私たちを引き裂く150ミリ

6/14

 受験を控えた学年でのホームルームなんて受験勉強のムダだと嫌がる人もいるけれど、私はそんな時間も好きだった。

 今回のホームルームは、私たちの住む町・高見について自分なりに調べてきたものを発表する、という内容だ。

「はい。ありがとうございました。じゃあ次の発表は――中浦さん」

「はい」

 私の番が回ってきた。座席から移動して教壇に立つ。

 ここからはクラスメイトのすべてが一望できる。

 テストの点に関わらないものは受けてもムダとばかりに、大多数の人は興味もなさ気なのが見て取れた。

「中浦さんは何を調べてきたの?」

「『いちえさん』という、高見独特の神さまについてです」 

「あ、あなた、どこでそれを?」

 それなりにお年を召した先生はすぐに理解し目の色を変えたが、対照的にクラスメイトたちは何も気にするふうでなかった。

 地域の風習や歴史なんて知らないのも無理はないけれど、一抹の寂しさも覚える。

「父が学者ですから」

「ああ、そういえば、そうだったわね」

 父の専門は地質学だけどね。

 全てを納得させてしまう『学者』という権威的パワーワードは嫌いだけど、面倒くさい説明を省くにはちょうどいい。父の話や、死蔵同然だった図書室の本などをあたって、私なりにまとめた内容を読み上げていく。

「ここ高見の地ではほかでは見られない信仰がありました。『一期一会』という語から取ったとされる、『出逢い』というできごとそのものを神格化、神さまに見立てた『いちえさま』です」

 こんな話誰も聞いてない――そう、思っていたら。

 

 一人の男子と目が合った。春日野かすがの夭ようくん。

 私の、数少ない異性の友達。

 

 彼だけは、うつむかずにずっと私に視線を合わせていたのだった。

 たまらず視線を原稿に落とす。

「い、『いちえさま』は『一影』、ひとつの影とも書きます。人と人とが出逢う時、影が重なりひとつになるからだと、い、言われているそうです」

 気付かなければよかった。

 どうしてかはわからなかったけれど――そうもマジメに見つめられると、やりづらくてたまらなかった。

 春日野くんは私の数少ない友達だ。

 私がそう思っているだけかもしれないけれど、それでもいい。

 自分で認めるのもどうかとは思うが、私はほとんど誰とも関わりを持たず、休み時間となれば独り本ばかり読んでいるような学校生活をずっと送っている。

 クラスのみんなの言葉に合わせるなら、「隠キャ」というものなのだろう。

 誰かに気を遣うよりもこうして物語の中で自己完結していたほうが、余計なことも考えなくていい。

 私は独りでいることに慣れていたし、十五年過ごしたスタイルを今更変更するために過剰なエネルギーを使うのも億劫だ――そのように思っていた。

 彼、春日野くんと話をするまでは。

 あれはちょうどひと月くらい前だろうか。

 私が昼休み後体育だということを忘れてギリギリまで本を読み更けてしまっていた、というような時。

 いま私を上から覆っている影、それと声が、私を物語からこの世界へと引き戻したのだった。

「あっ、秋津さん。やっぱりいた。次の時間体育だよ。遅れちゃうよ」

「――春日野、くん? なんで?」

 あの時の第一印象はといえば。

 なんでクラスメイトってくらいしかつながりのない私なんかにあえて声をかけてきたのだろう、しかも男子が。

 というくらいの認識だったのだけど、最初から不思議と嫌な気はしなかった。

「だって……クラスメイトだから」

 クラスメイトだから――か。

 そんなものたまたま同室にいるだけの関係でしかない、という私の認識とまったく違う。「クラスメイトだから」という素直な仲間意識を持つことができない私にとって、彼のような存在はまぶしくもあった。

 あの時彼が声をかけてくれなければ、おそらくチャイムが鳴るまで誰も戻らない教室でひとりぼっちになっていたはず。

 それ以来、春日野くんはクラスで浮きがちな私のことを、何かと色々気にかけてくれたのだった。

 彼の人当たりのよさがそうさせるのだろうか。

 そうして気にかけてもらえているうちに彼にかなり心を開いているのが、自分でもわかった。

 いつしか、クラスメイトとしてのつながり以上を求めるようになっていたんだ。

 ――放課後。たいして友達もいない、加えて部活動などに打ち込むでもない私にとって図書室は最良の居場所。

 ここで待ち人が来る時間まで一人で時間を潰すのがいつもの習慣となっていた。

 放課後の図書室なんてものは基本的にたいして人もおらず、当番の委員を除けば、ほぼ独占状態にも等しかった。

 まあ、たまの例外もある。先のホームルームの課題が出ていたときなんかがそうだった。

「ああなんでこんな課題よこすんだよ」

「なー。面倒くさい」

といった愚痴があちこちで飛び交っていた。

 こんな機会でもないと図書室に足を踏み入れることもないと言わんばかりだ。

 もったいない。タダでこんなに色んな本を読める機会なんてそうそうないのに。

 ともあれ、今はそんな状況も落ち着いた。

 今日も、利用者は私だけ――その、はずだった。

 視線を落としていた本に人影が浮かび上がったと思えば、後方からは聞き慣れた声。この影の形を、私はよく知っている。

「チカちゃん、やっぱり今日もここだったか」

「春日野くん? こんな時間に……なんで?」

「いや、教室の掃除当番でさ。担任の先生から資料室の生理手伝わされてさ。それでさ……もしよかったらさ……いっしょに帰らない?」

 その誘いは嬉しかったけれど、私には――

「ごめんなさい、人を待っているの」

 彼は少なからず驚いたような、そして寂しそうな表情を浮かべる。

「! ……そっか。なんかごめん。それなら迷惑だったね。いや、ほんとごめんね? そ、それじゃ」

「……あっ……」

 なんだか誤解を与えてしまったらしい。

 逃げ出すようにその場を後にする彼。

 彼が廊下を走り去る姿が図書室の窓からはっきりと見えた。

 

 昼間までは晴れ渡っていたのに、いつしかどんよりとした曇り空に覆われているのもわかった。春日野くんとの距離は、近づいたようで、まだ遠かった。

 

 1年で1センチ。私たちの故郷は、少しずつ沈んでいっているのだと父はいう。

 地盤沈下、と呼ばれる現象だ。

 この高見は鉄道も多く張り巡らされ、都心のベッドタウンとして注目をあびるようになった結果、さまざまな施設の建設がはじまったと共に住む人も増えた。

 春日野くんも、そうした発展と共に転入してきた家庭の子だ。

 父――秋津弘道は地質学者として過剰な開発に警鐘を鳴らしてきたけど、目先の利益に囚われる企業や行政にすべて握りつぶされてきた。けれど、それでも父は諦めていなかった。今日も偉い人のところまで陳情に行っていたのだという。

「いつも迎えに行くのが遅くなってすまないな」

「ううん、いいよ。忙しいんでしょう?」

「うちまでの急傾斜は、自転車などを使うにも大変だろうからな」

 私の家は駅からも離れた上り坂のきつい立地をしている。こうして送迎を欠かさないのは父なりの気遣いで、コミュニケーションなのだろう。

 本当はこの歳になっても迎えに来てくれなくてもいいのに、と思っているのだけど、それを言うのはかわいそうだと思うから黙っている。

 座席で座り合う私と父の肩。

 母が亡くなって以来、このけして広いとはいえない車内こそ二人が最も近くなれる貴重な時間なのだから――

「高見の地盤は元々緩い。こんなところにやれ工場だ大型施設だマンションだ――人間のエゴ優先でそんなにいっぱい建ててしまえば、いつかは『いちえさま』の報いを受けるというのに」

 いつかは『いちえさま』の報いを受ける――それが父の口癖だった。

 と、そんな独り言を漏らす父へと一本の電話がかかってくる。

「おっと、すまない。ちょっと止めるぞ」

 当然そのまま出るわけにはいかない。

 父は通りがけのコンビニで車を止め、下車する。

 そして少し離れた外で何やら穏やかでない様子の会話を繰り広げる。

 よく見る光景だった。電話越しの相手に父は苛立ちを隠さなかった。

「だからこのまま開発を進めていてはこの高見の地は重みに耐えられなくなる。何かあってからじゃ遅いんですよ。なんでそんな簡単なこともわからないんだ……!」

 いや――苛立ちというよりは、焦りなのかもしれない。

 

 帰宅してから摂る父との夕食。

 受験を控えた私が唯一テレビを見ることができる時間だ。

 今日の献立は焼き魚。

 骨を取るのは面倒だけれど、父が好きなのでよく出される。特に、この時期は。

 テレビからは、沈みゆく国を愛せますか? というドキュメンタリー番組が流れていた。

 たまにはドラマとか、音楽番組を見たいと思ったりもするけどN◯Kしかつけるのを許してくれない。だから必然的にニュースばかり観る習慣がついてしまった。

 いくらでも基本無料でできる今時、ゲームも禁止。

 だから私のスマホには必要最低限の連絡用と、緊急避難アラートくらいしかアプリが入っていない。

「えー、秋津さんの家庭、厳しすぎない!?」

と、さして話を普段しているわけではない同級生からはお決まりのように言われるけれど……断ち切ってしまえば案外どうとでもなる。

 たとえば息抜きにオンライン百科事典を眺めたりしてるだけでも、私にとっては刺激に満ちた時間になるのだ。一次ソースとしての資料としては信用できないとよく書かれてるみたいだけど、読み物としては面白いし。

 テレビからは深刻そうな面持ちで、なにやら見通しの立たない社会問題やらを語る声。絶望的にも見えるような未来が呈示される。

 でも――それを見ても、私は沈みゆく国を愛せると答える。

 

 口の中に入った小骨を取りながら考えた。

 ただ沈んでいくのを見ているだけでは単なる思考放棄なんじゃないか、と。

 私たちの住む世界は、地面に大穴が空くように、絶望さえも許されないほど唐突に崩れ去ってしまうんじゃないか――と。

 そんなことになる前に、私は、できるだけあがいて、考えて。

 絶望が影を落とす暗い未来を少しでも明るくしていきたい。

 そんなふうに、ひとり静かに決意するのだった。

 いつの間にやらその番組は終わり、明日からの天気が告げられる。

「台風が接近しています。正午まで曇り。夕方からは雨に警戒して下さい」

6/15

 私は父から送迎されるので毎日クラスでも一番乗りだった。

 誰もいない教室はとても広く感じられた。

 この誰もいない時間を独り占めできる時間が、私は好きだった。

 でもそんな時間は長く続かない。

 クラスメイトのみんなが次々と教室に入ってくる。

 やがて、彼も登校してくる。

 真面目そうなのに朝は苦手なのか、春日野君は遅刻ギリギリなのが常だった。

「チカちゃん、おはよう」

 それでも、こんなふうに。

 毎日のように声をかけてくれていた春日野君が、今日は目を合わせてくれなかった。まるで私と関わるのを避けているかのよう。あの陽気な春日野君らしくもない。いったいどうしたというんだろうか――とあれこれと私なりに頭を捻っているうちに、ある推測に達した。

 ひょっとして昨日のアレが誤解されたままなのだろうか。

 

 人を待っているというのは父のことで、彼が誤解しているようなことは何一つないんだけど……

 寂しかった。

 彼には感謝してもしきれないのに。

 最近は彼から声をかけられることが当たり前のことだと思ってしまっていたのかもしれない。

 と、いうか。そもそも。

 待ち人を勘違いされて寂しいだなんて、私が感じることからしておかしい。

 それじゃまるで……まるで……

 でも、いやだ。

 たとえこの思いが自意識過剰だとしても、すれ違ったままじゃ、いやだった。

 一歩、また一歩。決意を踏み鳴らし、立ち止まる。彼の座る左側へと。

「お、おはよう……春日野君」

 慣れないことをしている。うまく話せているだろうか。

 でも、ここで選択を間違えたらなんだか一生後悔するような、そんな直感が私を突き動かしたんだ。

 鳩が豆鉄砲を食ったよう、というのはこういう顔を言うのだろうか。

 驚いた顔をして私を見たけれど、すぐに視線を落とされてしまう。

「おはよう……何か用?」

 それまでの人懐っこい物腰は影を潜めていた。

 他人行儀な抑揚。合わさぬ目線。

 これだけでわからないほど私は空気が読めないわけではない。

 

 これは、私に対する、明確な拒否だった。

 ほらみろ。期待なんかしなきゃよかったのに。

 ずっと独りでいれば、こんな思いもしなくてすんだのに。

「ううん……ごめん、なんでもない」

 目から何かがこみ上げてくる感覚。

 うそ、泣きそうになってる!? 

 私は彼のなんでもないのに、ここでそんなこと……ただのめんどくさい女じゃないか。

 一秒たりともこの気まずい場にいたくはなかった。逃げるように教室を出る。

 授業は始まろうとしているのに、何やってるんだろう、私――

 十五歳、学校生活九年。はじめて私は学校をサボって帰宅したのだった。

 父は私を送迎したその車で仕事に行っているので、家には誰もいない。

 学校では誰ともつかない話し声でやかましいと思うこともしばしばだったけど、朝、誰の言葉も響かない時間がこんなに物足りなく感じるだなんて、思いもしなかった。私はなんだかんだで、学校という空間に居心地のよさを感じていたのかもしれない。

 それに、学校に行けば春日野君が……

 いや、よそう。今は考えたくない。

 無造作にカバンを部屋の端に放り投げ、制服も脱がず、ベッドにくるまる。

 眠くなんかなかったけど、何もかもを覆い隠してほしくて。

 そうしてずっと陰の中に身を任せていたい、そんな気分だった。

「なんで……? なんでこんなに……」

 彼の前ではこらえていた熱いものが伝った感触、次いで湿ったシーツの感触。

 なんで、なんでこんなに、悲しくて、さみしいんだろう。

 よそう。やっぱり、考えたくない。

 孤独にうちひしがれそうな時はとにかく寝るの一手。無理矢理にでも私は、眠ることにしたのだった。

 

 どのくらい眠っていたのだろうか。

 ドンドン、ドンドン――という、窓を叩くような音で、私は目を覚ました。

 でもここは2階。

 それがけして来訪者を告げるようなものではないことは、すぐにわかった。

 ゆうべニュースで流れていた天気予報を思い出したのだ。

「ああ……今日は大雨って言ってたっけ……」

 寝起きでイマイチ頭も回らない中、まったくなんの気もなしに、リビングのテレビをつけた。

「――では、最大で一時間に150ミリの、記録的な大雨が観測されています。現在自治体から避難指示が出ている地域は次の通りです……」

 ちょっと待って、今――

 信じられなくて、私はテレビの画面を何度も目で追った。

 映し出されているのは、見覚えのあった景色。

 その、成れの果てだった。

 川が氾濫し、市の一面を赤茶けた水が覆う。車が、木が、家が。ありとあらゆるものが押し流されていた。

 そんなショッキングな映像とともに右上に付け加えられている、高見市の文字。

 本当にこの映像が、私の住んでいる町なの――? 

 いまだ受け入れきれていないけど、見間違いなんかじゃないことだけは確かなようだった。

 なんだってそんな急に!? 

 避難指示なんて――はっ。お父さんは、お父さんは大丈夫なの!?

 カバンをまさぐってスマホを探すも、そんな簡単なことでさえまごついた。自分で感じている以上に動揺しているのかもしれない。

 ――あった! さっそく見ると、緊急避難アラートが作動していた跡。

 そんな……カバンの中に入れたまま寝ちゃったから、気づけなかった……!? 

 何やってるんだ私……こんな日に限って……!

 いや、今は後悔なんてしてられない。

 それよりも、お父さんとの連絡を――と思ったが、機械の表示は無慈悲だった。

「圏外――!?」

 そんな、機械自体はちゃんと動くのに。ここら周辺のアンテナがやられた!? 

 これじゃただの平べったい時計じゃないか……!

 窓を開けると横殴りの雨と、突風が襲いかかる。

 降雨の勢いが強すぎて前がほとんど見えない。

 ピシャッ――と、あわててもう一度閉める。

 もしかして……私は……取り残された……!?

 ここにきて、私は改めて事態の深刻さを悟った。

『沈みゆく国を愛せますか?』

 昨日の番組が頭をよぎる。

 父の言っていた通りの事態が……こんなタイミングで襲い掛かってくるなんて、予想もしていなかった。

 いつか訪れるかもしれない未来のことなんかじゃなくて、今日明日にも襲いかかるかもしれない脅威だったなんて……そんな、思いもよらないじゃない。

「『いちえさま』の報いだ……」

 不謹慎だとわかってる。だけど……どうしても、私にはそう思えてならなかった。

 そしてそんな言葉をつぶやいたが矢先、突然音声がブツリと途絶えた。

「ひっ! なっ、なに!?」

 縁起でもない想像が脳裏をよぎった直後だっただけに思わず総毛立つ。

 心臓がバクバクする。それまで深刻な水位上昇を伝えていたテレビもうんともすんとも言わなくなってしまった。

 

 カチカチカチカチ……電気のスイッチをいくら触っても、明るくならなかった。

 電気も通らなく……いよいよ、これはマズい。

 案の定、固定電話もやられてる。

 外部に連絡を取る手段もない。

 助けを呼ぼうにもただ待っているしかできないの……!? 

 そんなの、そんなの不安すぎる。

 

 ここにいてはいけない――!

「――少し、怖い。けど!」

 大雨の中避難した方がいい。そうだ、避難してる人だっていっぱいいるはず。

 とにかく学校なり役所なり、そういうような施設にいたほうが安全……そうだ、そうに違いない。

 何度も頷いて自分を無理やりにでも奮い立たせ、一目散に玄関を出る。 

 ――が、家の扉を開けたと同時に飛び込んできたのは、坂下が完全に沈没した無残な光景だったのだ。

 

 私の家の四方は濁流に呑まれてしまっていた。

 テレビの流していた映像は本当だった。

 幻でも、何でもなかった。

 

 これが……現実なの……!?

 膝が笑い、腰が砕けそうになるのを必死で踏みとどまる。

 いけない。このまま開けていたら冠水してしまう――! あわてて扉を閉める。

「……家から出るのも無理、か……」

 このまま雨が止んでくれるか、救助が来るまで、なんとかやり過ごすしかないのか。

 この家のなるべく高いところ……屋根……無理無理無理! 

 運動が苦手な私は間違いなく滑って転げ落ちてしまうだろうからかえって危険。結局はすごすごと2階の自分の部屋へと戻るしかなかった。

 窓を叩きつける雨の音が止む気配は、まったくなかった。

 どれだけの時間が経ったのだろう。眠ることさえもできず、部屋の片隅でうずくまっているこの時間が、怖くて。心細い。

 独りでいることは慣れている、と思っていたけれど。やっぱりそれは強がりだった。どこからまだこんなに出てくるんだろうというくらい、涙が止まらない。

「もうやだ……いつまでこんな時間が続くの……?」

 ひょっとしたらもう誰も助けになんか来ないんじゃないか? 誰も私のことなんて覚えていないんじゃないか? いやな想像ばかり浮かんでくる。

 いやだ、いやだいやだ。こんなところで死にたくない。

 助けて……お父さん……春日野くん……

 こんな時にまで春日野くんが出てくるなんて……なんて未練がましいんだ私……

 でも、最悪助からなかったとして、あんなふうに誤解されたままお別れだなんて、私いやだよ……

 もう一度、逢ってきちんとお話したいよ。

 ドンドン――という窓を叩きつける音は、まだ止まる気配もない。

 こんな大雨で、救助もまだ期待できそうにないのに。

 それでも、逢いたい。逢いたいよ……春日野くん……

 いや、でも……なんか窓の向こうから人の声らしきものも聞こえるような……

 幻聴が聞こえるほど、参ってしまったんだろうか。

 ――ちゃん、チカちゃん、と呼ぶ声と共に、窓を叩く音もさらに激しくなる。

 違う、これは雨の音なんかじゃ……まさか、本当に!? 

 三文小説じゃあるまいし。

 そんな都合の良い展開なんて……

 でも、これが本当に三文小説だとすれば――すがるような思いで窓を開けるとそこには――

「春日野……くん……!?」

「……よかった。無事だった……! 助けに、来たよ」

 うそ、本当に――!? 

 ここは2階、しかも足場も悪くて登れたものではなさそうなのに……げ、幻覚、じゃないんだよね……!?

「な、なんで……!?」

 心の底から嬉しいのに信じられない。

 そんな私に、何が起きているのかを、彼が教えてくれた。

「君が教えてくれたんだよ――『いちえさま』の昔話さ」

「え……!?」

 そう、それは私が昨日クラスメイトの前で発表したこの地方に残る昔話。

 それが――どうして?

 当の私がきょとんとしていると、彼が手を差し伸べる。

「来て。そうすれば、すぐにわかるよ」

「で、でも……! このまま窓から落下したら――」

 こわい。今私が見ている彼は本物の春日野くんなんだろうか。

 こんな大雨の中2階の窓から現れるなんて、やっぱりこんな不自然な登場の仕方はありえなくて。

 幻を追っていたら窓の外から転落してそのまま……イヤな想像ばかりがかきたてられる。でも不思議だ。彼の笑顔は、私の不安を、いつも吹き飛ばしてくれる。

「――安心して。絶対、離したりしない」

 ――ああ、そうか。考えるまでもなかった。

 私は彼のことを、信じるだけでよかったんだよね。

 伝わる彼のぬくもり。

 触れた手が本物なのだと知って、心の底から安心したのだった。

 彼に支えられて窓をくぐり見えたのは変わり果てた高見の景色と――私の部屋の前まで伸びた、絨毯のように平らな足場だった。

 まるで広大な橋のよう。

 こんなところに、春日野くんと二人で立っているなんて、夢でも見ているかのようだった。

 絨毯のよう、といっても映画祭や宮殿のようなきらびやかなレッドカーペットではなく一面真っ黒で。

 

 そう、まるで影のような――とまで思い至ったところで、ひとつの結論に達した。 そうか、これが……

「そう。これが昨日、君が語ってくれた『いちえさま』――出逢いと出逢いを結ぶひとつの巨大な影『一影』の伝承……みたいだね」

「そう……これが……」

 私は『いちえさま』の伝承のことを呪いだと思っていた。だけど、違っていた。

 誰かの影と影がつなぎ合わさって大きくなる。

 その黒い闇は、誰かとの優しい絆だったんだなって。

 

 空に架かる黒い橋の上で手を引かれながら、そんなことを考えていたのだった。

「春日野くん……! 雨が――!」

 気付けば雨もあがり、穏やかな陽の光とともに空には虹も架かっていた。

 私に向けて言ったのか、それとも独り言だったのか。

「雨もあがれば虹がかかる、か……」

 そう、彼が小さくつぶやいた。

 ありふれた形容。でも、そうとしか言い表すことのできないような、唯一無二で、素敵な表現のように感じられたのだった。

6/16

 一時間に150ミリもの大雨によってもたらされた建物などの被害は甚大だった。
 
 でも多くの人が適切に避難していたことで奇跡的に死者は一人も出なかったのは不幸中の幸いといえると思う。

 それには私の父が率先して避難誘導していたのが大きかったのだという。

 日頃から大水害を警告していた父の活動も無駄じゃなかった。
 多くの人が慌てることなく父に従ったのだという。
 
 その一人娘が避難に遅れたというのはなんとも恥ずかしい話だけどね……

 さてそんな私は、昨日とはうって変わって病院のベッドの中にいる。
 体調はそんなに悪くはないんだけど、念のためと父がきかなかったからだ。
 心配症だなあと軽く呆れつつも、大切にされていることはわかるから、ありがたく寝かせてもらうことにしたのだ。

 こんな大災害のあとだ、地質学者として仕事に追われる父。
 でも、さみしくはなかった。
 
 今も私の側には、春日野くんがいるから。
 
 彼もまた心配症だ。
 大した事ないから、と復旧したばかりのSNSで返信したんだけどきかずに、こうして学校終わりに見舞いにきてくれたのだ。上体を起こして彼を出迎える。

「やあ……思ったより、元気、そうだね」
「うん。元気だよ、私は」

 でも、どうしてだろう。会話が続かずもどかしい時間が流れる。
 
 話したいことはいっぱいあるはずなのに。
 ありがとうって、まだ言えてない。だから伝えたいはずなのに。
 口に出すのがなんとなく恥ずかしくて、ダメだ。
 なんだその素っ気ない返事は。ああコミュ障の自分を呪ってやりたい。

 それでも。何か、言葉を発しなければ。そうだ。それなら、お礼。

「……ありがとう、ね。こんな私でも、助けてくれて」 

 これだけは、伝えなければいけないと、さすがの私でも思ったから。
 でも、その瞬間から、彼から穏やかな笑みが消え去る。

「――っ!? ……痛いっ!」

 彼は私の腕を激しく掴んできた。私を助けてくれた時だって、こんな乱暴なことはなかったのに。

「……こんな!? そんな言い方!」

 彼は、なぜか怒っていた。なんで彼が怒っているのか、わからなかった。
 なんで? 彼はさらに声を荒げ、覆いかぶさるようにして、私の身体をきつく抱きしめる。

「――か、春日野くん……!?」

 こんなにも彼は強く迫れるものなのかという驚きが先に、次いでこの状況を俯瞰した時見えるありさまが目に浮かび恥ずかしくなる。
 
 彼の真剣な眼差しに、目をそらすことができない。
 彼が私を引き寄せる力と、向けられる言葉が、いっそう強くなる。

「どんな君だろうと、チカちゃん、君だから僕は――! 君を助けたいから僕はあの影の道を踏み出せたんだ。もうこれ以上君自身を否定するような、そんな悲しい真似、しなくていいんだよ……!」

「春日野くん……」
「君が君自身を否定しなくてもいいように、僕が、僕が……ずっと、君の道を照らしていくから……!」
「……うん、ありがとう。春日野くんは、私の、太陽だね」

 あの影はあの日、私たちが渡りきったあとすぐに消えてしまった。

 でも――ああ、そうか。
 
 あのひとつの影は、今もこうして私に覆いかぶさっている。
 これは私にとって、世界でいちばんやさしい影。
 陽の光と共に立ち現れる、消えない絆なんだね――
 私は、彼の背中に腕を回した。

あとがき

 これは本来『ファミ通文庫×カクヨム「僕とキミの15センチ」短編小説コンテスト』に応募する予定でしたが、2017年当時の執筆中に北九州で集中豪雨が発生し甚大な被害が発生したことを承け、天災を主題にした内容でコンテストを競うのはいかがなものかとさまざまに思い悩んだ結果応募を見合わせたものとなります。

 コンテストの趣旨的には「近づけそうで近づけない、そんなもどかしさがともなうような距離感」を盛り込んでほしいというものだったと思うんですが、当時の私は「15センチということは150ミリでもあるし、こうした発想はほかの方からも出ないだろう」
──と、作品の出来うんぬん以前に、コンテストの趣旨からはだいぶズレてしまったものを出そうとしてしまったな……と今なら思えます。結果としてはコンテストに出さなくてよかったのでしょうね。

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