返りが少ないため、学校に残った。彼らは大学に進学し、そのまま戻ってこなかった。ボリシェヴィキの指導者たちが1920年代に発足させた、つまり発明したアイデンティティ政治がついに崩壊したのである。

集団としての部落民は、包括と偏見の問題に広く関心を持つ学者からも、クリストフ(1995)のような公共知識人からも、西洋ではかなり注目されている。しかし、部落民は、これらの学者や知識人が大きく誤解している集団でもある。根本的に彼らが誤解している理由は、ハーシュマンやベッカーのような学者が開拓し、その後に続く何百人もの学者が拡張した社会行動の経済学に基本的に慣れていないことにある。

本論文はラムザイヤーとラスムセン (2018)に基づいているが、部落の歴史的根源についての説明を修正している。先行研究において、ラスムセンと筆者は21世紀の最初の数十年の間にアイデンティティ政治が崩壊したことを説明したが、続く本論文では、この現象がどのようにして起こったのかを説明している。本論文では、20世紀におけるこのグループの社会的変容に対する大規模な理論を探っている。それは、(i)最も低賃金で合法的な仕事の選択肢を持つ部落民が、組織犯罪やより高レベルの政府による強奪の悪循環に堕ちていくこと、(ii)最も高賃金で合法的な仕事の選択肢を持つ部落民が、部落から主流社会へと選択的に移動することである。

部落に関する英語の文献を調査した後(II節)、組織犯罪とゆすりの政治との現代的なつながりを要約する(III節)。次に、部落の根源を17世紀から19世紀にさかのぼって説明し、皮革産業との微妙な関係を指摘する(IV節)。19世紀後半には、部落と他の日本のコミュニティとの接触が増え、その結果生じた対立を議論する(V節、VI節)。

第7節では、1920年代に部落が明確に定義された民族集団として誕生し、暴力的なアイデンティティ政治が開始されたという、極めて重要な瞬間に注目する。1922年、左傾した部落民は、部落を皮革職人のギルドとして再定義した。彼らが作った歴史はほとんど架空のものであったが、その創造は2002年まで続くアイデンティティ政治の発明となった。(VII節)。世間の反感を買い、それに伴って、主流の職業に就くことを望む部落民が一斉に部落を離れるという選択的移住が発生した(VIII節、IX節)。

II 部落の学術研究

A 前近代

日本の学者たちが語る近代以前の部落の話は、近代の部落の話とは根本的に異なる。部落の近代以前の歴史については、学者たちはますます洗練され、知的に独立した研究成果をまとめている。しかし、必ずしもすべてがそうではなかった。世紀半ばの学者たちは、圧倒的にマルクス主義者であり、しばしば機械的であった。

しかし、20世紀最後の数十年になると、部落の歴史家たちは、新鮮な思慮深さを見せ始めた。部落の暴力団系指導者は、歴史家をほとんど放置していたらしい。20世紀の学問に比べて、17世紀や18世紀の歴史の異端性は脅威にならないと考えたのかもしれない。いずれにしても、この半世紀の間に、歴史家たちは精緻で洗練された研究成果をまとめ上げてきた。速水融、斎藤修、高島正憲などの経済史家は、19世紀のイデオロギーに縛られていたこの分野に、近代社会科学を持ち込んだ。部落の歴史そのものには、畑中敏之、黒川みどり、塚田孝などの学者たちが独自のブランドを持ち込んだ。

これらの研究成果をもとに、最近の欧米の歴史家たちが前近代の部落を丹念に研究している。エーラス(2018; 今後公開) は、日本海沿いの福井県にあった「非人」コミュニティを調査している。アベレ(2018)は、19世紀に屠殺業の中心地となる大阪郊外の部落の変容を研究している。マコーマック(2013)は、特に畑中の研究を参考に、徳川末期から明治初期にかけての部落の変遷を詳述している。

B 近代

これはかつての部落史のあり方ではないし、今日の近代部落研究のあり方でもない。日本の本格的な学者による近代の部落に関する研究はほとんど存在しない。その理由は簡単で、部落解放同盟(解放同盟)の指導力にある。解放同盟は、自らを部落の人権擁護者と称しているが、時折、犯罪組織との深い関係を持続していた。解放同盟は、自分たちが宣言した正統性を逸脱する学者に対しては、冷酷な態度で臨む。

真面目な学者は、解放同盟や犯罪組織と喧嘩するよりもやるべきことがある。日本共産党(JCP)に所属する著述家たちは、解放同盟に対抗するために日本共産党を頼ることができるし、実際に頼っている。マルクス主義の前提についてはともかく、日本共産党の学者たちは、少なくとも解放同盟が発表した正統派の思想を無視している。日本共産党と解放同盟の両方からの知的独立を主張する人々は、典型的に、代わりに他の研究対象を見つける。誤解を恐れずに言えば、日本共産党以外の学者が近代部落について書いていることのほとんどは、全く予想通りの内容で、かなり信憑性が疑わしい。日本人は、彼らを粗末な「御用学者」(訳注:原文にもgoyo-gakushaとある)と見なしている。

残念なことに、西洋の学者がそれに勝ることはほとんどない。理由はともかく、西洋人は解放同盟やその関連研究グループのいずれかに所属して研究を始めるのが普通のようだ。カリフォルニア大学サンディエゴ校の人類学者ハンキンス(2014)は、シカゴ大学の学位論文を基にした本を最近出版した。その研究の過程で、彼は解放同盟の関連組織で1年半ほどインターンをした。解放同盟は、部落解放運動を国際的な人権運動に統合し、日本をより「多文化的」な観点へと移行させることを目指していると、彼は熱心に読者に語っている。

マクラーレン (2003:113)は、解放同盟によって選ばれた21人の部落民にインタビューした後、本を書いた。この21人は、「解放同盟は明らかに部落(X)のチャンピオンである」と彼に確信させたようだ。それは、「疑う余地なく、部落民の状況を改善するために不断の努力をしてきた…」と彼は宣言している。

社会学者のボンディ(2015:3)は、2つのコミュニティで「12ヶ月間の参加者観察」を行った。そのうちの1つは、彼は解放同盟を通して知己を得た。解放同盟は彼を「歓迎」したと、読者に保証した(2015:156.)。そして、主流の学者やジャーナリスト側の「沈黙」について、彼は「メディアは、部落問題に一般の人々が触れるのを黙らせる代表者」であり、「象徴的および文字通りの疎外の両方」を引き起こすと結論づけている(2015:4)。

西洋の部落研究者では、オックスフォード大学の歴史学者ニアリー(2010:1)が最もよく知られている。彼は、九州大学への交換留学生として日本で独自の研究を始め、部落史に関する研究会に参加した(2016:xx)。現在も解放同盟関連の研究会に参加し続けている(寺木と黒川, 2016:1-2)。解放同盟の名付け親である松本治一郎の伝記では、松本が 「自分や仲間の部落民が日常的に遭遇する偏見や差別に対して啓蒙活動を行った 」と評している。

C その他の証拠

解放同盟の腐敗や部落犯罪が横行していることについては、誰もがその証拠を目にしてきた。本稿で使用している都道府県レベルの部落密度、犯罪、家庭環境の悪化に関するデータは公開データである。様々な図書館でずっと以前から入手可能である。筆者が引用した部落についての証言も同様に、探そうと思えば誰にでも手に入るものだ。たしかに、解放同盟とその前身である水平社は、自分たちの好む物語に反する証言をしている本を封じるために努力した。部落解放運動家の賀川豊彦が1915年に発表した民族誌の再販を阻止したことはよく知られていることだろう。<VI. B.で述べている。同様に、水平社は、菊池山哉による1922年の研究の出版を許可した警察を激しく攻撃し、本の出版を禁止させた。その後、水平社のリーダーが介入して、警察が禁止令を取り消すように仕向けた(菊池1966:3)。>しかし、賀川の本でさえ、大学の図書館には必ず置いてある。

解放同盟と犯罪組織との関係については、20世紀の終わり頃から、その証拠がジャーナリズムの世界に顕著に現れてきた。その時点で、警察は解放同盟の幹部を逮捕し始めた。検察は摘発を開始し、ネットメディアや主要な新聞は事件を大きく取り上げた。

同時に、思慮深いジャーナリストたち―中には部落出身者もいる(角岡など)―が、暴徒化した部落での自らの体験を綴った本を出版し始めた。主流のジャーナリストは、暴力団とつながりのある解放同盟の指導者が政府の補助金を大量に私的口座に流用している様子を記述し始めたが、(解放同盟が引き起こした暴力を反映して)何人かは偽名で出版することを選択した:例えば、朝日新聞出版(1982)、一ノ宮とグループK21(2007、2012、2013)、寺園、一ノ宮、グループK21(2004)など。

西洋の学者たちは、これらの解放同盟の汚職に関する記述をほとんど見落としていた(あるいは無視することを選んだ)。危機についてはほとんど触れられていない。ニアリー(2010:298 & n.5)は、自分の伝記の最後の脚注でいくつかの本を引用しているが、解放同盟が政府の補助金の配分を操作したのは、「資金が部落のコミュニティの最大の利益のために使われるようにするため…」だと主張している。「このような汚職の疑惑を検証し、評価することは、それ自体が研究プロジェクトになるだろう」と彼は続ける(2010:239)。「独立した分析がなければ、汚職の量が日本で通常行われているものよりも多いのか(または少ないのか)を判断することは難しい…」。また、他の学者(例えばランキン、2012)などは、暴力団と解放同盟の関係について、単に「不快な推測」として片付けている。

D 従来の説明

解放同盟と西洋の研究者との強い結びつきを反映して、これらの研究者の多くは、部落について驚くほど一貫した物語を語っている。徳川幕府の時代(1600-1868年)に、動物の皮を剥いだり、皮をなめしたり、革製品を作ったりするギルドで働いていたのが、現在の部落民の前身である。彼らは自分たちのことを「カワタ」と呼び、他人は彼らのことを「エタ」という蔑称で呼ぶこともあった。動物の死骸を扱うため、慣習的に不浄なものとして扱われ、離れて居住することを余儀なくされた。また、平地の農民は、彼らが他の仕事に従事することや、集団の外で結婚すること、他の農民と同じような服装をすることさえ拒否することがあった。法学者のアップハム (1988:79)によると、カワタは「平民と結婚することも、指定されたゲットーの外に住むことも、平民の召使として働くことも禁じられていた。また、平民と一緒に食事をしたり、座ったり、煙草を吸ったり、髪を普通に整えたり、下駄を履いたり、平民の家の敷居をまたいだりすることもできなかった。」という。

これらの偏見は、宗教的な源泉を持っていたと西洋の作家は言う。この偏見は「神道や仏教に見られる概念に由来する」と伝記作家のニアリー(1989:2)は書いている。歴史家のハウエル(1996:178)は、徳川時代のカワタの多くは「日常的に『不浄な』職業に従事することはほとんどなかった」と説明しているが、それでもコミュニティは「一般的に不浄と考えられていた職業、特に死の汚染を伴う職業に従事していた」<ここで留意すべきは以下である、畑中(1990)、マコーミック(2013)、イーラス(2018)はいずれも、部落民という概念が時代とともに変化していく様子を丁寧に描写し、部落コミュニティ内での時系列的な連続性の欠如を探り、偏見や差別の性格が変化していくことを指摘している。>としている。

西洋の研究者たちは、この部落を階級に基づく徳川時代の秩序の中(そしてその下)に位置づけている。アモス (2011:3)が言うように、徳川幕府はその社会秩序を「厳格な上下関係を強調する(新)儒教思想」に根ざしたものとし、「カースト制度を彷彿とさせる高度に階層化された社会構造」を作り上げた。この世界では、武士、農民、職人、商人の4つの職業別階級が作られた。部落民は、その下に人間とは見なされない集団として位置づけられていた。「[徳川]時代の250年以上にわたる安定した国内情勢の中で、それまで流動的だった職業や封建的な階級が硬直化し、被差別部落が社会から切り離された部分として法的に定義されるようになった」とアップハムは説明する。<アップハム(1988:79); ハウエル(2005:34);オームス(1996:244)参照。>

1868年、いくつかの外様藩出身の武士がクーデターを起こし(「明治維新」と呼ばれる)、3年後に正式に部落民を「解放」した。しかし、多くの西洋の学者は、この解放は、良くてもありがた迷惑に過ぎなかった主張している。まず、部落民は革製品を売るという職業上の独占権を失った。法的に解放された彼らは、それまで独占的に支配していた仕事で競争にさらされることになったのである(アップハム, 1988:79-80など)。また、彼らは税金を払うことになった。被差別民として、彼らはこれまで納税義務を免れていた。今や、彼らは他の人々と同じように税金を納めることになったのである(例:ハンキンス, 2014:21)。

19世紀の終わりには、一部の部落民は皮革産業や新たに創設された食肉産業で働いていたが、他の場所で働いていても同様に差別に直面していた。日本の主流派は、彼らを密集した不衛生な都市部のゲットーに押し込めた。彼らは職場から締め出された。彼らの子どもは主流派と結婚することを拒否された。部落民はこのような偏見の中で孤立し、社会の周縁で生きてきた。

1920年代初頭、300万人ともいわれる被差別部落民の中の勇気あるグループが「水平社」を結成した。彼らは、集団的糾弾戦略(訳注:原文にもkyudanとある)を採用した。偏見の表出に直面したとき、彼らは一丸となって加害者を「糾弾」した。集団で圧力をかけて、発言者に自分たちの特権を認めさせるのだ。地方自治体に対しては、組織的・制度的な偏見と、自らが生み出した構造的な不公平を是正する道義的責任を認識するよう主張する。差別的な国家が彼らに与えなかった上下水道、消防車、学校などを要求したのである。

第二次世界大戦が終わり、新しい環境の中で、部落解放同盟は、平等と包摂のための水平社の先駆的な使命を継承し、継続していった。しかし、日本の主流派は依然として差別的であった。しかし、解放同盟は、偏見の表出を集団で徹底的に糾弾することで、公然の偏見をほとんど排除した。地方自治体、さらには国の政府から、他の日本人が享受しているインフラ出資を引き出した。また、部落のアイデンティティを回復し、その誇りを育んだ。やがて、国連などの国際的な対応部署と協力して、ハンキンス(2014)の言う、より広く包括的で「多文化な日本」を推進するようになる。

しかし、西洋の著述者たちの間では、制度的かつ組織的な偏見が根強く残っていると言われている。ニューヨーク・タイムズ紙のコラムニスト、クリストフ(1995)が言うように、部落民は「動物の屠殺、革なめし、革製品の製造、墓穴を掘ること、死体を扱うことなど、慣習的に不浄とされる仕事に就いていた人々の子孫であるという理由だけで差別されている」のだ。そして、この差別を実行するために、現代の日本人は部落民を居住地で特定している。部落民とは、特定の部落に住んでいる(あるいはかつて家族が住んでいた)人のことである。

日本人が居住地で差別している以上、論理的には部落民は引っ越せば差別から逃れられるはずである。しかし、ハウエル(1996:179)は「そうではなかった」と主張している。人類学者のジョージ・デボスと我妻宏(1967:241)が言うように、部落民は自分の「アイデンティティ」を捨てることでしか逃れられない。

かつてのアイデンティティの完全な喪失を求めるならば、地理的および職業的な移動によって、家族やコミュニティとの表立った接触をすべて止めなければならない。自分でまったく新しいアイデンティティを確立し、場合によっては祖先が存在しないことで不利益を被らないように過去を捏造しなければならない。

この偉業を成し遂げようとする部落民は、デボスと我妻(1967:242)が言うように、「常に暴露されることを恐れている」のである。彼ら(1967:252)は、ある情報提供者の話を紹介している。「公務員に合格しようとしたが、どういうわけか失敗し、仕事を辞め、大学を卒業したが、今は部落で店を経営している友人がいる。」彼は何度も合格を目指したが、そのたびに失敗していた。「その友人は、どうにかして自分の生い立ちを周囲に知らせようとした…」。過去に取り憑かれたように、「酔うと、いろいろと自分の被差別部落の出自をほのめかしたり、信用できない人に打ち明けたりしていた」。

III 近代の部落

A 序論

近代の部落を説明するには、このような説明では誤解を招く恐れがある。部落民の数は約100万人であり、1930年代からその数は増え続けている。部落民が住んでいるのは主に西日本のいくつかの府県である。彼らは貧しい傾向にあるが、その貧しさは彼らを区別するものではない―過去にも決してそうではなかった。部落民は日本で最も貧しい都府県に住んでいるわけではないし、部落民は彼らが住む都府県の中で唯一の貧しい住民でもない。

しかし、多くの部落民は、深刻に分断された生活を送っている。未婚での出産は、他の日本人に比べてはるかに多い。麻薬の使用はより広範囲に広がっている。犯罪はより凶悪で、組織犯罪は主に部落の現象であり、解放同盟と暴力団の関係は深い。

解放同盟の糾弾会はよく知られるが、差別と戦うためだけのものではなかった。その目的は地方自治体を揺さぶって現金を得るためだった。部落の指導者たちは、積極的な攻撃によって、暴力の脅威を主要かつ信頼性の高いものにし、それを利用して政府から多額の金を受け取っていた。そして、組織的腐敗によって、それらの資金の多くを個人口座に流用していた。

B 数値と場所

1 国内総計

ここ1世紀半の間に、日本政府は単独で、あるいはいくつかの関連組織と協力して、少なくとも14回の部落民人口調査を行った。その結果を表1にまとめた。

表1: 部落民の全国人口

出典:

1868

  • 秋定嘉和「明治初期の「賎民」統計表について」『部落解放研究』v.2: 55-75 (1974)

  • 部落問題研究所『部落問題資料』第1巻(京都:部落問題研究所、1980)、pp.296-99.

  • 小林茂・秋定嘉和『部落史研究ハンドブック』(雄山閣出版、1989年)p.288

1907

  • 部落問題研究会編『部落問題史料』第1巻(京都:部落問題研究会、1980),pp.296-99.

  • 小林茂・秋定嘉和『部落史研究ハンドブック』(雄山閣出版、1989)291頁。

  • 全国部落解放運動連合会.1998.全国同和地区の年次別概況調査並びに1993年現在の府県別概況調査基礎資料』。東京 全国解放運動連合会。

1921

  • 内務省、部落に関する諸統計』(東京:内務省、1921)。転載、三一書房編『日本蘇民生活資料集成』(東京:三一書房、1980)

  • 内務省、水平社運動状況、1922 年 12 月 5 日(極秘扱い)、pp.61-62。広田健次編『戦前期警察関係資料集』(不ニ出版、2006)、p.43収録

  • 中央融和事業協会『全国部落調査』(1936 )、pp.335-36

  • 長谷川寧「水兵運動並びにこれに関する犯罪の研究」『史料研究』第5巻第4号、1927

  • 小林・秋定(1989)

  • 研究所(1980)

1922

  • 帝国地方行政学会、地方行政年鑑 (1922).

  • 秋定嘉和ほか編『近代部落史料集成10』に再録。

1935

  • 中央融和事業協会『全国部落調査』(1936)(極秘扱い)

  • 全国部落(1998)

1942

  • 全国部落 (1998)

1946

1958

  • 全国部落(1998)

1963、1967

  • 研究所(1980)

  • 全国部落 (1998年)

1971

  • 全国部落 (1998年)

1975

1987

  • 塩見鮮一郎『どうなくす?部落差別』(東京:緑風出版、2012年)。

  • 小林・秋定(1989)

  • 全国部落(1998)

1993

  • 総務庁、平成5年度同和地区実態把握と調査」(東京:総務庁1995)、p.18.

  • 塩見鮮一郎『新:部落差別はなくなったか?(東京:緑風出版、2011)

  • 塩見(2012)

  • 全国部落 (1998)

1935-36年の調査を除いて、政府は都道府県単位よりも詳細なデータを厳格に秘匿してきた。その1935-36年の調査の小地域単位のデータは、解放同盟か日本共産党に所属する研究者であれば以前から入手していたようだ。このデータは2015年末から一時的に現れたが(なおかつこれはラムザイヤーとラスムセン、2018で使用された)、それは解放同盟と戦う部落活動家(訳注:「鳥取ループ」のこと)が調査資料をインターネット上に掲載したからにすぎない(ラムザイヤーとラスムセン、2018:221-22参照)。

読者は、これら数値を注意して受け止めるべきである。誰も「部落民」の正確な定義を提示していないし、それに近いものもない。また、そうすることもできない。以下の議論で詳しく説明するように、部落民という言葉は常に、単に機能不全の下層階級を表す緩やかな識別子であった。(徳川時代でさえも)落ちぶれた日本人はいつでも部落に引っ越してきて、仲間に加わることができた。また、野心的な部落民が主流の規範を取り入れて部落を離れれば、いつでも部落から抜け出すことができた。このような状況では、定義づけの議論は本質的に無意味である。

探偵の中には、ある人の先祖を19世紀後半までさかのぼって調べようとする人もいるかもしれないが(ラムザイヤーとラスムセン, 2018)、ほとんどの人は、特定の部落に長いつながりのある家系かどうかを問うだけである。あるジャーナリストが探偵に、ある人が部落民であるかどうかをどうやって判断するのか尋ねたところ、「両親が部落出身であれば」部落だと答えている。そして結局のところ、「現在、部落に住んでいれば部落民だ」と説明した(角岡、2005:50)。2005年に大阪で行われた調査でも、同じ質問をしている。回答者のうち、50.3%が「住所を見る」、38.3%が「本籍地を見る」、その他が「両親や祖父母の住所を見る」と回答している(富永, 2015:35)。

部落民の資格の問題はさておくとして、表1は大まかなパターンを示している。明治時代(1868-1912)の初めには約50万人だった部落民の数は、(国や地方自治体が任命した様々な調査員によって数えられ)、1935年には約100万人にまで増加した。1950年代後半には120万人まで増加したが、その後は増加しなかった。1990年代には100万人を割り込んでいる。1942年の数値は明らかに異常値であり、戦時中の混乱や調査の手順の不備を反映していると思われる。

解放同盟自身は、部落民は300万人と主張している。この数値を信用する学者も時折いる。しかし、この数値は近代的な計算方法によるものではない。それどころか、これは計算すらされてらおらず、1922年に解放同盟の前身となる団体が設立されたときのものである。同年3月に発起人らにより「水平社」と呼ばれる団体が立ち上げられた。4月にはすでに設立宣言に数値を入れており、すぐに賛歌にも数値を入れていた(けいほう きょく1922:54, 68-69)。彼らの有名な自由への賛歌で、次のように歌われている。<解放歌、 https://ehime-c.esnet.ed.jp/jinken/09kaihouka.pdf>

光と使命をにない立つ 三百万の兄弟は 今や奴隷の鉄鎖断ち 自由のために闘かわん

民族誌学者の本田(1991:14)は、この数値が生まれた経緯を語っている。1922年、水平社の発起人が集まったとき、部落民はどれくらいいるのだろうかと考えた。政府は1921年の国勢調査で、4,900の地区に83万人の部落民を数えたばかりだった。平野小剣は、当時無政府主義者を自認していたが、警察のスパイ活動をして金を得ていたことを理由に組織から追放され、10年後には右翼民族主義者に変貌することになる人物であるが、「6000地区、300万人」と即断している。この数値が、それ以来信奉の対象となっている。<西洋の学者たちは、この数値を必要以上に信用している。例えば、ハンキンス (2014:3)は「解放同盟は歴史的記録から数値を推定し、徳川時代からの「被差別者」の系譜をたどっている…。解放同盟の基準は血統と居住地の一つであり、解放の要請の中に位置している…」と書いている。>

2 移住

この150年の間に、部落民は移動した。もちろん、日本人は一般的に移動しており、部落民も同様である。そこで、表2では、14回の調査のうち、都道府県別に集計した結果を示している。

なお、東京都にもいくつかの部落がある。東京都の部落数は多くないが、1950年代以降は部落はないと主張してきた。この主張は、人口動態の変化というよりも、地方自治体の政治的な事情を反映したものである。<もっと寛大に言えば、表1の数値は「調査(censuses)」ではなく、政府が補助金の分配を計画した対象者の集計である。東京都は場所ではなく産業(なめし革など)ごとに配分を決めたため(ハンキンス2014参照)、県内の被差別部落の人口は報告されていない。>

時系列での比較を容易にするために、私は1921年の調査によって都道府県の合計を指数化した。また、都道府県間の比較を容易にするために、1868年、1921年、1993年の調査の絶対数を入れている。もちろん、部落民の数が多い県では、指数化された数値が最も信頼できる。部落民の数が1万人に満たない県では、調査員がいくつかの地区を見逃しただけで、大きな割合の変化を引き起こす可能性があるからだ。ここでは、日本の標準的な慣行に従って、北東から南西に向かって大まかに都道府県を列挙する。

表2: 都道府県別部落民人口

A. 1868-1958

B. 1963-1993

注記:1868年、1921年、1993年の実人口(太字)。1921年=100で指数化した人口(ローマ字)。

出典:表1参照。

部落は長い間、全国的なものではなく地域的なものであったが、1868年以降の変化により、部落民の人口はさらに集中化した。明治政府が発足した1868年には、部落民は西の方に住む傾向があった。1868年から水平社創立の1922年までの間に、京都府、大阪府、奈良件、兵庫県(神戸がある県)、瀬戸内海に面する岡山県、広島県、愛媛県、高知県の各県、そして九州北部の福岡県で部落民が急増した。1922年以降、部落は大阪府と福岡県でさらに顕著な増加を遂げた。1868年には、大阪府、奈良県、兵庫県、岡山県、福岡県の5府県に住む部落民の割合は29%だった。それが1993年には46%もの部落民が大阪府、奈良県、兵庫県、岡山県、福岡県の5府県に住むようになった。

3 属地主義による定義が意味すること

日本人が部落民を主に居住地で定義することは、2つのわかりやすい予備的な意味を持つ。第一に、部落民は部落から出ることができるし、実際に出ることもある。彼らはハーシュマン (1970)の「容易な退出」の典型的な例である。学者が「部落民は出られない」と主張するのは、単にサンプルの偏りの結果を捉えているだけである。つまり、部落住民にインタビューして調査する人は、部落を出て行ったまま戻ってこない人には出会えないのである。

なぜなら、部落民は大量に出て行くからである。図1が示すように、彼らは1930年代から部落を離れている。1921年から1993年にかけて、日本の一般人口は56,665,900人から124,937,786人へと124%増加した。同じ期間に、部落民の数は829,675人から892,751人に7.6%増加している。仮に、部落が他の日本人と同じように増加したとしよう。実際には、部落の出生率は平均よりも高く、低くはない。仮に部落の出生率が他の日本の人口と同じであれば、1993年には1,862,141人に達している。つまり、この72年間で少なくとも100万人の部落民が一般人口に紛れ込んだことになる。

第二に、部落には必然的に農家が含まれるが専門職が除外されている。農家は土地に出資するが、当然ながら土地は場所によって異なる。部落から出ようと思えば、事業を清算しなければ出られない。対照的に、上位中産階級の専門職は、部落から出て行くしかない。この現象は、日本人の偏見の強さに依存しているわけではない。これは、場所に応じた集団の定義で決まるのである。アメリカでも日本でも、大学で教育を受けた専門職は、キャリアを移動する。教育出資を活用するために、彼らは仕事を追いかける。アメリカでも日本でも、生まれ育った家から10ブロック以内に住む専門職はほとんどいない。しかし、部落民がその10ブロックを超えて移動すると、部落民ではなくなるのである。

図1: 総人口増加率と部落人口増加率の指標 1921年=100 注: 1942年の国勢調査は異常値のため省略。

出典: 表1参照。

C 機能不全

1 スラム

現代の部落を訪れた人が驚きを隠せないのは無理もない。西洋の標準的な説明によれば、現代の部落の最も注目すべき点は、注目すべきことがない点だ。貧乏ではない。汚れていない。室内の配管や十分な居住空間、防火設備がないわけでもない。全く特徴がないのである。評判を聞くと、スラムを期待してしまう。主たるところでは大阪だけが―大阪のある場所だけに―、それを見つけることができる。

大阪市西成区の釜ヶ崎地区に、日本の悪名高いスラムがある。暑い夏の夜に激しい暴動が起き、1966年に「あいりん」と婉曲的に改称されたこの地区には、日雇い労働者、浮浪者、ホームレス、アルコール依存症、薬物中毒者などがいる。2万人から3万人の多くの部落民が住んでおり(訳注:あいりん地区は歴史的に被差別部落ではなく同和地区指定もされていないが、『全国部落調査』には部落として掲載されている)、主に男性日雇い労働者の中心地となっている。いくつかの犯罪組織が本部を置いている。また、福島原発の清掃作業員を募集する業者もいる。

訪問者は、日本には部落以外にスラムがほとんどないことに注目すべきだろう。暴力団系の解放同盟の指導者が多額の政府補助金を流用したことを批判すると、解放同盟に同情的な作家たちは、少なくとも補助金によって最悪の部落スラムは解消されたと答える。しかし、実際には、部落以外のスラムのほとんどが消滅している。同和対策事業を受けていないのに、消えてしまったのである。日本のスラムは、政府の補助金によって消滅したのではない。日本人の所得が増えたから消滅したのである

2 収入

都道府県レベルのデータは、現代の部落民が他の日本人よりもわずかに貧しい傾向にあることを示唆している。(1935年を除き)都道府県レベルより詳細な部落民人口のデータがない場合、都道府県レベルのデータを使用した。生態学的な誤りのリスクは明らかに存在する。しかし、そのような注意を払った上で、ある都道府県における部落民の割合と、個人の福祉に関するいくつかの指標との間の相関関係を考えてみよう。部落民人口については、14回の実態調査のうち最も新しい1993年のものを使用する(総務庁, 1995)。

都道府県レベルの変数は以下の通りである。

部落民PC、19931993年(総務庁, 1995)の部落民人口を総人口で割った値。人口密度、19931993年の総人口を面積(100平方キロメートル)で割ったもの。県民所得PC、1993県民総所得(内閣府、1994 年)を総人口で割ったもの。下水道普及率、20102010年に下水道施設が整備された人口を総人口で割った値(日本下水、2011)。貧困率、20072007年に最低生活費以下で生活している世帯の割合。戸室(2016)は、まず都道府県ごとの最低生活費を推定し、その指標を下回る収入の世帯数を評価することでこの数値を算出している。HS-大学進学率、20102010年の大学進学者数を高校卒業者数で割った値(文部科学省、2011a)。平均余命女性、2010女性の平均余命、2011年(厚生労働省、2011b)。身長5年生女性、20102010年の女子生徒の平均身長5年生(文部科学省,2011b)。乳児死亡率、20102010年の新生児死亡数を総出生数で割ったもの(厚生労働省、2011b)。

表3には抜粋した要約統計量を掲載している。読者の便宜のために、これらの変数とそれ以降のすべての変数の定義を表4で繰り返している。

表3: 抜粋された要約統計

出典: 本文および表1を参照。

表4: 使用した変数

解放令反対一揆

1871年の解放令に反対する一揆があった県は1、それ以外は0。

部落の農業比率

農業に従事している部落の世帯数を部落全体の世帯数で割ったもの。

部落犯罪率PBC(部落民一人当たり)

犯罪をした部落民の数を部落民全体の数で割ったもの。

部落非嫡出率

非婚の部落民の出生数を部落民全体の出生数で割ったもの。

部落県民有権者数PBC

都道府県知事選挙の投票権を持つ部落民の数(被選挙権は所得に応じて異なる)を部落民全体の数で割ったもの。

部落の生活保護者PBC

生活保護を受けている部落民の数を部落民全体の数で割ったもの。

部落民PC

部落民の数を総人口で割ったもの。

胸囲

7歳時の男子女子の胸囲。

一人当たりの犯罪数

刑法違反の件数を総人口で割ったもの。

密度

総人口を面積(100平方キロメートル)で割ったもの

離婚率

離婚件数を婚姻件数で割ったもの。

赤痢率

赤痢による死亡者数を総人口で割ったもの。

外婚率

部落民と一般民との婚姻数を、部落民全体の婚姻数で割ったもの。

身長,5年生女子

5年生における女子の平均身長。

身長

男子と女子の7歳時の身長。

非人率

1868年の部落民のうち、非人の割合。

HS大学進学率

大学に進学した生徒の数を、高校卒業者数で割った値。

非嫡出率

非婚による出生数を総出生数で割ったもの。

乳児死亡率

新生児の死亡数を総出生数で割ったもの。

糾弾率

糾弾会の回数を部落民の数で割ったもの。

平均寿命、女性

女性の平均寿命。

覚醒剤犯罪一人当たり

覚醒剤を使用した犯罪の件数を総人口で割ったもの。

殺人PC

ある年の総殺人数を総人口で割ったもの。

人口増加率

1884年以降の都道府県別総人口の伸び率の割合。

貧困率

最低生活費以下で生活している世帯の割合。戸室 (2016) は、まず都道府県ごとの最低生活費を推定し、その指標を下回る所得の世帯数を評価することでこの数値を算出している。

県民所得PC

県民総所得を総人口で割ったもの。

下水道普及率

下水道施設利用者数を総人口で割ったもの。

白山神社

白山神社(部落の伝統的な場所を示す目印とされた)の数。

補助金PBC

部落を対象とした県の補助金(単位:万円)の一定期間の金額を部落数で割ったもの。

自殺率

自殺者の数を総人口で割ったもの。

水平社BO

全国水平社の支部数。

納税者PC

納税者数を総世帯数で割ったもの。

総犯罪PC

ある年の総犯罪数を総人口で割ったもの。

結核率

結核による死亡者数を総人口で割ったもの。

体重

男子女子の7歳時の体重。

生活保護依存度

生活保護を受けている世帯数を世帯数で割ったもの。

注記: 明らかに、これらの値は時系列で変化している。本文中および以降の表では、該当する年を示している。

第一に、都道府県レベルでは、(粗い測定ではあるが)部落民の集中は、単純なペアワイズ相関では一人当たりの所得と有意な相関はないが(部落民が違法な産業に従事している分だけ、所得の数値は実質的な所得を過小評価している)、貧困ライン以下で生活する人口の割合とは相関がある。因果関係ではなく、相関関係を調べるために、表5では人口密度と県民所得を一定にしてみた。重要なことは、ある県の部落民の割合は、貧困ライン以下の世帯の割合と相関しているということである(表5、パネルA、回帰(2))。人口密度や一人当たりの所得が一定であっても、部落民の多い県は貧困層の割合が高い。

表5: 現代の部落

A. 社会福祉

B. 機能不全の指標

注記: *, **, ***:それぞれ、10、5、1%の水準で統計的に有意。OLS回帰。相関係数、または回帰係数に標準誤差を加えたもの。すべての回帰には定数項を含む。

出典: 本文および表1参照。

第二に、部落民よりもはるかに多くの一般民が貧困状態にある。戸室 (2016) は2012年の国民の貧困率を18.3%と推定しているが、1993年の実態調査では日本人全体の0.71%しか部落民ではなかった。部落民の割合が最も高い高知県を考えてみると、世帯数の4.3%(13,800世帯)となっている。貧困率は23.7%で、76,300世帯が貧困状態にある。仮に高知県の部落民全員が貧困レベル以下で生活していたとしても(実際にはそうではない)、貧困層の大部分は部落民ではないだろう。また、部落民の割合が比較的高い都市部の県である福岡を考えてみると、2.3%、48,500世帯である。貧困率が20.6%であることから、435,000世帯が貧困状態にある。また、部落民が全員貧困状態にあったとしても、福岡の貧困家庭のほとんどは部落民ではない。

第三に、表5の他の回帰分析は、いずれも部落民の生活が貧しいことを示唆していない。公共インフラの指標として、下水道を例にとると、都市部では農村部よりも集中型の下水道施設が普及しているが、人口密度を一定にすると、部落民は下水道へのアクセスが低いこととは関連しない(Part A, 回帰.(1)).また、未報告の回帰分析では、水道へのアクセスの低下とも関連していない。教育アクセスの指標として、大学教育を例にとると、部落民は大学進学率の低さとは関連していない。部落民は大学進学率が低いのではなく、むしろ有意に高いのである(回帰A(3))。公衆衛生の指標として、平均寿命を例にとると、部落民は女性の平均寿命の低下とは関連していない(回帰A(4)、調整後R2は正ですらない)。また、男性の平均寿命の低下とも関連していない(未報告の回帰)。小学校5年生女子の身長の低さとは関連していない(回帰A(S)、調整後R2は正ですらない)。男子の身長の低さとも関連していない(未報告の回帰)。また、乳児死亡率の高さとも関連していない(ただし、農村部の死亡率は高い;回帰A(6)).また、失業率の高さとも関連していない(未報告の回帰)。

3 厄介な目印

a 要約統計量

しかし、その他のデータは、厄介な事態を示唆している。表6では、部落民コミュニティの社会構造をより直接的に調べた。表5では、部落民の集中度と都道府県レベルの社会現象との相関関係から、間接的にその社会構造を探った。この表6では、部落民と一般民との間の各種の割合を直接比較した要約統計量を、やはり都道府県レベルで報告している。この統計は、1993年の実態調査をもとにした政府の調査(総務庁, 1995)と、解放同盟が発表した追加資料(全国部落, 1998)から取ったものである。この調査は、少なくとも名目上は全国的なものであるが、事前に行われた小調査を基礎にまとめられたものである。もちろん、部落民は全国的な社会現象ではなく(表2参照)、ほとんどの施策について、報告書を提出したのは約半数の都道府県にすぎなかった。

表6: 社会福祉、部落民とその他、1993年(要約統計量)

注:太字の数字は、都道府県別平均値の平均が1%水準で有意に異なる場合。その他の詳細については本文を参照のこと。

出典:総務庁『平成5年度同和地区実態把握と調査』(東京:総務庁、1995)参照。全国部落解放連合会『全国同和地区の年次別概況調査ならびに 1993年現在の府県別概況調査基礎資料』(東京:全国部落解放運動連合会、1998)。

表6によると、部落民は一般の人に比べて貧しい。部落民は、生活保護を受けている人が多い。農業従事者の割合がほぼ同じであるにもかかわらず(部落8.43%、一般8.42%)、自治体の下水道網へのアクセスが少ない(表5にはなかった点)。また、低所得者が多く、高所得者が少ないという結果になった。また、表5の非嫡出子に関するデータと一致しているが、部落民は崩壊した家庭で子どもを育てる傾向が強い。

b 相関関係

さらに、1つの都府県の部落民の割合は、機能不全行動のいくつかの指標と関連している。次のような変数を用いた。

一人当たりの犯罪数、2010刑法違反件数(警察庁、2011)を総人口で割ったもの。一人当たりの覚醒剤犯罪数、20112011年に発生した覚醒剤を使用した犯罪件数(警察庁、2011)を総人口で割ったもの。生活保護依存度、20102010年に生活保護を受けていた世帯数を全世帯数で割った値。非嫡出率、20092009年の非婚姻出生数を総出生数で割ったもの(厚生、 2010)。離婚率、20102010年の離婚件数を婚姻件数で割ったもの(厚生、2011b)。

単純なペアワイズ相関では、部落民の集中度は、一人当たりの覚醒剤犯罪件数、生活保護受給者の割合、非婚姻出産の割合、離婚率と有意に関連する。

表5パネルBでは、人口密度と一人当たりの所得を一定にして、単純なOLS回帰でこれらの相関性(因果関係ではない)をさらに調べた。部落民の集中度は、犯罪発生率と統計的に有意な相関があり(パネル B 回帰(1))、特に覚醒剤犯罪の発生率(回帰B(2))と統計的に有意な相関がある。覚醒剤(メタンフェタミン)は、日本で最も広く乱用されている薬物であり、その流通は犯罪組織と深く結びついている。また、部落民集中率は、生活保護者の割合(回帰B(3))、非婚の親から生まれた子どもの割合(回帰B(4))、離婚率(回帰B(5))と有意に相関している。実際の大きさはわずかなものである。部落民の割合が0.5%(東京近隣の埼玉県の割合)から1%(大阪府の割合)になったとする。部落民集中率の係数0.0822は、都道府県レベルの中央値0.0103に対して0.0004の犯罪率の増加を示唆している。また、非婚姻率が0.0007(都道府県レベルの中央値は0.0210)上昇していることを示唆している。

4 犯罪と汚職

a 脅迫

日本の編集者や記者は、何年もの間、部落民の指導者たちの腐敗について沈黙していた。報復の危険性が大きすぎるという、単純な自己都合でこの問題を避けていた。部落の指導者たちは、「糾弾」という名のもとに、批判に対して残忍で暴力的な手段で対抗してきた。

部落問題が発生しても、多くの日本人は「同和は怖い」(訳注:原文にも”dowa wa kowai”とある)の一言で済ませてしまう。1989年、ある松阪市議会議員は後述する部落補助金について、「逆差別」として反対する住民が多いが「部落民からの嫌がらせが怖くて何も言えない」と指摘したという。彼は「私も怖いんです」と付け加えた。

解放同盟の活動家にとって、その市議は「部落民は『怖い』というステレオタイプ」を永続させていた(宮本、2013:91-96)。皮肉のつもりでもないのだが、解放同盟は市役所に乗り込み、彼の処罰を要求した。市議会は、おとなしく懲罰委員会を開き「怖い」という発言を「差別」とした。そして、その市議は部落民の行動に感謝し、「この問題がなければ、私は部落問題を研究する機会はなかったと思います」「これからは、部落問題を真剣に勉強して、『人権を守る松阪市』という目標の実現に人生を捧げたいと思います」と説明した。

解放同盟の活動家たちは、自分たちの残忍な言論統制を正当化するために、2つの原理原則に基づいている。戦後の解放同盟のリーダーである朝田(1979:251)は、1956年の解放同盟年次総会で公式の命題として1つ目の原則を明確にした。「日常生起する問題で、部落にとって、部落民にとって不利益なことは一切差別である」。第2の原則は、解放同盟が正式に採用したものではないが、同じように中心的な役割を果たしており、同様に朝田に起因するものである。すなわち、何が差別であるかを決める権限は、部落民にしかない(藤田、1988, 1987:57)。このようにして、執拗な差別への抗議と暴力的な糾弾が続いたのである。

b 腐敗

現代の部落では犯罪が重要な指標となっているが、解放同盟はその犯罪の中心的役割を果たしてきた。解放同盟は、そのゆすり戦略によって、1969年から2002年の間に15兆円(2002年の為替レートで1,250億ドル)を国から部落民に分配するように仕向け、主に建設事業を行った。そして、暴力的な脅しによって、そのお金を好きなように配分する権限を自らに与えたのである(詳細はラムザイヤーとラスムセン, 2018に記載されている)。

解放同盟は、同和建設協会(同建協)に加入している企業に建設契約を発注した。その見返りとして、企業は契約額の0.7%を協会に支払っていた。解放同盟の指導者の中には、企業が0.7%の手数料を超える貢ぎ物をしていることもあった。例えば、ある著名な部落民は、契約額の3~5%を要求したようである(角岡、2012:96; 森、2009:78, 180)。

名目上は部落民の企業のみが同建協に参加していたが、実際には一般の企業も参加を希望していた。つまり、政府資金による同和対策建設事業の利益が非常に高かったため、一般企業はお金を払って部落企業になったのである。有名な部落民の指導者を社長として雇うこともあれば、単に賄賂を払うこともあった(森, 2009:180-83)。

解放同盟の指導者たちは、日常的にこれらの事業のための土地を政府に過大な値段で売っていた。また、彼らは建設資金をダミー会社を通して自分たちに還流することも日常的に行っていた。そのために、彼らはまず会社を設立した。その会社は同建協に参加し、一般の建設会社と提携した。この2社が一緒に政府契約の入札を行い、落札したらダミー会社が分け前を取り、一般の会社に仕事を任せたのである(ラムザイヤーとラスムセン, 2018)。

c 組織的犯罪

同和事業にまつわる派手な汚職は、多くの日本人が理解していながらも、公の場ではほとんど言わなかったことを明るみにした。それはすなわち、暴力団は部落の産物である。部落民ジャーナリストの角岡(2012:28)は、「大多数の部落民はまっとうな生活をしている」、「しかし、犯罪組織のほとんどの男性は、朝鮮人や部落民のようなマイノリティのメンバーである」と書いている。

角岡の発言は扇情的に聞こえるかもしれないが、部落民コミュニティ、犯罪組織、警察関係者は、部落民の男性が犯罪組織の構成員の過半数(多くの推定では50~70%)を占めていると一貫して報告している(詳細はラムザイヤーとラスムセン, 2018で論じている)。この重複した最も厄介な側面は、学術的な説明では決して言及されないほど扇情的なものであるが、暴力団に加わることを選んだ部落民の男性の割合にある。この割合の大きさは、同和事業が行われた時期に、若い才能の膨大な流出、つまり合法的な生活から、まったくの犯罪行為への流出があったことを示している。1980年代後半の暴力団の最盛期には、20~29歳の部落民男性の20%、30代の男性では25%が暴力団の一員となっていただろう。角岡(2012:20)が言うように、「部落」は「長い間…暴力団の温床だった」のである。

IV 近代以前の先例

A 序論

現代の部落における社会的崩壊は、一連の関連する疑問を提示している。最も基本的なことは、これがどのようにして起こったのぁ? いつから犯罪や家庭崩壊が部落の中心になったのか? いつから、そしてなぜ、部落の名目上の人権擁護団体の指導者が、犯罪組織の構成員と重なるようになったのか?

徳川時代の農村に関して近代の歴史家は、問題の根源がどこにあるのかを明確にしている。それは、祭祀儀礼の不浄や、徳川時代の日本における職業に関連した階級に起因するものではないということだ。つまり、近代の部落民の先祖の大半は、動物の死骸をまったく扱っていなかったのである。その代わりに農業を営んでいた。臼井(1991:20)は兵庫県の研究でこう述べている。

兵庫では、部落の仕事は農業である。部落の人々は、他の町人や農民と同じ仕事をしている人が圧倒的に多い。

部落の前近代的な先祖は、皮革職人のギルドではなかった。皮なめし職人のギルドでもなかった。死んだ馬や牛を扱っていたわけでもなかった。そもそもギルドではないのだ。

近代の部落民の祖先は農民だったのである。「先史」は、歴史学者の藤沢靖介(東、2018:115)が言うように、「明らかに間違っている」。

B カワタと非人

部落民の先祖である徳川時代の人々の多くは、西日本では「カワタ」、東日本では「長吏」と名乗り、「エタ」という蔑称で呼ばれていた。また、「非人」という言葉を使う少数のグループもあった(エラース参照、近日公開)。巡回する乞食や行商人、芸人などは、時代によっては別の呼び名で呼ばれることもあった。歴史家の渡辺(1965:101,338)は、カワタ、長吏、非人のほかに、さまざまな下層身分の呼称を40種類近く挙げている。<一般に、斎藤と大石(1995:52, 62); イーラス(近日中); 大貫-ティアニー1989)を参照。>

従来、20世紀半ばにおいて、下層社会の歴史研究者は、カワタと非人に注目していた。カワタは死んだ牛や馬の皮を剥ぎ、革に関する商売をしていたという。非人は村で警察をしており、牢屋に入れ、刑罰を下す。カワタは生まれながらにしてその集団に属していたが、非人は貧しさゆえにその地位に堕ちたり、犯罪の罰としてその地位に就いたりすることもあった。非人は身分を脱することもあるが、カワタはそれができない。<例えば峯岸(1996:44-46, 56)、渡辺(1977:135, 335)、塚田(2007)、長谷川(1927:10)など。詳細は、イーラス(2018); 塚田(2007)を参照。>

実際には、その区別はあまり明確ではなかった。確かに、多くの非人はその地位を受け継いでいない。継承した者もいるが、刑事罰として身分を与えられた者や、浮浪者としてその身分に堕ちた者もいた。また、一定の条件のもとで、普通の農民の身分に戻れる者もいた。<石井(1994:91)、塚田(2001:3)、菊池(1961:444)、尾崎(1982:154)、高柳(1979:20)、峯岸(1996:129-30)。>

しかし、平民もカワタの身分を得ることができた。偶然に仲間入りした者もいた。貧しく都会に出てきて、カワタの近所に部屋を借り、カワタの雇い主のもとで仕事を見つけた人もいた。やがて彼らとその子孫はカワタになった。他の一般民も自分の意思でカワタを選ぶことができた。時には、ある地域でカワタが管理する産業が非常に儲かることもあった。このような場合、一部の一般民は、その産業に参入するために意図的にカワタの身分を選んだのである。<畑中(1997:110-11)。また、他の場所では、非人が時代の経過とともにカワタになったり、誰も2つのグループを全然区別しなかったりした(渡辺、1977:63, 127; 畑中、 1997:110-11)。>

また、カワタの地位を捨てて一般民になる者もいた。時には、またいくつかのコミュニティでは、カワタは正式に身分の変更を申請することができた。一般的に、彼らは単純にカワタのコミュニティ外で成功するための技能と経済的手段を獲得した。彼らは家を出て、新しい都市に移り住んだ。到着すると彼らは一般民の町に部屋を借り、一般民の商店で職を得た。彼らとその子孫は今はもはや一般民である。<渡辺(1977:127); 畑中(1997:69-80, 110-11); マコーマック(2013:53)。>

C 農業

1 収入

農民の中でもカワタは貧乏人の方に近い傾向がある。資料の関係で、カワタを研究する歴史家は通常1つまたは少数の村に焦点を当てている。その際、村の土地所有の状況を詳しく説明する。一般的にカワタは貧しい村の住民の中に多く存在したことが分かっている。カワタは、まれに皮革産業の副業で農家としての収入を補うこともあった(渡辺 1977:106)。しかし、彼らは村の最貧困層の農民ではなかった。むしろ、彼らは一般民の収入とほぼ同じような収入を得ていた。

例えば、歴史家の尾崎(1982:89-92)は、1736年の長野県のある村の米の生産に関する記録をまとめている。この村には27戸のカワタと23戸の一般民がいた。彼らの生産は次の通りである(1石は180リットルに相当する)。

歴史家はこのような村の土地所有や米の生産に関するさまざまな調査をまとめているが、そのほとんどは、同じものである。すなわち、平均的なカワタ農民は平均的な一般民より貧しかったが、最も裕福なカワタ農民は一般民の基準から見ても豊かだった。<畑中(1990:84)、寺木(1996:75, 111)、臼井(1991:162, 176-77, 285)、峯岸(1996:30-31)など。>

2 土地売買

農民は土地を売買することができたし、実際に売買していたことに注目しよう。徳川幕府は、最終的に土地の譲渡を制限しようとしたが、それは幕府時代の後半に限られ、決して効果的ではなかった(山村、1981:343-44)。

徳川幕府が土地譲渡を止めようとした場合、農民は制限を回避するような取引を行うだけであった。斎藤(2009:171; 原文ママ)は、その方法を次のように説明している。

徳川時代の農民は、「永代」であれば土地を売ることが許されなかった。この永久売買の禁止は、同時代の人々には、農民が限られた期間だけ土地を売ることが許されるという意味に解釈され、実際には「質入れ」できることを意味した。

3 土地所有権

成功したカワタは、日常的に多くの農地を所有していた。<臼井(1991:20);畑中(1997:10);京都部落(1995:305);峯岸(1996:32、330)。>歴史家の主張とは逆に、臼井(1991)は、「二、三の[徳川]幕府令と諸藩の勅令に由来する」と説明している。一般民は水田をどんどん移したし、カワタもそうであった。

カワタの土地が増えれば村の共有地をめぐる争いが起こるかもしれないが、それはカワタの身分そのものが原因ではない。村の共有地に対する権利は、肥料や薪、水などの利用を可能にするものであり、重要なものであった。カワタが新しい土地を開発したことで、村の共有資源に対する需要が高まったときに、紛争が発生したのである。一般民は、代々土地を所有してきたカワタが、村の共有資源を利用することには異議を唱えなかった。しかし、新しく水田を作った人がそれを利用したいと言ったときだけ、村人は文句を言った(京都部落、1995:393)。

4 動物の死骸処理

農村では通常、一戸ないし数戸が、決められた区域内で死亡した馬や牛の皮をはぐ権利を持っていた。<渡辺(1977:104); 前(1975:217-18, 225); 斎藤と大石(1995:67, 72)。>この皮剥ぎの権利は、カワタが集団で持っているのではなく、少数の人が所有する譲渡可能な財産権であった。農家は、皮はぎによる代金を受け取る権利である「株」を売買したり、担保に入れたりした。ほとんどの村では、株を持っている農民は裕福なカワタに属する傾向があった。借り手が借金を滞納したときに株を手に入れる者もいれば、株を買い取る者もいた。また、株は一般民に譲渡することも可能であり、そして時には譲渡されることもあった。<渡辺(1977:114, 304);松岡(1975:19-20, 24-25);前(1975:204, 225);斎藤と大石(1995:120);臼井(1991:205)。>

死んだ動物の皮をはいだ者が、皮をなめすことはほとんどなかった。皮をなめすのに必要な専門知識や設備を持っている農家はほとんどなかった。皮はぎに参入できる株を持っている者は、皮(と副産物)を近隣の町の専門の皮なめし業者に売っていた。彼らは、皮を革にするための技術と設備に出資した人たちである。彼らの中にはカワタもいれば、そうでない者もいた。<峯岸(1996:226);渡辺(1977:191);斎藤と大石(1995:124)。>

5 皮革産業

カワタの多くは農業を営んでいたが、一部の人は皮革の仕事をしていた。しかし、それも独占できるものではなかった。皮革関連の多くの分野(例:裏革のある草履)では、一般民の商店と競争していたのである。買い手は当たり前のように、カワタと一般民の売り手との間で注文を切り替え、労働者自身も2種類の商店の間を移動していた(峯岸、1996:120; 松岡, 1975:16, 41)。

D 移住

耕す土地のない部落民は、移動することができたし、実際に移動した。そうすることで、一般民の仲間入りをしたのである。徳川時代には、人口が増加した。1600年の1,700万人から1874年の3,450万人まで、徳川時代全体で日本の人口は2倍になった(斎藤と高島、2015a:8)。

そして、人口の増加に伴い、徳川の農民たちは移住した。相続する農地がない娘や次男、三男は村を出た。ある者は商店に弟子入りした。ある者は未開拓の土地を求めて遠方の村を目指した。貧しい農民たちは、新しい田んぼを作り、新しい村を作るために一斉に旅立っていった。

幕府はこの動きを止めなかった。20世紀半ばの学者たちは、これを否定する主張をすることがあった。それは、徳川幕府の「移住禁止令」を引用して主張するものである。しかし、実際にはそのようなことはなかった。著名な経済学者である斎藤(2009:184-185)は次のように説明している。

藩主の実際の政策は、地方によって、また時代によって異なるが、幕府の姿勢が個人の移動に対して寛容であることは間違いない。…移動は時代とともに増加し、徳川時代後半には農村から都市への人の流れが大きくなった。

一般民と同じように、多くのカワタは村を離れて都市部に移り住んだ。実際、彼らは大量に町や都市に移住したのである。渡辺(1977:154)が言うように、「徳川時代末期の未解放部落(つまり、カワタ村)への人の出入りは膨大なものであった」。<京都部落(1995:364-67)、塚田(2001:11, 14-15, 30)、マコーミック(2013:51)などを参照のこと。>

農民(一般民とカワタ両方)の移動に伴い、最初は大都市、次に地方都市が成長し、繁栄していった。徳川時代の前半では、農民は大坂や新たに設立された政治的首都である江戸(つまり、東京)などの大都市に移り住んだ。後半では、小さな地方都市に移った。人口学者の速水(2009:102)によると、17世紀には「おそらく毎年7~8万人が都市に引っ張られた」という。1600年に6万人だった江戸の人口は、1721年には110万人に達していた。その頃には、「大阪と京都の人口はそれぞれ40万人に達していた」。<斎藤と高島(2015a:7, 16); 高島(2017:192-93, 198); 速水(2009:102)参照。>

E 規制法令

1 階級の階層

カワタの地位をめぐる混乱は、政府の新儒家が果たした役割をめぐる混乱に由来するものである。20世紀半ばの歴史家(日本と西洋の両方)は、徳川社会を、厳格な階層構造を持つ新儒教的な4つの階級及び被差別民の階級構造(武士、農民、職人、商人、穢多非人)で構成された世界と表現した。

実際、現代の日本史研究者の結論としては、中期の先人たちは、これら新儒家の哲学的な論文をあまりにも真剣に受け止めすぎていた。徳川幕府の幕僚たちは、18世紀半ば以前には、4つの階級についてほとんど何も言及していなかった。表面的なレベル以上には追求していなかった。また、1778年まで「階級外の被差別民」の行動を規制しようとしたこともなかった。<斎藤と大石(1995:20); 渡辺(1977:6-7)参照。>

さらに、社会史家の斎藤と大石(1995:32-33)は、徳川政府は「穢多非人」という接尾語を持つ四階級制を使ったことはないと続けている。この徳川の用語が最初に出てくるのは、1874年のことである。その後半世紀の間、この言葉はほとんど出てこなかった。そして、1920年代後半の歴史書になってようやく、「四民と被差別民」が広く登場するようになったのである(斎藤と大石、1995)。

2 倹約令

18世紀末から19世紀初頭の徳川の幕僚たちは、新儒家の助言を受けて、カワタに身分の低い生活をするように定期的に命じていた。実際、徳川幕府はさまざまな「倹約令」を出している。この令によって、人々の服装や行動を規制しようとしたのである。

徳川の幕僚たちが最も標的にしたのは、裕福な商人たちであった。これらの成功した人々は、農民や職人よりも低い社会的地位として新しく理論化されたこととはひどくかけ離れていたため、政府役人は彼らの目立った消費を抑制しようとしたのである。また、裕福なカワタたちも、理論上の身分とはかけ離れており、幕府の役人たちは時折、彼らの目立った行動を抑えようとしたのである。

幕府の最後の100年の間に、徳川の幕僚たちは、カワタを対象とした命令を出すことに、ますます躍起になっていった。このような命令を出すとき、彼らは過剰な抑圧の力として出したのではない。社会の変化を遅らせるための苦肉の策として出されたものである。

実際には、これらの命令は、より起業家的なカワタの富を反映したものであった。新儒家によって社会構造の底辺に位置づけられた彼らは、理論上の役割とは全くかけ離れた生活をしていた(渡辺、1977:126; 京都部落, 1995:376-79)。商人が貧しい生活をしていたら、政府の役人は彼らに慎ましい生活をしろとは言わなかっただろう。同様に、カワタが没落した生活をしていたとしたら、幕府の役人は彼らに慎み深い生活をしろとは言わなかっただろう。京都部落史研究所(1995:384)によれば、次のとおりだ。

一見、これら[命令]は差別を強化しているように見えるが、実はカワタが身分の壁を破ってきたことから生まれたものである。幕府は、世の中を昔の秩序に引き戻そうとしていたのである。

3 部落の土地所有と税

徳川幕府の後期に行われたカワタの土地所有の禁止も、同じ現象を反映している。歴史学者の畑中(1997:11)が説明するように、幕府がカワタの土地所有を禁止しようとしたのは、まさにカワタがあまりにも広範囲に土地を所有していたからである。普通のカワタは自分の農場を持っているだけでなく、成功したカワタは非常に多くの土地を所有していた。<渡辺 (1977:189); 斎藤と大石 (1995:156-58); 臼井 (1991:22); 内田 (1975:310)。>他のカワタから土地を手に入れた者もいれば、一般民から手に入れた者もいる。また、村の財政を担った者もいれば、工業や商業で大成功した者もいた。そしていずれにしても、彼らはその富を大規模な土地所有に結びつけたのである(京都部落, 1995:375)。渡辺(1977:156)はこう言っている。

部落の中に大地主が出現した。…このような大地主が出現したのは、彼らが商売や高利貸しに関与したからである。

カワタは、儲けた分に対して納税する。この点についても、学者や部落解放運動家は日常的に反対の主張をしている。実際、カワタは収穫物に対して税金を支払っていたのである。<畑中(1997:10);渡辺(1977:189);峯岸(1996:330);京都部落(1995:275);臼井(1991:22)。>そしてその税率は、他の人々と同じであった。

F カワタの意味するところ

これらの記述から明らかなように、ほとんどの部落民は、伝統的に不浄な仕事を専門にしていた人々を先祖としているわけではない。また、皮なめし職人や死刑執行人、革職人などの家系をたどることもない。一部の人はそうだが、ほとんどの人はそうではない。

ほとんどの部落民は、貧しい農民を先祖としているのである。1920年代以降、カワタを研究する日本の歴史家は、通常、「カワ」を革のことだと解釈してきた。革は「かわ」なので、「かわた」と書くときには「皮」という漢字を使っている。しかし、「カワ」は「川」でもある。もちろん、皮と川では漢字が違うが、日本語には同音異義語が多く、17世紀の農民は文字を書くことはほとんどなかった。彼らにとって「カワタ」は文字ではなく、話し言葉だったのである。

歴史学者の渡辺(1977:257-58)は、より可能性の高い語源を説明している。<「穢多」という蔑称の起源ははっきりしない。何人かの著者(高橋1927:85など)は、ペットの餌を求めて死体を漁る者を意味する「餌取(エトリ)」が転訛したものではないかと指摘している(柳田1913:99に反論)。しかし、解放同盟が主張し、西洋の学者たちもほぼ一様に、「大いなる穢れ」を意味するというのが通説である。しかし、「穢れ」に使われている 「穢」という字は、小学校6年生までに習う標準的な2,200字の中にも入らない、稀で複雑な18画の漢字である。日本人が「穢」に出会うとすれば、それは大学での読み物の中だけだ。17世紀の半文盲の農民が、18画の不明瞭な文字の中国語読みを使って、他の農民を軽蔑する言葉を生み出したという考えは、表面的にはあり得ないことである。一般的には木田,1919:80を参照)。>徳川時代の困窮した家族が家を出ることになったとすると、彼らは村の近くの未墾地に移っただろう。徳川時代の前半には、水田の候補地の多くが開発されずに残っていた(渡辺, 1977:120)。

特に台風の季節には洪水の危険性があるため、農家は川沿いの土地を未開拓のままにしておくことが多かった。町や村の近くで未開拓の土地を探していた移民たちは、川岸に土地を見つけたであろう。そして、そこに定住して水田を作ったのである。実際、近代の部落民は川沿いに住んでいることが多い。それは、貧しい先祖が移住してきたときに、利用可能な(無料ではないにしても、一番安い)土地が川沿いにあったからである。

移住者が乾いた河原(カワラと言う)や川岸に住み着くと「カワラモノ」―河原の人々―になった。<渡辺(1977:122)、臼井(1991:63)、斎藤と大石(1995:64-66)。>「田」とは水田のことであるから、川沿いに水田を作ると「川田」となる(長谷川, 1927:28)。<カワタの中には、カワタだけの村に住んでいる者もいた(臼井、1991:39)。これは、ほとんどの場合、徳川時代に新たに作られた村である。そこでは、新しい水田を利用していた(臼井、1991:144-45、354-56)。渡辺(1977:120)によれば、徳川時代の初めには十分な農地が残っていたので、水田を作ったカワタは、時にはとても肥沃な土地を手に入れたという。>貧しい農民の中には、他の農村ではなく都市部に移住する者もいたが、その場合も町外れの川沿いに住むことになった。そこでは、最も魅力のない仕事に就くことになる。臭いだけならまだしも、皮なめしの仕事も好まれない仕事の1つだろう。そういった初歩的な理由から、最近来た人たちの中には皮なめし職人になった人もいた。

V 過渡期の数十年、1868年から1922年

A 序論

1868年のクーデターで勝利した連立政権の軍人たちは、京都の天皇を国家元首に任命し、東京から直接統治することにした。その際、実態調査を行い、「エタ」439,000人、「非人」53,000人を数えた(表1)。その3年後にはこれらの区分を法的に無効とし、1872年には34,806,000人の市民を数えた(大里、1966:12)。

クーデターとはいえ、いくつかの地域の住民は不安を抱えていた。最初の数年間は、変化に対して暴動を起こす者もいた。税金、徴兵制、物価、学校の授業料などを理由に暴動を起こした。場所によっては、1871年に出された穢多非人についての勅令をめぐっても暴動が起きた(高山, 2005:27; 小林, 1985:297)。

数年後、カワタという言葉は一般には使われなくなった。エタはその蔑称のままであった。公的な用語では、「特殊部落」や単純に「部落」が使われた。

B 人口動態

1868年から1921年にかけて、部落民の数は他の人口と同様に増加した。図1では、部落民の数と一般人口の数を1921年の値で指数化している。この50年の間に、2つの人口はほぼ同じ割合で増加している。1868年から1921年にかけて、部落民の総数は約70%増の83万人となった。1872年から1921年の間に、一般人口は60%増加している。

この間、部落民の中で地位を捨てた者はほとんどいなかったようである。確かに、一部の一般民は部落に入り、出て行った部落民と入れ替わった。しかし、部落民の総数が一般人口と同じ割合で増加したという事実は、第一次近似として、部落民として生まれた人々が部落に留まる傾向にあったことを示唆している。

この50年間に日本人は移動した。徳川時代にも田舎から都会への移動はあったが、1868年から1921年までの半世紀の間に、そのスピードは一気に加速した。都心部では、繁栄する経済の中で、良い収入の仕事に就くことができた。1878年の一人当たりの所得は11.5円だったが、1921年には199円にまで上昇した(大里、1966)。都市に行き着いた人々の中には、膨大で多様な小企業に就職する者もいた。また、新しい巨大な繊維工場で働く人もいた。1898年には3,050万人(人口の71%)が5,000人以下の町に住んでいたが、1920年には2,710万人となり、人口の48.9%を占めるまでになった。1925年の大阪市の工場労働者85,000人のうち、大阪府内出身者は20,000人に満たなかった(鈴木、2016:37)。

部落民は、他の人たちと同じように、田舎から都市へ、農場から工場へと移動していった。<渡辺(1977:168);鈴木(2016:27);奈良県(1970:102)。>部落民の中には、他の部落民が経営する小企業に就職する者もいれば、就職差別があったとはいえ、巨大な新工場で働く者もいた(渡辺, 1977:168; 馬原, 1984:138)。豊かな人たちは、住みやすい場所に家を建て、商売を繁盛させた。貧困層はスラムに住んでいた。

多くの部落民は、この明治時代(1868-1912)に非常に成功した。肝心なのは、彼らが部落のアイデンティティを捨てることなく成功したことである。先に述べたように、部落の人口が全体の人口とともに増加したということは、成功した部落民は、富を得てもほとんどが部落の中に留まったはずである。部落の中でも特に成功した部落民は、部落に留まることを選択することで、部落が繁栄するために必要な社会的・経済的インフラの構築と維持に貢献したのである。

京都では、部落民が1899年に柳原銀行を設立し、1927年まで経営していた(重光、1991)。大阪市南区の西浜部落では、皮革産業に従事する部落民が莫大な富を築いた。南区全体の12万世帯のうち、第一種投票権を持つほどの所得を持つのは130世帯(0.1%)にすぎなかった(上杉、2010:101-02; アノン、1918)。南区の部落1500世帯のうち、最上の投票権を持っていたのは9世帯(0.6%)であった。1918年には津市の市議会議員に部落民が就任している(アノン、1918)。奈良の部落出身の米田庄太郎はアメリカに渡り、ニューヨークの米国国監督派神学校(1895年)、コロンビア大学大学院(1898年)に留学した。帰国後、京都帝国大学の教授に就任した(鳥飼、1988:70)。

C 接触と衝突

1 序論

経済成長に伴い、地域間の旅行、商取引、移住も盛んになった。このような移動の増加に伴い、部落のコミュニティと日本の他の地域との間に接触が生じた。このような接触の増加に伴い、2つの世界の行動規範の違いに根ざした緊張感が生まれた。

日本の主流派の人々から見ると、極貧の部落民は自分たちだけの規範で生きているように見えた。喧嘩をすると危険なレベルまで激高し、難しい仕事には時間と労力をかけたがらない。彼らは家族の絆を極端に軽んじていた。

日本の主流派により語られた部落の規範は、もちろん、世界中のさまざまな下層階級に共通する規範である。このような集団は、部分的には主流のコミュニティを食い物にして生きており、その範囲内では、規範は彼らに役立っているのである。しかし、この規範は、より広く共有されている日本の行動基準とは明らかに相容れないものであった。両者の接触が増えるにつれ、敵意も高まっていった。

2 合併

明治政府は、1888年に最初の部落と一般民の衝突を引き起こした。徳川時代の町村は小さな世帯の集まりで、1888年時点で71,000の町村が存在していた。このうち、全く住民がいない町村は800、1~10世帯が2,800、11~30世帯が12,000であった。71,000の町村のうち70%近くが100世帯以下であった。<横道(2007:2)、北川(1940:267,275)参照。>

明治政府は、これらの自治体に幅広い行政業務を課した。71,000のうちの多くは、新たな責任を負うための費用に耐えられなかった(中島, 2013:4, 21)。ある村は小さすぎ、また、規模が大きくても貧しすぎる村もあった。

この問題を解決するために、明治政府は、効率的な規模とサービス可能な富を持ように村を合併することにした。1889年には、71,000の村々を15,800に統合した。しかし、この合併は、全国的に激しい抵抗を引き起こした。小さくても豊かな村との合併には誰も反対しない。貧しい村との合併には誰もが反対した。義務づけられた新しい行政サービスには、高い費用がかかる。豊かな村が貧しい村と合併すれば、必然的に貧しい村のためのサービスに相当な費用を負担することになる。根本的には、経済的再分配のための合併であり、裕福な村は、貧しい村との合併に対し総ぐるみで争ったのである。<北川(1940:275, 280)、高寄(2006:150-51, 154-55)参照。>

部落は貧しい傾向にあるので、豊かな村は部落との合併にも抵抗があった。また、部落を理由に合併に反対する村もあったかもしれないが、それはあまりにも考えすぎである。裕福な村は、部落も一般民も、どこでも貧しい村との合併に反対した。

しかし、部落民にとっては、これらの拒絶は偏見に他ならない。1922年5月、水平社は大正村で最初の奈良県における糾弾会を開催した(内務省1922:62)。1889年、近隣の村々は大正村との合併を拒否していたが、解放同盟によれば「その理由は極めて単純」であった。大正村が部落だから彼らは反対していたのである。<楢本(N.D.:71)、楢本(1955:2)、東(2018:293)参照。>他の合併する部落の1つでは、かなりの数の世帯が税金を滞納していた(楢本、1955:66-67)ことも忘れてはならない。40年経っても、その侮辱感は消えなかった。2009年に解放同盟の公式出版社が書いたように(朝治他、2009:43; 尼崎, 1988:229も参照)、1889年の合併によって「部落民が赤裸々に排除されたからこそ」、「部落改善運動に立ち上がった」のである。

3 学校

部落と主流社会での行動規範の違いは、学校をめぐる争いをも引き起こした。19世紀から20世紀にかけて、部落の子どもたちの学力は、一般の子どもたちに比べて大きく遅れていた。そもそも明治時代の村(一般の村も部落も)は、自分たちの子どものために小さな学校を維持していた。政府が村を合併し、学校に求める教育水準を上げると、地方自治体が学校を統合するようになった。部落民の学校は、拡大した新自治体の大規模な学校に統合されていった。<例えば、青木(1982:34-35, 47)、楢本(1955:98-99)、東(2018:294)など。>

部落民と一般民が同じ学校に通うようになると、緊張感が高まった。このような問題は、当時を知る人なら誰でも知っていることである。部落の子どもたちは行き当たりばったりで学校に通っていると、見ている者たちはしばしば不満を漏らした。1910年に東京大学の法律雑誌に掲載された記事によると、奈良の部落の生徒の多くは月に10日から15日しか来ないという。兵庫県尼崎市の研究者も1880年代に同様のことを指摘しており、1912年にも同様のことが書かれている。1919年、大阪の釜ヶ崎スラムでは、部落の子どもの70%以上が学校に通っていなかった。たとえ学校に行っても、宿題はしない。家で授業の復習をすることもない。教師が生徒の両親を訪ねて勉強するように促しても、両親は協力してくれなかった。<小原(1910:1452-54)(奈良);尼崎(1988:250, 357, 380)(尼崎);木曽(1986:77)(大阪);遠藤(1912:277)(1912年観測)参照。>

学校に来ても、部落の子どもたちは日常的に授業を妨害していた。喧嘩をすることも多かった。(不登校で授業を受けていないため遅れをとった)子どもたちを教師が放課後に引き留めて復習させると、父親や兄が来て教師を非難した。奈良では、一人の先生が何人ものトラコーマの生徒と向き合っていた。奈良では、ある先生がトラコーマの生徒数人を前方席にして、伝染の危険性を考えて他の生徒から離していた。しかし、実際には全員が部落出身者だった。彼らはこの新しい席順を差別と呼び、ボイコットを始めた。<小原(1910:1440:1452-53)参照。>

同時代のこのような出来事は、貧困や部落差別を理由にすることもできる。部落民の多くは貧しく、水平社は他の日本人の偏見を告発している。しかし、部落民の不登校を、学校で受けた偏見のせいにすることはできない。部落民の子どもたちは、部落民を主体とする小規模の学校でも不登校になっていたからである。また、不登校の原因を部落の貧困に求めることもできない。多くの部落民は貧困であったが、一般民の多くも同様に貧しかったからである。

4 犯罪と部落の発見

そして、地域間の接触が増えるにつれ、政府の役人は、歴史家の黒川(2016:68)の言葉を借りれば、部落民を「発見」した。最も顕著なのは、彼らが重大犯罪に気づいたことだ。1907年、強い権限を持つ内務省は、部落をその異常な状態から取り戻すための事業を開始した(黒川、2016:69)。同省はまず犯罪に注目し、次にトラコーマの蔓延に注目した(黒川, 2016:71)。1907年に三重県知事は、「部落には犯罪者が多いため、社会からの警戒心が避けられない」と指摘している。

VI 1900年前後の部落

A 序論

1900年前後の部落をより身近に感じるために、一人称の証言(B節)と都道府県レベルのデータ(C節)を組み合わせて考えてみよう。観察者の話は驚くほど似通っている。中には、警察官やジャーナリストなど、偏向がかかっていると思われる人もいる。しかし、ある観察者は明らかに同情的な、コミュニティの世話役であった。また、自身が部落民である者もいる。

さらに、これらの観察者が語る話は、様々な都道府県レベルの回帰分析から得られる証拠と一致している。nが小さく、粗い断片となっている場合、経験による結果は必然的に示唆に富むものとなる。そのため、様々な明確になった問題点に配慮することができるし、そうするべきである。しかし、重要なことは、実証的な結果が、一人称の証言の内容と正確に一致していることである。

B 一人称の証言

1 賀川

19世紀末から20世紀初頭にかけて、何人かの作家が部落に関する注意深い一次証言を残しているが、最も鋭いのは賀川豊彦であろう。1888年に生まれた賀川は、幼くして孤児となり、彼が成人する前に破産する里親に育てられた。子どもの頃には結核を患っていた。1909年には神戸の部落に移り住み、キリスト教の牧師として、また地域のまとめ役として活躍した。その後、結婚して8畳一間のアパートに住むことになる。<一般に鳥飼(1988:21-22, 48-51)参照。>

賀川は、貧乏人の味方としての評判を徐々に高めていった。過激派の部落民が後に水平社となる解放運動を組織する際には、賀川の家に集まった。彼らは賀川を尊敬していたし、他の部落民も賀川を尊敬していた。賀川は、新しい組織の創設指導者として、人々の強い支持を得ていた(鳥飼、2002)。

しかし、賀川は水平社の創設メンバーには加わらず、すぐに袂を分かった。新団体は、当初から「糾弾」を基礎にした恐喝戦略をとっていた。賀川は愕然とした。「私は愛の福音を説いているのに、あなた方は憎しみの福音を説いている」と訴えた(鳥飼、1998:126)。水平社は同種のものでそれに応えた。高橋貞樹は、水平社の初期の組織者の一人で、コミンテルンの秘密代表を務めていた。賀川と彼が1927年に宣言したことは「労働者に勤勉して資本家になれと云ふ」ようなものだ(高橋1924:236)。賀川は「支配階級の走狗」でしかなかったのだ、と。

半世紀後、賀川が創業した出版社が、彼のライフワークを復刻することになった。解放同盟は激しく非難した。どんなことがあっても、1915年に書かれた神戸の部落の記録を修正なしで出版してはならないとした。これは明らかに「差別的」である。出版社はこれに屈し、Kawada(訳注、賀川の誤記)の著作を検閲し、「差別的文章」を掲載したことを反省したという。今後は、社員全員で「部落差別問題に取り組む」と懺悔した。<キリスト(1991:1; pp.2, 25-26 も参照)、鳥飼(1988:6, 2002:160-61)。>

1915年のこの研究の無修正版で、賀川はこれに関連する3つの観察を行っていた。第一に、部落民は「すぐに怒る」。彼らは日常的に「不当な扱いを受けた」と主張する。そして「よく嘘をつく」。そして、自分がよく嘘をつくので、「人を信じない」(賀川, 1915:100, 300-02, 361)。

第二に、部落には犯罪が蔓延していた。窃盗はどこにでもあり、賭博が日常的でそれぞれの地域を支配する暴力団によって運営されていた。強姦は日常茶飯事で、近親相姦も横行していた。和歌山県では部落民の間の犯罪率が他の日本人の間の3倍であると彼は特記した。兵庫県は、部落民比率が全ての県の中で3番目であった。都市部の犯罪が最も注目されていたが、農村部の部落の犯罪率も同程度の農村に比べて高かった。<賀川(1915:101, 223, 323, 359, 364-65, 563-68);賀川(1919, 467-68)参照(兵庫県の率は1917年のもの)。>

第三に、部落の家族構造はほとんど崩壊していた。夫と妻の間では、お互いを欺くことが日常的に行われていた。賀川は「妻は売春婦として働き、夫には嘘をつく」と指摘した。売春は当たり前であった。ある時、路地の向こうのアパートに住んでいた女性が「ねえ、誰か買ってくれない?」と叫んで外に飛び出してきたことがあったという。売春婦として働かない女性でも、一生の間に10~13人の性的パートナーがいるかもしれない。<賀川(1915:301, 312; pp.101, 294参照)。>

犯罪の蔓延と家族の崩壊を反映して、親が赤ん坊を殺すこともあった(賀川はよくあると示した)。それは赤ん坊(もらいご)を業者に譲渡することであった。業者は、子どもを何度か互いの間で売買することがあるが、たいていの場合、赤ん坊は死んでしまう(賀川、1915:637-43)。賀川(1915:639)はこう書いている。

[業者は]米の粉を水に溶かして、死ぬのを待つだけだ。言うまでもなく、ミルクは与えない。しかし、赤ん坊は死なないこともある。ただ病気になるだけだ。赤ん坊は泣く。大人たちは医者を呼ぶこともできず、かと言ってただ待つだけなのは恥ずかしい。100日後、赤ん坊はスモモのようにしぼんでしまう。あまりの悲惨さに、見ていることもできない。

賀川はいつも見ているだけだったわけではない。お金をもらって赤ん坊を殺していた老婆が警察に逮捕されたと聞いて、急いで警察署に行き、まだ生きている乳児を見つけて、自分で育てた(鳥飼、 1988:54-56)。

2 その他の観察者

a 序論

部落内での過敏な反応、暴力、犯罪、乱交などを記録した観察者は、賀川だけではなかった。19世紀後半には、すでに多くの学者やジャーナリストが同じような特徴を述べていた。部落民である水平社の高橋も、賀川をあれほど攻撃しておきながら、経験的には異論がなかったようだ。部落民は「猜疑心に富んで、所謂穢多根性」(後述のb参照)であると高橋は書いている(1924:223-24)。「貯蓄心がなくて何時までも貧乏である。犯罪者が多い。とかく団結して社会に反抗せんとする傾きがある。斯ような事実が改善出来ぬ限り、社会が部落を嫌ふのは当然と云ふべきである」。

b 文化

19世紀末から20世紀初頭にかけての部落民の行動様式を、(高橋自身も含めて)「穢多根性」と呼んでいた。これは、19世紀南部の貧しい白人の「クラッカー」文化によく似た「穢多の本質」である。仕事でも学校でも、長い時間をかけて努力することを好まず、明らかに攻撃的で、喧嘩を危険なレベルまでエスカレートさせる傾向がある。<一般に マクウィニー(1988);マクドナルドとマクウィニー (1980)を参照。>

部落文化の研究者の中で最も著名なのは、東京大学教授の柳田國男である。柳田は1913年に、徳川から近代への移行期にある日本の農村を最も鋭く観察した研究者として知られているが、その中で、部落民は地域生活に基本的に「反社会的なアプローチ」をもたらしていると指摘している(柳田, 1913:93)。柳田(2017:242[1906])は、友人の小説家、島崎藤村が部落の生活を、部落民はアメリカに移住することでしか逃れられない抑圧の蔓延した世界であると表現したとき、それは荒唐無稽であ

[島崎藤村の]一般平民と新平民(つまり部落民)との区別は誇張されている。私は信州(長野)の穢多を特に研究したことはない。しかし、私が観察した他の地域では、ここまで極端な争いはなかった。昔からの習慣で、平民は新平民に対して多少の嫌悪感を持っていたのだろう。しかし、そのような一般的な嫌悪感が[藤村の言うような]極端な論争を引き起こすことはなかっただろう。

19世紀後半の作家たちは、部落民がいかに頻繁に喧嘩をしているかについて、日常的に不満を抱いていた。「部落民が社会から排除される理由はたくさんある」と1889年に書いた人がいる(藤村, 1889:78-80; 島崎藤村ではない)。「その中で、最も基本的なものを挙げれば、…彼らは暴力的である」。さらに藤村は続ける、彼らは強姦をすると。ジャーナリストの横山源之助も、1898年に「部落民は気性が荒く、すぐに怒る」と報告している(横山, 1898)。1910年、小原信三は東京大学の法律雑誌で、部落民は怪我をすると、大げさに言って賠償を求め、暴力を振るうと説明している。疑心暗鬼、無反省、無節操と結論づけている(小原、1910:1440)。1912年、貴族院議員の遠藤隆吉は、部落民は非常に嫉妬深いことを報告している(遠藤, 1912:272)。「些細なことであっても」軽蔑の対象となる。「すぐに想像力を働かせて怒る」。また、京都府警は1924年に、部落民は伝統的に「短気で」「非協力的で」「暴力的」であると報告している(京都、1924:258)。

観察者も同様に、部落民は努力をしないと述べている。雇用されてもすぐに辞めてしまうと遠藤は述べている(遠藤、1912:277)。まれに辞めなかったとしても、働かないのである。何人かの部落民を雇ったある工場主は、彼らが一度に20分か30分以上働くことはほとんどないことを知った。2時間の労働は無理だと判断して、1ヶ月で全員を解雇した(小原、1910:1441)。

c 犯罪

1900年前後の部落民は、ほぼすべての同時代の証言によれば、犯罪に深く関わっていた。犯罪の内容は深刻であった。例えば、1918年の全国的な大規模な放火と恐喝(D節で後述)や、水平社の松本治一郎中央委員会議長に関連した殺人と殺人未遂(E節で後述)などである。あるいは、それは些細なことかもしれない。16歳の若者が部落民の子どもを侮辱したと京都府警本部長が報告したところ(中野1923:178-79)、部落民の群衆が彼を殴ったという。警察官が仲裁に入ると、警察官も殴られたという。

窃盗は、1888年にジャーナリスト・社会改革者・銀行家・政治家の鈴木梅四郎(1888年、第10節)が、大阪の部落民の「伝統的な職業の一つ」であると断言した。鈴木は、親分の指示のもと組織的に活動していたと説明している(鈴木、1888:29)。典型的には、大阪の名護町スラムに住む15歳以上の人口が5,100人しかいなかった時代、1886年(明治19年)の7ヶ月間で警察は603人の住民を窃盗で逮捕している(鈴木、1888、第10項)。(名古屋市のある)愛知県では、1928年に県下の部落民の14%(男性では25%)に前科があった(愛知、1928:79)。

d 家族

家族制度も崩壊していた。ジャーナリストの桜田文吾(筆名は大我居士)が1893年に書いているが(桜田1893:14)、大阪の部落の男たちは「定期的に子どもを捨て、妻を捨て、移動することを一生のうちに何度も繰り返している」。逆に(桜田1893:36)、夫が刑務所に入ると、妻はすぐに別の男と仲良くなって一緒に住む。「乱交が横行している」と鈴木(1888:35)は書いている。「10組の夫婦のうち、7~8組は自由に他の人と性交渉する」。小原(1910:1438)によれば、すべては早くから始まっていた。小原(1910:1438)は、「12歳までにすでに多くの少女が性的情熱を理解している。乱交と姦淫はどこにでもあることで、誰も道徳的に悪いことだとは思っていないようだ。」

C 回帰

1900年前後の観察者は、一貫した物語を語っている。水平社の創始者である高橋、コミュニティ世話役の賀川、ジャーナリストの桜田、地元の警察署長など、彼らは部落を衝動的な暴力や犯罪、家族の絆の崩壊の場と表現している。しかし、自称部落民の指導者たちは、20世紀の最後の80年間、部落外の日本人の激しい偏見を非難してきた。偏見の可能性は当然ある。

このような一人称の証言の信憑性を確認するために、いくつかの県レベルのデータを考えてみよう。このデータを単純に回帰してみると、20世紀初頭の部落民は確かに残虐な暴力の世界に生きていた。1907年には、これらの貧しい部落民と犯罪との関連は、統計的に顕著なレベルに達している。表7では、1907年の総犯罪発生率(パネルA)と殺人発生率(パネルB)を部落民密度(単位:%、部落民 PC)及び一般人口密度(密度)に回帰している。また、部落民と一般民衆との融合度を把握するために、部落民と一般民衆との間の婚姻率(外婚:残念ながら1921年のデータしかない)を入れた。また、一人当たりの所得水準の代用として、1923年に納税した人口の割合(納税者 PC)を加えた。

犯罪総数PC内務大臣(該当年)に記載されている当該年の犯罪総数を総人口で割ったもの。殺人数PC内務大臣(該当年)に記載されているその年の総殺人数を総人口で割ったもの。1886年の場合、殺人には暴行を含む。外婚1921年の部落民と平民の婚姻件数を、内務省(1921)に記載されている部落民の婚姻件数で割ったもの。納税者PC1923年の納税者数を全世帯数で割ったもの、大蔵省(1923)

表7:部落と犯罪、第二次世界大戦前

A. 犯罪総数PC 従属変数: 犯罪総数PC

B. 殺人: 従属変数: 殺人PC

注記: *, **, ***:それぞれ10%、5%、1%の水準で統計的に有意。相関係数、または回帰係数に標準誤差を加えたもの。すべての回帰には定数項を含む。 2SLS推定では、部落民PC変数は、部落民PC 1868白山神社非人率で。測定されている。1884年は最も古い実態調査であり、1886年は犯罪データが入手可能な最も古い年である。1886年の殺人事件には暴行罪が含まれている。

出典: 本文及び表1参照。

1868年には部落民の集中度と記録された犯罪との間に相関関係はなかったが、1907年にはこの2つの変数には強い相関関係が見られるようになった。もちろん、都道府県レベルのデータでは生態学的誤謬があること、観察されない変数があること、データには部落と非部落の殺人事件が混在していることなど、幅広い修飾が必要である。また、2010年と同様に(上述の表5.B.参照)、犯罪率は都市化に連動している。すなわち、人口密度が高いほど犯罪率は高くなる。しかし、重要なことは、1907年には、犯罪率は地域社会における相対的な部落民の数に追随していた。表7パネルAとBの最初の列では、1886年(入手可能な最初の年)の犯罪率を、部落民密度、人口密度、外婚率、一人当たりの納税者数に(OLSで)回帰している。<データの都合上、1921年の外婚率と1923年の納税者の割合を使用した。>部落民密度の係数は、犯罪総数と殺人率のいずれにおいても統計的に有意ではない。2列目には、1884年以降の人口増加率を加え、1907年についても同様の分析を行った。注:

人口増加率1884年以降の都道府県別総人口の増加の割合。

1907年には、部落民 PCの係数は有意に正であり、都道府県内の部落民の割合が高いほど、犯罪総数、殺人件数ともに増加している。部落民の割合が0.5%から1%に増加すると、都道府県レベルの犯罪発生率は0.00925の中央値に対して0.00136増加するが、効果の大きさは控えめである。なお、犯罪総数は都市部に特有の減少であり、人口密度の係数は正で有意である。部落民PC変数の有意性は、納税者PC外婚人口増加率を連続的に落としても頑健である。

部落民がコミュニティを離れるか、あるいは部落民のままでいるかは、犯罪分野での機会に左右される可能性が高い。そうであれば、部落民PCは、犯罪総数PC殺人件数PCに内因的である。この現象に対処するために、パネルAとBの第3列では、1907年の部落民PCの値を1868年の値で、徳川時代の部落の位置の代理(白山神社)で、そして1868年の部落民のうちヒニン出身者の割合(ヒニン率)で測定している。付記:

白山神社白山神社の数(部落民コミュニティの伝統的な場所の目印だったと言われている)、菊池(1961:691)。非人率1868年の部落民の中での非人の割合、『部落問題』(1980)より。なお、非人は19世紀後半に部落から流出したとされている。

1907年の部落民PCの係数は、犯罪総数PC殺人数PCともに有意に正である。

D 米騒動

1 価格

1918年、部落民が幅広い都道府県をまたいで、凶悪犯罪として世間の注目を集める事件を起こした。米価が1年で3倍になり、都市住民が一斉に暴動を起こしたのである。そして最も暴力的な群衆の先頭にいたのが部落民だったのである。それまで部落民と犯罪を結びつけていなかった人も、1918年には新聞によって結びつけられるようになった。

契機となったのは貧困ではない。農家にとっては、米価の上昇がそのまま利益の増加につながることは明らかであった(社会 1938:54)。その収入に加え、収益性のある繊維関係の副業も日常的に行われていた。都市住民もまた、それによって同様に高い収入を得ていた。都市部の収入は急増していた。この世紀の最初の数十年は、若い男女が都市に移り住み、そこで高い賃金を得るという好景気だったのである。

しかし、1918年に一時的に成長が止まった。東京の物価指数は、1914年の100から1918年には174.3に上昇したが、賃金は160までしか上昇しなかった。しかし、生活水準は19世紀後半から上昇を続けており、すぐにまた上昇を再開した。賃金と生活費の比率を見てみると、1914年には同じく100で指数化されていた。1918年の時点で、この比率はわずかに低下して95となった。しかし、1921年には135に、1924年には150に上昇している。生活費を差し引いた実質賃金は、1914年から1924年までの10年間で50%も上昇していたのである(社会問題資料研究会、1938:54,57)。

貧しい日本人にとって、米が主食になったのはごく最近のことである。従来、貧しい人々は大麦や雑穀を食べていたので、米は贅沢品として売られていた。しかし、新たな繁栄を手に入れた農民や都市労働者は、食生活の中で大麦から米へと移行していったのである(原田、1989:87)。

このような新しい需要(軍隊の調達によってさらに増加)に対応して、高級品から普及品に変わった日用品の価格は上昇した。しかし、少なくとも短期的には、供給は固定されていた。子どもたちが都会で高い給料を得ているため、農家には生産を拡大するための労働力が不足していたのである。需要を増やし、供給を制限すれば、価格は上昇する。そして、その通りになったのである。

2 騒動

7月に富山の漁村で始まった抗議活動は、8月10日に京都と名古屋でも始まった。京都では23日、兵庫では12日、奈良では14日、福岡では34日にわたって続いた。全国的には9月中旬に終了した。その間、検察は8,200人を捜査し、裁判官は4,200人を有罪としたようだ。強盗や放火(木造住宅が密集している都市では死刑になる)が横行し、死者も出たが、裁判官は死刑を宣告せず、無期懲役は3人だけという比較的寛大な処分を下した。<一般に社会(1938:2-4, 91-95, 102-04, 439)を参照。>

店舗や倉庫、富裕層の家などを略奪し、放火する暴徒たちの先頭に立っていたのが部落民だった。現代のジャーナリストや警察は、彼らを暴徒の先頭と位置づけたし、近代の学者もその役割を確認している(高山, 2005:66-69)。警察の発表によると、大阪だけで9,300人もの部落民が参加していたという。京都、大阪、兵庫、奈良では、平均して暴徒の30~40%が部落民であった(三谷、1985:82)。また、ジャーナリストや警察は、暴徒の中でも「部落民」を最も凶暴な存在と位置づけている。<社会(1938:94, 132, 197, 216, 259, 260, 379, 391)参照。>

この暴動の本質は、抗議行動ではなく、略奪と強奪であった。暴徒の標的は、米屋や商家、裕福な家などが多かった。放火という脅しをかけて、現金や値下げを引き出したのだ。躊躇したり拒否したりすると、建物を略奪し、「油」(おそらく灯油)をかけて焼き払った。ある観察者が「窃盗団」と呼んでいたように、女性や子どもたちは暴徒の後に続いて貴重品を運び出していた。夜のうちに暴徒が家を燃やしてしまうと、翌朝早くに女子どもが現れて、残っている貴重品を奪っていった。<社会(1938:97, 178, 216, 230, 260)を参照。>

このような暴力、放火、恐喝を、暴徒たちは全国に広げていった。消防士が到着すると、時に彼らは消防士を襲った。福井では、市長と警察署長の自宅を破壊し、警察署を焼き払った。神戸では、鈴木商店の建物27棟に放火した。福岡県の町では、ダイナマイトを投げたり、銃で軍隊を撃退したりした。最も大規模な暴動を起こしたのは大阪府であった。大阪府では、2万人規模の暴徒が金を強奪し、商人の金庫を奪い、建物に放火したのである。<社会(1938:98, 101,128, 180, 184)を参照。>

E 1920年の部落

1 収入

1920年(及び1930年)の平均的な部落民は、一般の人々よりもまだ貧しかった。徳川時代のように、全員が貧しかったわけではなく、部落民と一般人の所得はかなり重なっていた。しかし、1920年の国会議員選挙を例にとると選挙権は納税義務に基づいており、日本全体では人口の5.42%(307万人)が投票した。部落の有権者率は、石川県の0.17%から千葉県の3.32%までの幅があった。部落の有権者率の都道府県平均は1.55%である。

あるいは、農家の規模を考えてみよう。歴史学者の原口(2014:393)は、1930年代半ばの日本全国の農家の規模の分布を次のように報告している。

なお、1町は9,917平方メートルである。選挙権のデータからもわかるように、部落民は比較的貧しい農家に属する傾向があった。

歴史学者の青木(1998:21)は、1931年の長野県における部落民と全農家の耕作面積を比較している。 

長野県民の耕作面積は、原口の全国集計の数字と同じであるが、長野県の部落民の耕作面積は、他の地域の部落民よりも小さい。他の研究者(例えば吉田、1997:82-85)は、さらに多くの場所を調査しているが、同様の一般的な結論に達している。すなわち、部落民の農民は一般の人々よりも貧しい傾向にあるが、一様ではない。多くの部落民は近隣の最も貧しい人々よりも裕福であり、実際にかなり裕福な人もいた。

2 その他の指標

しかし、1920年代から1930年代にかけての部落民は、調査可能な他の多くの指標において、一般民と比べて明らかに悪い状況に置かれていたわけではないようだ。表8では、社会福祉に関するさまざまな県レベルの指標を、一人当たりの部落民の数、人口密度、部落民と一般民の交流の指標である外婚率、所得の指標である人口当たりの納税者数に回帰している。都道府県レベルのデータであるため、当然先の前提条件が適用される。従属変数は以下の通りである。

自殺率1934年の自殺者数を総人口で割ったもの、内閣(1935)より。赤痢率1933年の赤痢による死亡者数を総人口で割ったもの、内務省(1933)より。結核率1933年に結核で死亡した人の数を総人口で割ったもの、内務省(1933)より。身長1933年、7歳時の男子女子の身長、文部省(1937)より。体重1933年、7歳時の男子女子の体重、文部省(1937)より。胸囲1933年、7歳時の男子女子の胸囲、文部省(1937)より。

表8:部落と社会福祉、第二次世界大戦前

A. 1920年から1935年の変数

B. 1933年から1934年の変数

C. 7歳の身体測定、1933

注記: *, **, ***:それぞれ、10、5、1%の水準で統計的に有意。回帰係数の後に標準誤差を付した。OLS 回帰。すべての回帰には定数項を含む。

出典: 本文および表1参照。

表8の回帰結果を見てみよう。ここでも、所得、人口密度、外婚を検証している。都道府県レベルでは、乳児死亡率は人口密度と相関しているが(これは都市の現象である)、1921年、1935年ともに部落民の割合とは相関していない(パネルA)。自殺率は部落民の密度とは相関しない(パネルB)。赤痢による死亡率は人口密度と相関しているが(これも都市部の現象)、部落民率とは相関していない(パネルB)。結核の死亡率は、部落民の割合とは関係がない(パネルB)。

一般的に、子どもの平均的な大きさは、その子どもの栄養状態を反映している。しかし、部落民の密度は、7歳の男子女子の身長、体重、胸囲とは負の関係にない。むしろ、男子の胸囲と有意に正の相関がある(パネルC)。

3 非婚出産

部落民は、非部落民に比べて公衆衛生が劣っているという兆候は見られなかったが、1922年には、地域社会の機能不全の最も基本的な特徴である非婚出生率の上昇と関係していることが明らかになった。確かに、新婚夫婦がどれだけ早く結婚届を出すかは地域によって異なる。しかし、所得、人口密度、外婚を検証すると、1921年、1935年ともに、部落民の割合は非婚率と正の相関があった(表8パネルA)。

同様に、部落民と一般民の非婚出生率(内務省、1921)を見てみよう。1920年の一般人の非婚率は、都道府県別では宮城県0.54%から大阪府15.9%で、平均8.1%であった。1921年の部落では、県別では静岡県の2.01%(部落民14,000人)から岡山県の60.7%(同43,000人)という驚異的な数字で、全都道府県平均では19.6%であった。いくつかの主要な都道府県の非嫡出子率を比較すると(一般は1920年、部落民は1921年)、その数値は次のようになる。

4 犯罪率

1920年代から1930年代にかけて、部落民密度と犯罪率は再び顕著な相関関係を示した。1921年には、一般人口に占める部落民の割合は1.46%に過ぎなかった。大都市である京都、大阪、兵庫、福岡でも人口の3%に満たなかった。しかし、都道府県レベルでも、部落民の割合が高いほど、犯罪発生率が有意に高くなることがわかった。

表7パネルAとBの4回目と6回目の回帰では、OLSを用いている。部落民の密度(単位:%: 部落民PC)の係数は、1922年と1935年の両方において、犯罪総数と殺人発生率の両方で正であり、有意である。先に述べたように、部落民密度は犯罪率に対して内因的であると考えられるので、5回目回帰と7回目回帰では、部落民密度の計測値を用いた。1922年と1935年の両年において、計測された部落のPCの係数は正であり、有意であった。殺人率については、1922年と1935年の両方において、計測された部落民PCの係数は有意に正である。この効果の実際の大きさは、やはり控えめなものである。部落民の割合が0.5%から1%に増加すると、都道府県レベルの総犯罪率は、都道府県レベルの中央値0.0286に対して0.0014程度増加する。

これらの都道府県レベルの犯罪率から、次に部落民特有の犯罪率を見てみよう(内務省、1921)。1922年の一般人の場合、暴行・殺人の合計率(部落のデータは両者の合計のみ)は、人口10万人あたり沖縄の15.8から福岡の95.8までで、県平均は41.7であった。また、1921年の部落民の暴行殺人事件の発生率は、静岡(部落民14,000人)の10万人当たり6.9人から宮崎(部落民2,600人)の231.7人で、県平均は74.7人であった。

主要6県(一般民は1922年、部落民は1921年)を比較すると、人口10万人当たりの暴行殺人率の合計は部落の主要6県では、兵庫県だけが部落の暴行殺人率が一般の人よりも低かった。

VII アイデンティティ政治の発明、1922年から1945 年

A 背景

1910年代の終わりには、部落民は貧しかったが、極貧ではなかった。彼らが耕作する土地は、他の人々よりも小さい傾向があった。また、収入も低い傾向にあった。しかし、すべての部落民が貧しいわけではなく、裕福な部落民は地域社会に溶け込み、社会的・経済的インフラに貢献し続けていた。府県レベルでは、犯罪率や非嫡出率は高いが、自殺率やジフテリア、結核、栄養失調などは目立って多くはなかった。

肝心なことは、日本人が部落民という身分を、ゆるやかに継承された身分として扱っていたのではなく、特に機能不全な行動様式を表す言葉として使っていたことである。つまり、親が部落民であれば「部落民」と呼ぶのではなく、古典的な部落の特徴を備えていれば、(先祖に関係なく)「部落民」と呼ぶのである。また、「穢多根性」と呼ばれる「クラッカー」(訳注:アメリカ南部の白人低所得者層を指した蔑称)のような掟によって生活し、犯罪率が極めて高く、家族がほとんど崩壊している地域を「部落」と呼んだのである。

スラムに対する都市住民の対応は、「穢多」や「部落」という言葉を、血統ではなく行動を表す言葉として使うことを示している。例えば、神戸や京都では、部落民であろうとなかろうと、都会に出てきた貧しい労働者が、部落であった場所に安い住宅を見つけた。このような労働者は、「部落民が受けると同じ差別」を受けることになったと、(異端的な)活動家である歴史家の藤野(2009:23-24)は書いている。これとは対照的に、横浜では、貧しい移民たちが、部落の中心地ではない地域に2つの大きなスラムを作った。横浜の人々は、部落との歴史的なつながりがないにもかかわらず、この2つのスラムの住人を「穢多」と呼んだ。「穢多村」と呼ばれていたのは、穢多の居住地域のことである(藤野2009:24-29)。つまり、部落の規範に沿った生活をしていたということであり、それを受けて他の市民も穢多村と呼んだのである。

もし、一般市民が「部落」や「穢多」を家系を特定するためではなく、行動を説明するために使用していたとしたら、1920年以前の部落の地位が犯罪や非合法性と相関しているという結論は、単なる循環論法になってしまう。確かに、近隣の人たちがある場所を「部落」と呼ぶのは、以前からの住人が何十年も前から「部落」と呼んでいたからである。しかし、単純に犯罪や非行の多い地域を指して「部落」と呼ぶこともあった。

しかし、1922年、この状況が一変する。

B 水平社

貧しいながらも極貧ではないこれらのコミュニティでは、1922年にアイデンティティ政治が、激しく公然と行われた。この10年の間に、部落の上流階級の若い知識人と、犯罪的な部落の企業家が一緒になって、まだゆるやかにしか認識されていない共同体のために、新しく、より明確に定義された、ほぼ架空の集団的な仮面(ペルソナ)を考案した。その過程で、彼らは、主流の職業ではなく犯罪に投資することを選んだ部落民に報い、代わりに日本において標準的な行動規範で生きることを選んだ部落民を追い出し、部落民に対する世間の敵意を徹底的にエスカレートさせ、組織犯罪と公的補助金をさらに増加させるような、利益を得られるゆすり戦略を打ち出した。

1921年11月、奈良県橿原市の若い部落民数人が集まり、「解放」運動を起こした。ボリシェヴィキや無政府組合主義など、一般民の仲間たちがさまざまな組織を作っていたが、彼らは自分たちだけの組織を作ろうとした。彼らは、「全国水兵社」と名付けることにした。そのために、彼らはまず部落を、皮革職人のギルドに先祖を持ち、真の差別の歴史を持つ「被差別民」コミュニティと再定義した。

1922年3月、部落民の知識人は京都で4,000人規模の集会を開き、団体の結成を宣言した。共産党宣言にならって、「全国の部落民よ、団結せよ」と呼びかけた。(京都1922:3、長谷川、1927:12-13、17)

若者たちはすぐに京都に連盟本部を設置した。最初の1年間で、大阪、兵庫、奈良などの8つの部落民が顕著な府県に、府県水平社を設立した。さらに数年後には、さらに多くの水平社を設立した。

若者たちは、あらゆる中傷に対して、「徹頭徹尾」(京都、1922;長谷川、1927:17)対応することを誓った。彼らは「糾弾」という言葉を作ったが、それは後に紅衛兵やクメール・ルージュが中華人共和国やカンボジアで強要する「自己批判」に近いものを喚起するためのものであったようだ。部落民を侮辱する者がいれば、彼らは仲間を集めて暴徒化する。運がよければ、発言者は自虐的な態度をとるだけで済む。時には、残忍な暴力や金銭的なゆすりを受けることもあった。

この言葉は新しいものだが、戦略は新しいものではない。部落民は数年前からこの手口を使っていた。1909年、彼らは中傷を受けたとして岡山県の村長を襲撃した(渡辺, 1965:717)。また、1916年には、福岡県の地方紙に掲載された侮蔑的な記事をめぐって暴動を起こしている(高山, 2005:53-58; 福岡, 2003:58-60)。1910年には、京都府の村長による自分たちへの呼び方に腹を立てて、村長を撲殺した(京都部落、1995年)。

『共産党宣言』を引用していることからもわかるように、創始者たちは極左主義に忠誠を誓っていた。ロシアでは1917年末にボリシェヴィキが政権を取った。1920年代初頭の日本では、極左団体が労働者を組織し、革命を起こそうとしていた。警察はそれらを監視することに全力を尽くした。水平社もその一つとして注視されていた。

1924年になると、自称ボリシェヴィキが水平社を乗っ取ったように見られた。1920年代の日本の多くの過激派団体と同様に、相対的な穏健派、無政府組合主義、レーニン主義のボリシェヴィキが水平社の支配権をめぐって争っていた。そして、他の多くのグループと同様に、この戦いは、少なくとも当初はボリシェヴィキが勝利したように思われた。<長谷川(1927:93-94, 102-03, 148); 高山(2005:199-204)参照。> ボリシェヴィキによる乗っ取りのきっかけとなったのは、警察のスパイと称される人物の存在だった。1924年末に反乱分子と宣言された穏健派の中には、警察から雇われた情報提供者がいた。その後の混乱の中で、ボリシェヴィキは役職者を粛清し、主導権を握った。

C 架空の過去のイデオロギー的起源

部落の正統的な自伝、つまり、事実上すべての西洋の記述が拠り所としている歴史(上述のII節で詳述)は、この時代に始まった。1920年代から30年代にかけて、日本の知識人たちは、マルクスとエンゲルスが描いた精巧な図式に当てはまる歴史を書こうとした。党に忠実な人たちは、コミンテルンからのより詳細な指示にも応えようとした。

ほとんどの学者にとって、マルクス主義の図式とは、徳川時代を封建主義の一種であると記述することであった。必然的に、徳川幕府を厳格な階級制であるとする必要があった。つまり、徳川幕府は固定された身分階層を強制し、カワタを最下層に追いやった。

第二に、この図式では、幕府は冷酷なまでに搾取的であり、農民は悲惨なまでに没落していると表現する必要があった。この目的のために、著述家たちは、徳川の経済は緊縮しており、カワタは最も貧しい存在であるとした。徳川幕府は、農民を残酷なまでに貧しくし、カワタをさらに貧しくしたのである。

第三に、イデオロギーに忠実であるためには、マルクスが『ドイツ・イデオロギー』の中心に据えたギルドによって徳川の産業と商業の世界を記述する必要があった。歴史学者の峯岸賢太郎(1996:224-25)は、水平社の活動家やそれに関連する知識人が、皮革工芸の先祖を想像して部落を定義したことは、ドイツ・イデオロギーのこの重要性を反映していると説明している。マルクスがエッセイで描いた歴史に合わせて、つまり、活動家や作家がカワタを皮革職人のギルドに変えたのである。少数の村のカワタは確かに屍を扱っていた。少数の町のカワタは革をなめしていた。マルクスはギルドを必要としていたゆえに、カワタは革職人のギルドとなったのである。

1920年代に入ると、部落の歴史家たちは、この新たに生まれたアイデンティティ政治を追い始めた。高橋貞樹がこの事業を始めたと、歴史家の黒川(1989:92-97)は、1924年に発行されたグループの歴史を書いている。部落に生まれた高橋は、水平社の創設に尽力した。その後、密かにソ連に渡り、ソ連共産党に入党してコミンテルンの一員として活動することになる。歴史学者の中では、京都大学の井上清が最も著名であると、黒川氏は続ける。彼は、伝統的なマルクス主義の原則に則って部落の体験を記述するだけでなく、コミンテルンの1932年の指令に忠実に、適合する部落史を作ることに尽力した。

現代の研究者にとって、このような20世紀半ばのマルクス主義の前提は、奇妙な議論を引き起こすことがある。マルクスは農民から農奴へ、農奴から奴隷へと辿っていった。部落民は自分たちの先祖を先史時代の奴隷にまで遡ることができるだろうか(例えば、渡辺、1965:16-18、菊池、1961:56)。答えは、否である。16世紀の武将である織田信長は、何度か激しい農民の反乱に直面した。彼は反乱に参加した罰として、部落民の先祖を穢多非人の地位に追放したのではないか?(例:船越、1976; 寺木、1996:4-5章)もう一度言うが、答えは違う。信長は通常、敵対者を虐殺するだけだった。また、階級的な階層が先で、蔑まれた職業に就くのはその後だったのか? それとも、職業が先で、階級構造が後だったのか?(寺木、1996:19-20; 渡辺, 1963:8-9) 答えはこうだ。マルクス主義は、歴史家がコンセンサスを得る前に大学から消えていった。

時折、最も過激な部落活動家(例:朝田、1979:297-98)は、徳川幕府が広範な農民階級をより効果的に抑圧するために、彼らの先祖を意図的に穢多非人の地位に置いたと主張した。ニアリー (1989:18; 大貫-ティアニー 1989:94)が表現しているように(明らかに賛同しているように)、幕府が部落民を酷使したのは、「自分たちよりもさらに悪い境遇にある集団がいることを思い出させることで、農民や都市住民の反発心を抑えるため」だったのである。しかし、この説は日本の多くの本格的な学者が支持したものではなかった(斎藤と大石, 1995:56参照)。

D 水平社の地理的特徴

1 検証

どのようなコミュニティが水平社の支部(部落水平社)を組織しているのかを調べるために、まず単純なOLSを使ってみた(ここでも、都道府県レベルのデータに関する通常の注意点が適用される)。その結果、部落民が支部を組織しているのは、部落民が集中している地域、都市部、部落民の富裕層が集まっている地域、一般民との結びつきが比較的強い地域であることがわかった。

従属変数として、結成から10年後の1933年に、府県に存在した水平社の支部数をとる。

水平社BO 1933渡辺(1965)に示されている、水平社の支部の数である。

統制としては,説明変数の値を水平社が全国的に形成される直前の値とする。基本モデルでは、支部数が反映すると仮定した人口に占める部落民の割合(%)(部落民PC 1921)、部落民の一般人口への統合の程度(外婚1921)、府県の都市化(密度1921)、部落民の中の富裕層の割合。裕福な部落民の割合の代理として、筆者は以下を作成した。

部落県民有権者数PBC (部落民一人当たり) 1921内務省(1921)に示されている、府県知事選挙で投票できる部落民の数(所得に応じた参政権)を部落民全体の数で割ったもの。

さらに、以下を構築する。

部落犯罪率、PBC1921年に罪を犯した部落民の数を部落民全体の数で割ったもの、内務省(1921)。部落の生活保護、PBC1921年に生活保護を受けていた部落民の数を部落民全体の数で割ったもの、内務省(1921)。部落農業率1935年に農業に従事していた部落の世帯数を部落全体の世帯数で割ったもの、中央融和(1936)。解放令反対一揆1871年の解放令反対一揆が発生した県は1、それ以外は0、稲垣他(1993)による。この変数は、幕末の部落に対する地元の敵意の度合いを表す。

2 結果 結果として得られた回帰結果を表9に示す。その結果、いくつかの分かりやすい結論が得られた。

表9:水平社の支部の位置

A.基礎回帰 帰属変数

B.追加の回帰分析1933 年の水平社の支部数をパネル A で与えられたコントロール変数と以下の追加独立変数で回帰する。

注記: *, **, ***:それぞれ10%、5%、1%の水準で統計的に有意。OLS 回帰。回帰係数の後に標準誤差を付した。すべての回帰には定数項を含む。

出典: 本文および表1参照。

第一に、一人当たりの部落民の数の係数は正であり、有意である。部落民が比較的多く住む地域に水平社の支部が組織される傾向があることがわかる。第二に、人口密度の係数は正で有意であり、水平社は都市部の現象であった。<代わりに部落民の数(一人当たりの部落民の数ではなく)を用いると、部落民の数の係数は強く有意であり、密度の係数はもはや有意ではない。>

さらに、2つの不思議な観察結果がある。第一に、選挙権を持つほど裕福な部落民の割合の係数は正であり、有意である。水平社の支部は、裕福な部落民が部落の中で大きな割合を占めている場合に多く見られる。初期の水平社でのボリシェヴィキと無政府組合主義の論争を思い出す必要がある。このような議論をするためには、少なくともトロツキー、レーニン、クロポトキン、プルードンなどの知識が必要である。必然的に、これらの名前や思想に精通しているということは、教育に熱心な家庭に育っていることを意味する(例えば、青木、1982:74)。

第二に、外婚率の係数は有意ではない。すなわち、支部の数は、部落と一般住民の間の交流の度合いとは相関していなかったようである。しかし実際には、この観察は誤った方向に導いている。外婚率と支部数の間の一対の相関は-0.26であり、10%の水準でほぼ有意である。つまり、部落民が自由に交流している地域では、水平社の支部を設立することは少なかったと考えられるのである。この係数が回帰において統計的に有意でないのは、独立変数の間に強い相関関係があるからにほかならない。

以下の独立変数は、いずれも水平社の支部設立とは関連していない(パネルB参照)。部落の所得(有権者の割合で表される)を一定にした場合、水平社の支部は犯罪率とは関連しなかった。同様に、部落の非嫡出率、部落の離婚率、部落の生活保護依存度とも関連していない。また、農業に従事する部落民の割合や部落の規模とも関連していない。また、1868年の部落の非人とカワタの比率とも関係していない。また、1871年の解放令に伴う解放令反対一揆とも関連がない。

E ボリシェヴィキから日和見主義者へ

1 松本

無政府主義者がボリシェヴィキに勝てないとすれば、ボリシェヴィキは部落の裏社会に勝てないとすぐに分かる。その後、数年の間に、水平社の支配権は再びボリシェヴィキから、ほぼ非政治的な犯罪企業家たちに移った。この企業家たちは、水平社による新しい架空の歴史を利用して、民間企業や地方自治体からますます多額の資金を搾取するようになった。犯罪者になる機会費用が最も低い部落民は残り、この新しい犯罪集団から失うものの方が大きい部落民は立ち去って一般社会に移行するという、古典的なベッカーの論理に従った選択的な移住が行われた。

1923年初頭、福岡の建設会社の社長である松本治一郎が、水平社の全九州支部を組織した。彼の出世はめざましいものがあった。1925年の初めには、全国の水平社の中央委員会の委員長になっていた。<長谷川(1927:52,84)、福岡(2003:67)参照。>

1924年に発見された「警察のスパイ」のことを思い出してほしい。明らかに、警察は内部の人間にお金を払って、極左グループを監視していただろう。もちろん、ボリシェヴィキも、穏健派のライバルを粛清するために、警察のスパイの話を利用したかもしれない。しかし、長谷川(1927)は、警察の情報提供者はあり得ないと考えていた。長谷川は検事として活躍していたが、おそらくエリート集団の中にいたのだろう。また、長谷川は水平社の犯罪に対してもよくく取り組んでいた。1920年代半ば、中央人事部は長谷川を研究職として出向させ、全国の検察官のために水平社に関する情報をまとめて本にするように依頼したようである。長谷川は驚くほど鋭い文章を書いた。長谷川は、警察が内部の人間に金を払った可能性を完全には否定しなかったが、それよりも松本とその仲間たちが自分たちの主導権を握るために話をでっち上げた可能性の方が高いと考えた。<長谷川 (1927:77-78, 84); より一般的な解釈についてはバイリス(2013:207 n.93); 朝治(2009:ch.8)参照>

歴史家のニアリー(2010:1)によれば、1970年代の部落の家族は、松本の肖像画を、死んだ先祖の写真と並べて「神棚」に飾っていたという。確かに、戦前の部落解放運動において、松本ほど派手で大げさで、時には異様に暴力的な人物はいなかっただろう。しかし、これほどまでに部落の犯罪社会を象徴した人物もいないだろう。長谷川(1927:181)自身も1927年に「犯罪組織の親分と思っている人が多い」と発言している。そう言われる通り、松本はすでに地元の芸者を買い上げて愛人にしていたと記している(長谷川、1927:181)。

1887年、福岡市近郊の部落の農家に生まれた松本は、16歳で九州を離れ、京都の中学に入学した。普通子供は13歳で離れるはずである。松本は自分の意志で京都に行ったのではないかと、彼の伝記作家である高山文彦は好意的に見ている。しかし、彼は、理由はどうあれ、自分が安全にいられなくなったために京都を去ったのではないかと考えている(高山, 2005:29)。

数年後、松本は中国北部に向けて出航した。薬を荷車に積み込み、「一等軍医」を名乗って旅をしたのである。検査をし、診断をし、患者に薬を売った。需要は高かった。「物が売れた」と後の秘書は言った。「歯磨き粉をパックに入れて胃腸薬と言っても売れる。それでも売れる」。松本にとって不幸だったのは、偽薬を売る詐欺師が日本の悪名を広めてしまったことだ。1910年には日本領事館に追い出されてしまった(高山, 2005:38-39)。

2 暴力

福岡に戻った松本は、1911年に建設会社を設立した。兄が経営し、自分が労働者を取りまとめていた。その仕事の多くは、地元の鉄道のために行われていた(高山, 2005:46)。1923年(大正12年)3月には、松本建設の従業員が、ライバル会社である松尾建設の従業員と口論になった。両社とも地元の鉄道会社の仕事をしていたのだ。しかし、解放同盟による聖人伝的な記述(部落 1987:74)によれば、その慣習は、落札した会社が競り負けた会社に利益を分配するという了解のもとに、入札を不正に行うことであったという。松本の会社は落札したにもかかわらず、その利益を分配することを拒否した。

喧嘩の夜、松本の会社の社員3人が、ライバル会社のオーナーである松尾幸太郎が泊まっている旅館に行った。松尾が玄関に来ると、彼らは松尾を殴った。その場にあった自転車をつかみ、それで松尾を殴った。他の松本の会社の社員も加わって、刀で松尾に襲いかかった。夜更けには松尾は死んでいた。

翌日、松尾の社員が通夜に参列していると、またもや松本の社員50人が集団で押しかけてきた。石を投げ、扉を踏みつけ、刀を抜いた。松尾組の3人は重傷を負った。警察は、松本の社員30人を逮捕した。松本自身も逮捕されたが、結局、殺人現場にはいなかったという理由で釈放された。<高山(2005:144-47)、部落(1987:74)、福岡(2003:68)などがある。>

松本は、水平社の九州支部長として、徳川幕府の後継者である徳川家達公の爵位を返上することを要求した。松本は、徳川家達公の先祖が残忍な支配をしたために部落民が苦しんだと断言した。無慈悲な弾圧への反省から、彼は返上すべきだという。徳川はそれを認めなかったため、松本は水平社の若者に銃とナイフを持たせて東京に送り込んだ。松本は自分の犯行を認め、4カ月の懲役に服した。しかし、実際には、松本の信奉者が東京に行き、徳川家の屋敷に侵入して家を燃やすなど、攻撃は続いた。<長谷川(1927:29, 43-45); 高山(2005:l82-198, 203); 福岡(2003:68)。>

水平社では、銃を使うことは稀だったようだ。松本は徳川の暗殺計画のために拳銃を調達したが、他の水平社は銃を糾弾の場に持ち込むこともあった(長谷川, 1927:47-49)。戦後の解放同盟のリーダーである朝田(1979:34-35, 52)は、水平社の行事に銃を持ち込んだことを回想している。また、同僚も銃を持っていたと語っている。部落に建設会社が多かったことと関連してか、水平社は爆発物も入手していた。朝田は活動にダイナマイトを持ち込んだことを回想している。1926年、松本が在郷軍人と争いを始めると、争いは急速にエスカレートしていった。松本らは軍の基地を爆破することにし、松本はそのためのダイナマイトを手に入れた。<解放同盟志向の学者は、警察がダイナマイトを仕掛けたと主張している(例えばバイリス、2013:208 n.995)。長谷川(1927:30, 38)は、水平社が同僚に、警察が金を払ってダイナマイトを仕込んだと自白させたと書いている。この物語と一致するように、政府はその同僚に自白を強要したとして水平社のメンバーを切り捨てたのである。>

3 恐喝

水平社の糾弾は、最初から単なる恐喝に近いものであった。松本が全国の水平社を掌握すると、九州支部のメンバーは地方の会社を恐喝した。1925年から1926年にかけて、警察の記録で、福岡の水平社が糾弾で脅して、現金で解決したことが8回あったという(長谷川, 1927:56-62)。しかし、一般的に水平社にとっては、地方自治体が最も簡単にお金を約束してくれた。糾弾といっても、実際に差別があったものはほとんどない。代わりにほとんどが蔑称を巡ってであり、その多くは学校での子どもの嘲笑であった。しかし、1922年には69件であった糾弾は、1924年には1,046件、1925年には1,025件に達した(長谷川、1927:1-2)。

典型的なケースとしては、ある子どもが他の子どもを「エタ」と呼ぶ。部落の子どもは親に言いつける。その親は相手の親から謝罪を受ける。彼らは教師に「ちゃんと教えていなかった」と謝罪を求める。学校の校長にも、教師を適切に監督しなかったことについて謝罪を求める。嘲りを止めなかった警察を攻撃する。最終的には、学校を適切に管理していない地方自治体に矛先を向け、地元の部落への補助金を要求することになる(青木、1998:143)。

4 結果

水平社の派手な犯罪行為は、部落に対する世間の警戒心を高めた。このような水平社の戦術を前にして、世間は関わらないことに全力を尽くした。京都府警の報告(京都、1924:258)によると、水平社が大きくなるにつれ、庶民は社会的部落と反社会的部落を区別しなくなり、すべての部落を疑いの目で見るようになった。「ほとんどの部落民が水平社に反対していることは気にかけない」「水平社の暴力的な手法は、その同情心をなくしてしまった」と警察は報告している。

しかも、それまで部落民を雇っていた雇用主は、部落民を解雇するようになった。京都府警はその様子を1924年に紹介している(京都, 1924:260)。

織物、紡績、染色、電気製品、鉄鋼、陶磁器などの大小の工場、道路工事、庭師、各種の商人など、一般市民や部落民を雇っていた雇用主が、このような状況になったのである。しかし、水平社の運動が始まってからは、差別を理由にした労使間の紛争が起こり始めた。雇い主の中には、部落民を一切雇わないという人も少なくない。実際、部落民を解雇するために、経営悪化を宣言して全従業員を解雇する企業もある。そして、一般市民だけを雇い直すのだ。

そして、部落民は地域を離れ始めた。このようにして部落から出て行った人たちは、部落の社会的・経済的インフラに貢献した、より成功した部落民であったと考えられる。図1を見ると、1870年から1935年までは、部落の人口は一般の人口とともに増加していた。1935年以降は、一般人口が増加する一方で、部落民は100万人前後で停滞している。部落民は出生率が下がったのではなく、単に出て行ったのである。

ハーシュマン (1970)の古典的な定義によれば、部落民は「退出」のコストが低い。部落民はグループを抜けるために、名前を変えたり、外見を変えたり、話し方を変えたり、宗教を変えたりする必要はなかった。ただ移動すればよいのである。地域の指導者と戦う(ハーシュマンの「声」を行使する)ためには、松本や犯罪組織と対決する必要があった。退出のコストが低いことから、主流の職業に就くことを選んだ部落民は、声を上げようとはしなかった。代わりに、1930年代以降、彼らは大量に退出するようになったと見られる。

VIII 戦後部落のゆすりの政治

A 序論

1920年代に松本が台頭してきた頃から始まった水平社の裏社会とのつながりは、戦後になって中心的なものになった。戦後、水平社の後継団体である解放同盟は、極左の趣を残していたが、それはあくまでも趣に過ぎなかった。解放同盟は、何よりもまず、暴力の脅威を利用して政府を揺さぶり、部落固有の収益を引き出すことに専念した組織である。そして、建設契約や土地売買契約を巧みに操り、そのお金の大部分を個人の口座に流していたのである。

1946年初め、松本、朝田を中心とした元水平社の数人が、それまでの名称を改め「部落解放全国委員会」と名づけて再結成した。松本は1936年に国会議員に当選し、1947年には日本社会党から再選している。そして、1955年には「部落解放同盟」と改称した。

解放同盟は、アイデンティティ政治を目的としていた。階級政治ではなく、この区別が重要である。解放同盟の特徴は、部落への補助金を徹底的に追求したことである。貧しい人々への補助金は求めていなかった。1950年代の日本では、多くの人が貧しかったが、そのほとんどは部落民ではなかった。また、部落民の中には、全く貧しくない人もかなりいた。

この議論の中で、2つの点に注意してほしい。第一に、先に述べたように、部落民は、近代以前の伝統的に不浄なギルドの子孫ではない。それどころか、瀬戸内海に周辺地域に限定された、非公式な集団である貧農の子孫に過ぎない。戦後間もない頃、多くの日本人が彼らとの結婚や雇用を避けていたとしたら、その理由はあまりにも誇大に考えられ過ぎていた。もし民族差別が合理的であるとすれば、それはこの場合は合理的であった。暴力犯罪、非嫡出子、犯罪組織が部落では重要な役割を果たしていたことを考えれば、部落出身者との結婚や雇用を望まない日本人がいたことを理解するのに、慣習的な純潔性は必要ないだろう。

第二に、建設事業は不正行為の大きな機会となった。1980年代になると、この機会は派手に利用されるようになった。部落民ジャーナリストの角岡(2012:53-54)は、「解放同盟の会員が暴力団の現役または元構成員であることは珍しくなかった」と書いている。「ある人は差別への怒りから[水平社・解放同盟の象徴である]茨の冠をかぶって出陣した。ある人は[政府が出資する]同和対策の[建設]事業で一儲けしようとした。いずれにしても、歴史的な反差別団体には、ヤクザの現役・OBが要職に就いていた時代があったのだ」

B オールロマンス

解放同盟リーダー朝田善之助は、戦後になって最初の大規模な行政へのゆすり行為を行った。1951年、『オール・ロマンス』誌に「特別部落」という短編小説が掲載された。この物語は、杉山(1951年)というペンネームで書かれたもので、京都の部落に住む理想的な若い医師と朝鮮人密造酒製造業者の娘との間の、やや悲哀ではあるが、優しい愛を描いたものであった。

杉山は部落の窮状を共感と憐憫の念をもって描いているが、部落には貧しさにもかかわらず、深く、優しく、思いやりのある人間の絆で結ばれた共同体があることを見出している。そして、階級を超えた愛の中に、様々な共同体の和解と愛の救済の約束を見出したのである。

朝田にとってこの物語は、水平社が考案したアイデンティティ政治を収益化する好機だった。その鍵は、著者が京都市衛生局の臨時職員として働いていたという事実にあった。朝田(1979年、7章、諸岡1980年、8章)は、彼の小説は明らかに「差別的」であると断じた。彼が京都市に勤務していたことを考えると、京都市にはこの怒りの責任がある。部落解放運動家が市長を攻撃し、衛生局を攻撃した。次から次へと部署を攻撃した。

そしてこの一連の展開によって、朝田とその仲間たちは見事に成功したのである。1951年、京都府は部落に1,140万円を支出していた。1952年には4,650万円を支出している(全国1998, 表12)。隣接する大阪の同和予算は240万円から410万円に、兵庫の同和予算は0万円から800万円に、和歌山の同和予算は850万円から2,440万円になり、滋賀、岡山、広島、山口、愛媛、福岡の各県では、それまで何もしなかった部落に対する多額の予算を投じるようになった(同)。

不運な杉山は巻き込まれてしまった。市長はすぐに朝田に対して、解雇を約束した(朝田, 1979:184)。衛生局は部落の指導者に、杉山は明らかに刑事罰に値すると断言した(京都1991:474-75)。杉山は二度と小説を出さなかった。滅多に読まれない恋愛小説への「憤怒」は、その後も続いている。

C 狭山での殺人<以下の資料の多くは、ラムザイヤー (前述); 菅野 (2009)から引用している。>

恐喝を成功させるためには、部落の犯罪組織が目に見える形で過激な暴力を予告する必要があった。糾弾の役割は、その脅しを目に見える形で、かつ確実なものにしておくことにあった。ほとんどの糾弾は比較的小規模な活動だったが、いくつかの糾弾は公の場で行われた。一連の糾弾の中でも最も異様に激しいのは、東京郊外で起きた強姦殺人事件に関するものである。

1963年、狭山市のある家庭の玄関に身代金要求書が置かれていた。高校生の娘・善枝が帰宅せず、誘拐犯が金銭を要求していたのである。家族は誘拐犯に連絡を取ろうとしたが、娘は強姦され、殺害され、浅い穴に埋められていた。その3週間後、警察は石川一雄という若い無職の部落民を逮捕した。彼は悪い仲間と暴走し、逮捕歴があり、警察に嘘をついていた。長時間の取り調べ(拷問ではない)の後、彼は誘拐、強姦、殺人を自白した。裁判所は彼に死刑を宣告し(控訴により無期懲役に減刑)、彼は服役し、1994年に政府は彼を仮釈放した。

解放同盟は、石川を部落の英雄、警察の偏見による無実の犠牲者に仕立て上げた。実際には、石川は明らかに強姦殺人の重要な役割を果たしていた。彼を有名人にすることで、解放同盟は、関心のある学者が身代金要求書と石川の手書きの告白を容易に見られるようにしたのである(例:菅野, 2009)。この2つの文書に見られる奇妙なクセのある筆跡と非識字者の特徴は、警察がほぼ間違いなく正確な人物を見つけたことを示している。部落民の凶悪犯罪率が高いことを考えると、日本版人種プロファイリングとして、警察はまず部落民に焦点を当てたのだろう。また、他の証拠も仕込んだかもしれない。警察は、驚くべきことに1ヶ月半もの間、弁護士の立会いなしに彼は取り調べをした。警察は彼を騙してあのような自白をさせたのかもしれない。しかし、警察は明らかに正しい人間を捕まえたのだ。

また、石川が単独で犯行に及んだとは考えにくい状況もある。警察が少女の遺体を発見した2日後、彼女の家の農場で働く労働者の1人が空井戸で死んでいるのが発見された。警察はこれを自殺とし、殺虫剤を飲んで井戸に飛び込んだと説明した。その5日後には、彼女が誘拐された日の夜、不審な3人組を警察に通報した農家の人も死んだ。これも警察は「ナイフで心臓を突き刺した」自殺と断定した。地裁が石川に絞首刑を言い渡してから4ヶ月後、善枝の姉の死体が発見された。毒物(農薬)を飲んだのではないかと警察は判断した。1966年には、石川がかつて働いていた狭山養豚場の労働者が線路に倒れていた。1977年には善枝の兄の一人が首を吊って発見された。<菅野(2009:301-03;事件関係者が6人自殺、不可解な死を遂げた狭山事件(http://ww5.tiki.ne.jp/~qyoshida/jikenbo/057sayama.htm)などを参照のこと。>しかし、身代金要求書や石川の他の文章に見られる筆跡や非識字者の特徴から、少なくとも石川が少女を強姦して殺した一味であることは疑う余地がない。

このような証拠があるにもかかわらず、解放同盟は石川の無罪を主張し、その叫びを国民運動に発展させたのである。部落の指導者たちは、1960年代の新左翼トロツキストの仲間たちと協力して、暴力による脅しを可能な限り信憑性の高いものにした。<菅野(2009:298-299)など、インターネット上のさまざまな情報源を参照のこと。>1969年には、浦和地方裁判所に火炎瓶を投げ込み、建物を占拠した。1974年には、石川を支援するために11万人の暴走を組織し、東京高等裁判所に侵入し、裁判所職員を鉄パイプで攻撃し、高等裁判所の控訴審を担当する裁判官の自宅に火炎瓶を投げ込もうとした。1976年には、車に乗った高裁判事をバットで襲い、1977年には最高裁上告審の判事の家に火をつけようとした。1979年には法務省の集合住宅に放火しようとした。1990年には石川に死刑を宣告した地裁判事の自宅に放火した。そして1995年には高裁の裁判長の自宅が焼失した。

D 共産主義者の粛清<この説明は、ラムザイヤーとラスムセン(2018)に大きく依拠している。>

オールロマンス闘争を通じて、解放同盟のリーダーたちは、京都市当局が部落に費やす資金の水準を決定的に引き上げた。しかし、彼らはすぐに、部落以外の京都市民からの再分配には限界があることを悟った。資金の移動をより高めるためには、国を利用する必要があった(尼崎,1988:387など)。

そのため、解放同盟は10年半に及ぶ熱心なキャンペーンを始めたのである。そしていくつもの段階を経て、1969年に目標を達成した。この年、政府は部落に特化した巨額の資金を投入する事業を開始した。2002年の終了までに15兆円(2002年の為替レートで約1,250億ドル)もの資金が部落に投入された。

この国家的事業を手に入れた解放同盟の指導者は、その配分を管理する必要があった。一番多いのは建設事業費である。その資金で私腹を肥やすために、彼らは契約の分配を管理する必要があった。彼らの言葉を借りれば、資金の「窓口」となる必要があったのだ。そのためには、他のすべての仲介者を排除する必要があった。特に、共産党の競合者を排除しなければならなかった。

解放同盟の指導者たちは、建設契約の配分を管理するために、地方自治体を順に攻撃していった。まず、大阪府吹田市から始めた。1969年6月、吹田市に「金を独占的に使えるようにしろ」と要求した。解放同盟批評家によれば、吹田市に300人の解放同盟メンバーを送り込んできたという。また批評家によると、彼らは3日間、市長の家を取り囲んだという。夜中にドラム缶を叩き、ガス、水道、電話の線を切った。壁をよじ登り、敷地内に入っていった。最終的には市長も屈服した(中原 1988:128-29; 一ノ宮 2013:270)。

解放同盟は都市から都市へと移動していった。必要に応じて―やはり批評家によれば―戦術を繰り返した。羽曳野市(大阪府)と対峙したとき、解放同盟のメンバーは122時間にわたって市役所を占拠し、市長を22時間監禁した。<中原(1988:128-29)、一ノ宮とグループK21(2013:96-97、270)。>どこでも彼らの思い通りになるわけではなく、挑戦したところ裁判で負けることもあった。<例えば、前田対西脇市887判例時報66号(神戸地裁1977年12月19日)、福岡市対松岡870判例時報61号(福岡高裁1977年9月13日)、一般にアップハム(1980:54-62)を参照。>やがて、多くの(全てではない)都市が窓口一本化政策を撤廃したが、解放同盟は引き続き支配を推し進めた。

同時に、解放同盟は共産党を資金面で排除する必要があった。最も決定的な突破口は、早くも1969年に訪れ、当時矢田で解放同盟が共産党系の教師と決裂した。そこで、解放同盟は共産党の教師を200人の部落民の前で12時間にわたって罵倒したのである。しかし、この矢田の「糾弾」が最もよく知られているとすれば、1974年の八鹿での共産党教師に対する「糾弾」が最も残酷だったかもしれない。共産党は決して信頼できる情報源ではないが、部落民作家の上原(2014, 3章)が数十年後に八鹿を訪れて事件の関係者にインタビューしたところ、大規模な暴力があったとの報告があったという。人類学者のローレン(1976:685-86)は、当時、この地域でフィールドワークを行っていた。彼の話によると、糾弾会が終わる頃には、共産党の教師のうち12人が脊椎を含めて骨折していた。そのうち13人は最低でも6週間の入院を余儀なくされた。さらに5人が1カ月、15人が2~3週間、15人が1週間以上の入院を余儀なくされたという。

IX 転出と補助金

A 序論

国の補助金は、部落の若い男性が暴力団に参加することで得られる収入の水準を劇的に引き上げることで、学校に留まり、大学を出て日本の一般社会に溶け込もうとする動機付けを低下させた。ラムザイヤーとラスムセン (2018)では、2002年に1969年の国の補助金が打ち切られたことを通して、この現象を探った。具体的には、1935年の実態調査(小地域のデータがある唯一の実態調査)を用いて、市町村レベルのパネルデータセットを構築し、2002年の補助金打ち切りが転出レベルに与える影響を検証した。市町村レベルでの部落からの移住についてはデータがないため、各市町村から移住総数と部落の集中度(1935年のデータに基づく)との関係を調べた。その結果、2002年以降の移住者は、部落が最も集中している都市で最も急激に増加していることがわかった。

このIX章では、14回の部落実態調査を利用して、部落民の人口変化を調べてみた。まず、過去4回の部落実態調査を用いて、20世紀最後の30年間における部落民の転出の一般的な決定要因を探る(サブセクションB)。続いて、1947年から1969年の間の部落への補助金の分配を調べる(サブセクションC)。最後に、1947年から1969年の補助金に関するデータと移住に関するデータを組み合わせて、部落からの移住に対する補助金の効果を調べた(サブセクションD )。その結果、多額の補助金は、部落民の一般社会への移行の速度を大幅に遅らせることがわかった。

根本的に、政府の補助金は地元の犯罪組織の資金源となっていたのである。ゲイリー・ベッカーの人的資本と犯罪に関する一般的なモデルを考えてみよう。補助金が少ないところでは、若い男性は犯罪者になっても得るものが少ない。必然的に、彼らは学校に留まり、おそらく大学に進学し、主流の社会で仕事を見つけ、部落から抜け出す可能性が高かった。対照的に、補助金の額が大きいところでは、若い男性の犯罪的職業への見返りが高かった。このような違法な利益を高めることで、部落民の若者が学校をやめ、部落に留まり、犯罪組織に参加することを促したのである。政府は、名目上の「失業者」の増加に対応して、より手厚い補助金を支給し、その補助金によって、さらに多くの若者が学校を退学し、部落に残留し、暴力団に入り、よってさらに多くの「失業者」が部落にいるので、政府は補助金の水準をさらに上げる、といった具合に、悪しきスパイラルに陥ったのである。

B 転出

補助金そのものの効果(表11、12)に目を向ける前に、過去4回の実態調査を用いて、部落民の転出のより一般的なパターンを調べてみた(表10):どの部落で人口が減少し、どの部落で増加したのか? 従属変数は、各実態調査時点での部落の人口であり、1921年の部落人口を指標としている。この変数は、1921年以降、部落民がコミュニティを離れ、一般社会に溶け込んでいった度合いを表している。独立変数としては、すでに定義されている変数を使用している(表4参照)。これらは、部落の集中度(部落民PC)、部落の平均規模(部落規模)、都市化の度合い(密度)、部落民が一般民と交流する度合い(外婚)を捉えている。部落の経済厚生(部落県民投票、PBC)、農業への依存度(部落農業比率)、解放同盟の暴力的な前身を地元の部落が支持していた度合い(水平社支部)、犯罪的文化の存在(殺人PC)。ここでは、1920年代の部落解放運動の開始時期にできるだけ近い値を採用した。

表10: 転出の決定要因、1971-1993 年の調査 従属変数: 1921年の部落人口指数

従属変数被差別部落の人口(1921 年を基準とする)。

注:*, **, ***:それぞれ10%、5%、1%の水準で統計的に有意。回帰係数の後に標準誤差を付した。すべての回帰には定数項を含む。回帰は OLS。

1935年に農業に従事していた部落民の割合(部落農業比率)の係数は正で有意である。この現象は、部落の定義が場所によって異なることによるものである。人的資本は移動するが、土地は移動しない。必然的に、農地に出資した人は、人的資本に出資した人よりも移動する可能性が低くなる。

この回帰分析は、犯罪的職業に比べて合法的な収益のほうがコストが低い状況に直面した時に、部落民がコミュニティを離れて日本の主流社会に参加する可能性が最も高いことを示唆している(明らかに証明しているわけではない)。一方で、部落民は、一般社会との距離が遠いところや、部落が比較的包括的な社会状況を提供しているところでは、部落を出る可能性は低い。このように、1921年の一人当たりの部落民の数の係数は、統計的には有意ではないが正であり、部落民は、部落民の密度が最も高いコミュニティから離れる可能性は低い。同様に、1921年の部落の規模に関する係数は正であり、部落民は小さい部落よりも大きい部落を離れる可能性が低かった。

一方で、一般社会からの疑念が強い部落からは、部落民は出て行きにくい。例えば、1921 年の「外婚率」の係数は負であり、部落民は一般社会との交際、つまり外界との接触が比較的密で調和的なコミュニティを離れる傾向があった。1993年の指数化された部落の人口と1921年の外婚率との間の一対の相関は-0.52であり、1%以上の水準で有意であることに留意されたい。逆に、1920年の殺人率の係数は正であり、部落民は相対的に犯罪機会の多い部落を離れる可能性が低かった。同様に、1933年の水平社支部数の係数は正であり、部落民は以前の住民による暴力的な組織があった地域を離れにくくなっていた。

部落の規模が小さく、隣人との関係が良好な場合には、若い部落民は、主流社会で有益なキャリアを築くために必要な情報、訓練、教育を比較的安価に受けることができた。しかし、外界との接触が少ない大規模な部落に住んでいる場合は、そうした情報を得ることができなかった。凶悪犯罪の発生率が高いため、代わりに違法な職業に関する情報を得ることができた。

C 補助金

表11では、同和事業対象となった府県の部落にどのような補助金が支払われたかを調べた。エリック・ラスムセンと筆者は、ラムザイヤーとラスムセン(2018)で1969年から2002年の国の補助金を調査しているので、ここではその作業を繰り返さないことにする。代わりに、国の制度に先行する都府県の補助金を調べてみる。なお、1946年、1958年、1963年、1967年、1971年の実態調査では、国の補助金以前の期間を4つの区分に分けている。被説明変数は以下の通りである。

補助金PBC

ある期間における1969年以前の都府県の部落民に対する補助金の額(単位は万円)を部落民の数で割ったもの、全国部落(1998)による。この資料では、補助金の内容については詳しく述べられていない。

独立変数としては、水平社結成時(あるいはその直後)の各県の値をいくつか取る。すでに定義されている変数としては、部落集中度(部落PC)、外婚率、人口密度、部落富裕層比率(部落県民投票権)、部落平均規模(部落規模)、部落農業比率水平社支部数などがある。また、以下の変数を新たに作成した。

部落の非嫡出率、1921

1921年の非婚の部落民の出生数を部落民全体の出生数で割ったもの。

糾弾率、1923-24

1923-24年の糾弾会の回数を部落民全体の数で割ったもの、長谷川 (1927)による。

大都市圏の府県は、部落民一人当たりの補助金の分配率が高い(パネルA)。密度の係数はすべての期間で正であり、4つの期間のうち3つの期間で有意であった。部落民の密度が高い県ほど補助金の額も高い。「部落民PC」の係数は、すべての期間で同様に正であり、3つの期間では有意に正であった。不思議なことに、他の条件が同じであれば、1933年に水平社の支部数が多かった県は、補助金の支払いが最も少なかった。支部数の係数はすべての期間で負あり、4つの期間中2つの期間で有意に負である

パネルBでは、補助金のパターンを説明する可能性のあるいくつかの他の指標を加えた。例えば、最も貧しい部落に補助金が支給されると予想されるかもしれない。しかし、生活保護を受けている部落の割合、部落の非嫡出率、投票権を持つ部落の割合は、いずれもゼロから有意な差はない。

さらに、2つの見解がある。第一に、部落民と他の住民との間の緊張感が最も高い地域で、政府は最も多くの補助金を支払った可能性がある。パネルAの回帰分析で用いた要因が同じであれば、1870年代に部落解放に反対して住民が暴動を起こした場所(解放令反対一揆)や、初期の水平社のメンバーが最も多く糾弾会を開いた場所(糾弾率)では、政府はより多くの補助金を支払っていたことになる。第二に、一部の作家(例えば本多、1991、30)は、補助金は非人ではなくカワタの子孫に支払われたと指摘している。1868年の非人率は、一対一の相関関係にある4つの期間のいずれにおいても、補助金の水準と有意な相関関係はなく、パネルBの回帰分析における非人率の係数も同様に有意ではない。

表11: 部落に特化した都府県の補助金、1947-1968年

A.基本的な回帰分析 従属変数部落民一人当たりの補助金、年ベース

B.追加独立変数 補助金 PC、1963-66年 の回帰に、以下の追加独立変数をそれぞれ加えた。表には、その追加変数の結果としての係数、標準誤差、調整済みR2が示されている。

注記: *, **, ***:それぞれ、10、5、1%の水準で統計的に有意。回帰は OLS。回帰係数の後に標準誤差を付した。すべての回帰には定数項を含む。 出典: 本文および表1参照。

D 補助金と転出

表12では、政府が1946年から1971年までの間に5回の部落実態調査を行ったという事実を再び利用した。これらの複数の都府県レベルの調査と都府県の補助金の額に関する年次データを組み合わせ、補助金の額が部落を離れて一般社会に溶け込むことを選択する速度に与える影響を調べた。

表12の回帰分析では、都府県の補助金が部落民の一般社会への合流の速度を遅らせることが示唆された。表12の最初の4つの回帰では、1921年の値で指数化した部落民の人口を、部落民一人あたりの補助金の水準(補助金PBC)、部落の集中度(百分率、部落民PC)、部落の規模、人口密度に回帰している。その結果、補助金の水準に対する係数は、3つの期間では正であり、2つの期間では有意に正であることがわかった。有意水準は使用した独立変数に左右されるが、基本的には非常に強い相関関係がある。1958年の指数化された人口と1947-57年の補助金の間の一対の相関は0.28であり、7%の水準で有意である。1963年の人口と1947-62年の補助金の間の相関は0.33であり、3%の水準で有意である。1967年の人口と1947-66年の補助金の間の相関は0.52であり、0.1%の水準で有意である。この効果の大きさは些細なものではない。例えば、埼玉県の補助金(0.669)から大阪府の補助金(16.785)に引き上げたとする。その結果、1921年を100とした場合、1971年の部落民人口は15.8人増加する(都道府県レベルの中央値94.77の場合)。

しかし、補助金の水準は、部落民が地域に根ざしているかどうかに内因すると考えられる。そこで、補助金の水準を、部落民PC部落の規模密度水平社支部1933年糾弾率1923年部落の生活保護PBC1921年部落の非嫡出率1921年部落の離婚率1921年部落の有権者数1921年解放令反対一揆白山神社で測定した。表12の最後の4回の回帰では、2段階最小二乗法の結果を報告する。ここでも有意水準とCragg-Donald Wald F統計は使用した変数に敏感である。それにもかかわらず、補助金の水準に関する係数は、4つの回帰すべてにおいて正であり、有意である。つまり、補助金の水準が高いほど、部落民が日本の主流社会に加わるために離脱する水準は低くなる。

この結果は、2つの異なる方法で解釈することができる。一方では、この現象は、無情なまでに単純な説明と一致している。つまり、あるコミュニティに留まることを選択した部落民には政府が補助金を出し、離脱する部落民には補助金を出さなければ、より多くの部落民が留まることを選択するということである。また一方では、表5が示すように、部落民の滞在が増えると犯罪率が高くなる。また、別のところで詳述されているように(ラムザイヤーとラスムセン, 2018)、戦後の大半の期間、暴力団が解放同盟を支配し、建設契約に対する支配力を利用して、資金の大部分を彼らの個人口座に流用していた。1980年代の暴力団の全盛期には、部落民の若者の20~25%が犯罪組織のメンバーであった。つまり、犯罪的職業の相対的な利益を高めることで、補助金によって部落民の若者が学校を退学し、暴力団に参加し、部落特有の犯罪的職業を追求するようになったのではないだろうか。補助金の水準が低いところでは、若者は学校に残り、部落から大学に移り、一般の職業に就いた。

表12: 都府県補助金(1947-1968)の水準と転出者数

従属変数:部落の人口(1921年を基準として)

注記: *, **, ***:それぞれ10%、5%、1%の水準で統計的に有意。回帰係数の後に標準誤差を付した。すべての回帰には定数項を含む。

パネル A の部落民一人当たりの補助金は、部落民総数 35/46/58/63水平社支部33糾弾率23部落生活保護PBC 21部落非嫡出率21部落県民有権者21解放令反対一揆水平社支部33部落規模35/58/63密度35/46/58/63部落離婚率21白山神社で提示している。

出典: 本文および表1参照。

X 結語

根本的に、西洋の学者や知識人は、社会的・政治的行動の基本的な経済学を見落としているため、部落の変革の論理を見落としている。それは、古典的な市場の領域外の行動の経済学であるが、合理的で戦略的な行動であることに変わりはない。本稿では、日本という特定の国におけるアイデンティティ政治の発明と崩壊の背後にある経済学を取り上げている。しかし、その論理的な一般性は、他の時代、他の社会での同様の現象を説明できることを示唆している。

西洋での説明とは異なり、部落民は社会階級外の者ではないし、おそらく過去もそうではなかっただろう。少数の例外を除いて、彼らは皮なめし職人の子孫ではない。彼らは、19世紀には貧しい農民、20世紀には都市の貧困層の機能不全のコミュニティの子孫である。

1920年代、部落民の上流階級の若い知識人たちは、部落民のために、ほぼ架空のアイデンティティを作り出した。マルクスの『ドイツ・イデオロギー』を参考に、部落民は革職人の子孫であると宣言したのだ。彼らの祖先は容赦ない差別を受けてきたが、それは宗教的に不浄なギルドのメンバーを嫌っていたからだ、と指導者たちは主張した。

知識人の指導者が発明したものを、犯罪の指導者が利用したのである。彼らは、この新しいアイデンティティをもとに、本格的なゆすりによるアイデンティティ政治に乗り出した。差別が蔓延していると主張し、暴力的な強奪戦術を駆使して、政府からの補助金をどんどん引き出すことに成功した。当然のことながら、彼らはまた、ますます多くの社会的敵意を引き起こすことになった。一般の人たちは、彼らを遠ざけるためにあらゆる努力をした。

1920年代以前の部落民は、日本の伝統的な行動規範を守ることを選択していたので、うまくいっており、地域社会に留まり、社会的・経済的なインフラの構築に貢献していた。しかし、1920年代以降、彼らは去っていった。ハーシュマンの古典的な類型論では、彼らが直面した「退出」のコストは些細なものだった。犯罪者企業家たちが、部落に対する一般民の敵意を高めていくのに伴い、正当な職業に就いていた部落民たちは、単純に部落を出て一般社会に移行していったのである。

結果的に、若い部落民が犯罪に手を染めることで、補助金はスパイラル的に増加した。補助金が多ければ多いほど、部落民の若者がアイデンティティ政治を利用した犯罪的職業から得る見返りも大きくなる。相対的な見返りの大きさから、学校を中退して部落に残り、犯罪組織に参加する若い部落民の数が増え、名目上の失業者の数が増えると、政府は補助金の水準を上げるということが繰り返された。日本社会の一般的な行動規範に従って生きることを選んだ部落民は、部落を出て一般社会に移行していった。しかし、犯罪者になることを選んだ人たちは、部落に残ることを選択した。

そして、突然、すべてが終わった。部落を明確に定義された現象として生み出したアイデンティティ政治は、始まったときと同じように突然終わったのである。ラムザイヤーとラスムセン(2018)はその崩壊を詳述している。ちょうどアイデンティティ政治が皮革職人のギルドに関する歴史の発明から始まったように、それは2002年に終了した。その年、国は部落に特化した補助金を停止した。犯罪者になることの絶対的見返りが減少したため、教育の相対的利益が増大した。部落の若者は、学校をやめてヤクザに入るのではなく、学校に通うようになった。彼らは高校を卒業し、部落を離れて大学に行き、そのまま帰ってこなかった。

解放同盟は衰退した。配布するお金がないので、会員数は補助金が支出されていた時代の20万人から5万人にまで減少した。現在、会員の半分以上は60歳以上である。そして、解放同盟とともに、暴力団も消えていった。補助金を流用できないため、同盟員は部落の建設事業からの巨額の利益を得ることができなくなった。1991年に91,000人いた構成員・準構成員関係者の数は、2015年には47,000人にまで激減した。2014年には、暴力団員の4分の3が40歳以上、4割が50歳以上になっている。

謝辞:本論文の執筆にあたり、次の皆様に有益なコメントと助言をいただきましたことに感謝申し上げます。Fabian Drixler、Maren Ehlers、福井義高、Colin Jones、Louis Kaplow、Curtis Milhaupt、三輪芳朗、Gregory Noble、Richard Samuels、Richard Sander、Steven Shavell、Henry Smith、高島正憲、Frank Upham、David Weinsteinの各氏、およびハーバード法科大学院とイェール法科大学院で開催されたワークショップの参加者の皆様。

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