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未来のことを考えることができない

最近、あふれんばかりに言葉が出てくる。少し前までは、何も発したくないときもあったなか、悶々とした湿度の高い空気を溜め込むことに耐えかねたのか、バケツをひっくり返したように言葉が降り注ぎ、あふれだしたら止まらず洪水状態になる。歩いているとき、本を読んでいるとき、電車に揺られているとき。頭の中に浮かぶ言葉が文となり、そういうとき、自分を知りたいがためにできる限りメモに残している。

断片的なメモを繋ぎ、整理したくなったらnoteを開く。これは、未来のために、今を記録する行為___

未来のために?

「これからどうしたい?」「どうなりたい?」は未来に関する質問である(と思う)。この問いに、いつもしっくりした答えを用意できない。未来のこと、たとえ30分後のことであっても本当の意味では分からないと思っている。だからだろうか、未来のことを考えることに前向きになれない自分がいる。

でも、この質問はなくならない(と思う)。その質問をする人が苦手なわけではない、ただ、私が上手く答えられない。そういうとき、最近のベストアンサーはとても抽象的である。

「今大事にしていることを、大事にし続けたいです。未来も大事だけど、未来を見据えて今を消費することはしたくないです。」

そう答えるたびに、「なんかこう具体的じゃなくてすみません(笑)」とごまかす。でも心のどこかで、具体的に未来を描くことを恐れているのかなとも思う。その未来が実現しないことに、耐えられないのではないかと。

今のためだけの今を常に生きているわけではないけれど、大体のことはその時々で決めてきたような気がする。それは、目的(目標)にまっすぐなことよりも、心に正直であるほうが、自分にとっては心地いいからだと思う。

これからもたぶん、未来のことは聞かれ続ける。旗を立てないといけないときもあると思う。でも、回り道か近道かなんて、目的地をつくるから名前がつくのである。周りに迷惑をかけない範囲で、そのときに選びたい道を選び、道を道として楽しむことに集中したいのです。

だから、このnoteも振り返るための(未来のための)記録というよりは、ただ記録したくて残した旅行記のようなものに近い気がする。結果的に未来で迎える今に役立つかもしれないし、もう見返すこともないかもしれない。

そんな自分に「今日子」と名付けた両親からは、本当にすてきな名前をもらったなあと思う。

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