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個性くらべの無意味さ @リストラーズ

リストラーズを見ていると ひとり一人が その立ち位置と役割を把握されたうえで それぞれの個性を活かしていらっしゃると感じる。

合唱の何たるかを語るほどの知識も経験もない筆者だが、楽しむだけでなく その中には学びも多くあると思っている。
 
合唱団出身とのことだが、合唱のパートの役割はハッキリ分かれ 各パートが出過ぎても 出なさ過ぎてもバランスを崩してしまう。
強すぎても 弱すぎても ハーモニーが成り立たないというのは、世の中や
他者との折り合いの付け方と似ている。
 
ある役割を果たしたうえで、自分の個性を発揮するなら 聴く人にも 見る人にも違和感なく反発もなく むしろ感動をもって受け入れられる。
 
 
最近よく 言論の自由だ、多様性だと声高に叫ばれる。
だが 実際  頭でっかちな言葉だけに聞こえてしまい 気持ちがついていかないのが正直なところだ。

むしろ日頃の社会での活動や 暮らしの中で実感をもって体験したことのほうが役に立ち、身を助けることになるのではないか。
 
筆者の体験で恐縮だが アタマのなかで結びついたことがあるので綴っておきたい。
 
以前のことだが、あるチームをまとめる機会があった。
経験も少なく 気負いだけがあった当時、チームからの反発を受けて手詰まりを起こしてしまった。
今 考えれば 当たり前のことで、ひとり一人の要望や困りごとよりも 結果と成果を最優先にしたことが敗因だ。
 
投げ出すわけにもいかない。
なんとか気持ちを整理したく 一人で静かな湖を見に行った。
湖面は 凪いでいて かすかに揺れる程度。
気温は低めだったが、考え事をするにはちょうど良いように思った。
 
最初は、心の中に
「どうして分かってくれないのか」
「結果を引き出すには多少の無理は必要なのに」
「こっちだって初めてなのだから」と 文句と不満が溢れてしまい、湖面に
石でも投げ入れたいような気持ちが募る。
 
周りには 誰もいない。
静かな時間なのに 自分の中だけが騒がしい。
小一時間ほど 焦りと悔しさの中に いたかもしれない。
 
やがて さざ波とも言えない揺れる湖面の様子が見えた。
さらに あまり使われていないらしい 小さな桟橋があるのに気付いた。
 
湖と桟橋。
桟橋は 陸地につながれながらも 湖に一生懸命 手を伸ばしているように見える。

桟橋自身も 湖の奥に行きたいんだと 自分から手を伸ばしているように見えた。
もし桟橋が陸地を離れて漂えば桟橋の役割は果たせない。その役割は 人を
迎え 人を送り出すことだから 桟橋はそこになければ役割を果たせない。
 
が、桟橋は自分から手を伸ばしていた。せいいっぱい手を伸ばしていた。
 
ああ、そうか。
役割がちがうのに 湖の一滴になってくれと無理を言ったのは私だった。
 
と まだ心底分かってもいないのに 分かったような気がした。

人はそれぞれ役割が違う。
遠くに見える低い山波も すぐ足元にある水草のそよぎも どれが欠けても
この静かで豊かな景色を創りだすハーモニーは成り立たない。
 
だが ハーモニーを壊して 全てを湖面に変えようとしたのは私だった。
申し訳なさと情けなさで いっぱいになった。
誰もいないことに甘えて 少し泣いていた。
 
教えてくれた湖と桟橋を 何度も振り返り 心に刻んで帰った。

 
その後、チームの成果はどうでもよくなったと言えば叱られるのかもしれないが、不思議と周りが意見を出してくれるようになり 心を開いてくれたように感じた。

成果は あとからついてくる。それを学んだ経験だった。
 

リストラーズのメンバーは 平日は本業や家庭維持、たまの休日には練習や
他の趣味や音楽活動。

きっと多忙を極めていらっしゃるはずだが その中でもやっていけるのは
経験を 智慧に変えていらっしゃるからかもしれない。

誰しも最初から智慧を備えて生まれてきたはずはない。
どこかの時点で さまざまな経験を踏んで、苦しい思いもしながら身に着けていくのだ。
 
プロであろうとなかろうと 経験の積み重ねは大きい。
その厚みが熟成され 20年前の若い歌声より、さらに味わいのある 深い
ハーモニーを創り出し、多くのひとを魅了するようになっていったのだろう。
 
そういうリストラーズの積み重ねを これからも聴きたい。
 長く久しく続けていただいて、あの歌声を響かせてほしいと願っている。


<   どのメンバーが欠けても リストラーズじゃないんだよね >
        ※ 画像は 琵琶湖。加藤さん ありがとうございました。 

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