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黒衣(くろご)の存在論的意味

 私の娘(当時5歳)が人形劇を見た後、帰宅して教えてくれたことがある。

娘「人形のお芝居見たよ。おもしろかった。でも、黒い人が動かしてるのがばれてた」
私「黒い服の人は、いないふりをしてるんだよ」
娘「でも、顔が見えてた」
私「じゃあ、顔が見えてなかったら、いないふりにしてあげる?」
娘「うん」

 この会話で、「黒衣(くろご)」の記号性について、しばし考えることになった。歌舞伎などで「黒衣」が いない/見えない ことになっていることについて、これまで専ら「黒い衣装を着ている」という事実が、「いない」あるいは「見えない」ことを示す記号であるとされ、わたし自身もそう考えていたが、実は記号の主体は黒い色ではなく、顔が見えないことにあるのではないか、と思い至ったのだ。

 そういえば、時代劇の「お忍び」のお偉いさんは、金ぴかの着物を着ていても、顔を隠す(これまた金ぴかの)頭巾をかぶっていさえすれば、どう見たってわが殿が目の前にいても、庶民は「お忍びだ」といって、気付かないふりをするし、頬かむりをしている泥棒は、どう見ても「さっきの人」なのだが、風呂敷を鼻の下で結んで顔の一部を隠しただけで、被害者はそれが誰だかわからないことになっている(まれに、「あんた、○○じゃないのかい?」と気づきそうになる人も現れるが)。

 つまり、「いないこと」を示す記号の本質は、黒い色にあるのではなく、顔を隠していることにあるのではないか、という仮説がそれなりの確からしさを伴って、立ち現れたのである。

 この仮説を支持する事実として、歌舞伎においては、黒がみえないものを示す記号であるという原則があるものの、雪景色や海の場面では黒い衣が却って目立つことを避けるために、それぞれ目立たない色の雪衣(白)、水衣(水色)に変わることがあげられる。

 しかしながら、この仮説は直ちに打ち砕かれた。歌舞伎の世界では、その場にいても見えないというお約束の「後見」のうち、黒い衣装で顔を隠している者を「黒衣」と呼ぶことになっているが、黒衣でない後見もまた、その場にいないことになっているというお約束があるからだ。

 結局、黒くても白くても、顔が見えていてもいなくても、その場にいないお約束の記号をまとった人は、「いない」ことになるのである。

 かくして、わが娘の言葉に端を発した考察は、特段の成果もないままに、あっけなく終わったのである。

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