記憶は消える、感情も無くなる。けれど記録だって完全じゃない。僕らは一体何をすれば良いのだろうか?

記念写真じゃ足りない。不可逆の感情は書き残しておかないといけない。

そう思っていましたが、どうやら「記録」という行為すら不完全なのかもしれません。すべての文筆家に、あるいはすべての音楽家に。すべての「アーカイブ」にかかわる人に届けたい雑文です。

この文章が、いつかなくなってしまう前に。

***

文字で過去を閉じ込めたつもりっだった

今年の春に大学を卒業した。所属していたサークル内で回していた簡単なブログがあったのだが、ふとした折に僕の当時書いた記事が消えていることに気付いた。

よく調べるとそれは単なる僕の思い違いで、テキストはしっかりと残っていた。それでも僕は慌てた。あの頃の僕が消えてしまったと思ったからだ。目を通してみると、ライターとして物を書く今とは違って「読者」なんてものを一切想定していない散らかった文章だった。けれども、その時の僕の感じていたことが等身大で冷凍保存されていた。

それは引退を契機に書き綴った辛気臭いもので、大学のサークルなんて小さな組織が、映画作りの真似事なんてくだらないことが、この世の全てだと思っていた頃の幼い僕が精一杯に吐き出した感情だった。

記事が消えていたのは僕の思い過ごしだ。別に誰かが故意に消したって構いやしない。僕らが僕らの好きなようにやってきたのと同様に、彼らが彼らの好きなようにやったって誰も文句は言うまい。今は僕の庭ではないし、今は彼らの庭だ。あまり丁寧に書くと嫌味ったらしいが、他意はない。

問題は別にある。

それは「文章は消える」ということ



「記録」だって万能じゃない

こんな誰の目にも明らかな性質を見落としていた。てっきり僕は記録とは万能のものだと思っていた。感情は一過性のもので不可逆だ。記憶だって信用できない。けれども記録だけは、文章だけは、正確で頼りになるものだとばっかり思いこんでしまっていた。その時と同じ感覚を得ることは出来ない。けれど、あの時にこう感じていたなあと二次的な物語として残しておくことくらいは出来る。そう思っていたが、それは僕の欺瞞だ。

何もかもが消える。人は変わる。記憶は薄れ、どんな物も同じ時間にとどまってはくれない。記憶は保存できない。感情は指の間をすり抜けていく。それを承知で、だからこそ僕はあらゆるものを保存するように努めてきた。けれど少しズレていたみたいだ。

せめてものためにと用意された記憶メディアだっていつ消えてしまうかわからない。

文章も画像も決して万能ではない。考えてみれば当然のことだ。mp4が50年後に骨董品扱いされないとも限らないし、rawデータだって壊れてしまうかもしれない。見てみなよ、再生されなくなったVHSのテープを。カセットを失い埃を被ったMDプレイヤーをさ。


全ては白紙に戻る

同じような例を上挙げよう。何度も恐縮だがこれも僕の居た大学の話だ。

ついこの間、部室の壁が白くなってしまったと耳にした。まだ大学に通う後輩が教えてくれた。

壁は白いものだ。当然である。けれど僕たちにとってそうではない。かつて彼らはそこに何から何まで油性マジックで書き綴った。「腹が減った」「煙草が無い」そんな他愛もないことを思いつくままに彼らは書き殴った。そんなモラルハザードが始まったのはきっと10年くらい前だろうか。もっと浅いかもしれない。

そして、いつしかその壁は卒業の際に後輩へ残す最後のメッセージのための台紙となった。10年ほど前まではモラルの低下の象徴だったフリースペースはいつの間にか一生に一度しか立てないバッターボックスになった。なんてことない。よくある話だ。

でもそれが無くなった。



僕が読み続けていたメッセージと、ずっと書こうと決めていたあのフレーズはもう無い。

それは構わない。理由は何だっていい。別に今に無くならなくたって、必ずいつかは無くなる。油性インクだっていつかは消えてしまうし、壁だっていつかは朽ち果てる。未来永劫に残り続けるものが仮にもあるとすれば「壁に落書きをしてはいけない」という至極真っ当な正論くらいだろう。

問題は別にある。さっきと同じだ。文章は消える。記録は万能ではない。僕はこの事実に愕然とした。今までやってきた事は、あのくだらない短編映画も、あのどうしようもない文章も、そしてこれからライターとして残す文章も、いつかは消えてしまうのだ。「検索流入を狙って長く息のある記事にしましょう」なんて幾ら生意気を言おうが無駄だ。いつかは無くなる。


せっかくなので僕がその時、壁に残したメッセージをここに移植しよう。

but, no tapes waits for no one. 

超有名映画のワンフレーズに沿って書かれた気取った英文。映画制作のサークルの壁にこれを残すとは、いかにも僕らしい気に障るセンスだ。僕は自分以外にこんな奴を愛せないね。


「(時間は誰も待ってくれない)けれど、君の残した作品とそこに閉じ込めた君の過去は、いつかきっと再び誰かに見てもらう日を待っているよ」

——隠れた文脈まで書き起こして邦訳すならこんな具合だろうか。

数か月前までは本気でそんなことを考えていた。けれどそうじゃなかった。たった7語の英文。32バイト程度の情報ですらもうそこには存在しない。記憶はもちろんのこと、記録だって万能ではないのだ。よく出来た笑い話だ。


「残す」ってきっと自動詞だ

もしかすると「残す」という動作動詞に目的語は不要なのかもしれない。とにかくその行為自体に意味がある。いや、無いと困る。そうでなきゃ全部無駄じゃないか。

「消えるとわかっている」という文章を僕はここに残している。この矛盾はいつか誰かが解消してくれるのだろうか。わからない。それでも僕は自分の思ったことを、自分そのものをアーカイブし続けるしかない。わからないからこそ、そうする必要があるのかもしれない。


それは街並みだって同じだ。あの頃の僕のための風景は、もう僕のものではない。静かが取り柄の住宅街でさえ、目を離せば驚くような速さで装いを変えてしまう。そんなことは知っている。実家の京都の壬生の街並みが数年前に教えてくれたじゃないか。けれども、そんなことを僕はすっかり忘れてしまっていた。僕は甲東園の町を写真に撮りに出かけた。いつかは消える写真の中に、いつかは消える街並みを閉じ込めようとした。

君の想像する通り、今まで挿し込んだ写真のほとんどがその時のものだ。どうにもならない夜に一人で歩いて浴びるオレンジ色の過剰な街灯の寂しさを覚えておきたかった。

当たり前だが、まったく同じあの頃はもう無かった。あの砂利道のアパートの202号室にも、その新幹線の高架の傍のアパートの202号室にも既に別の人が入っていた。きっとあの小林の202号室だって同じにきまってる。あのデザイナーズの202号室だってきっとそうだ。時間は留まってくれない。ましてや、気まぐれに郷愁を求めた時にだけ巻き戻ってなどくれないのだ。誰もが202号室に住んでいたという、さしてそれほどでもない偶然も今やもう過去のものだ。

そうとは知りながら、僕はシャッターを押した。他人の表札のかかった玄関を、僕は写真に撮った。そうせずにはいられなかった。きっとこの先も無駄な抵抗は続く。


***

「記憶は消える、感情も無くなる。けれど記録だって完全じゃない。僕らは一体何をすれば良いのだろうか?」これがこの記事のタイトルでした。せっかくここまで付き合ってくれている貴方のためにひとつくらい答えを用意しないといけません。

残念ながら「それでも記録する以外に何も出来ない」だと思います。頼りないアンサーで大変恐縮です。「ものをつくりたい」という欲望や「何かを伝えなければ」という使命感は、僕らの高慢に満ちた病理の一種なのかもしれません。死ぬまで続くかもしれない。けれどこの症状が治まったら、貴方の中の何かが死んでしまうんじゃないかな?


踊りましょうよ、どうせ死ぬならさ。

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