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怠け者は哲学者のはじまり?

「哲学者」というものを、学問として哲学を専攻する人、と定義するならば、私はもちろん「哲学者」ではない。
しかし、いろいろな物事の"そもそも"を深く考える癖のある人、つまり「哲学する」癖のある人と定義するならば、私は市井の哲学者の端くれに含まれるのではないだろうか。

子どもの頃から私は怠け者だった。
勉強しろと言われると、まず「なぜ勉強しなければならないのか」と思っていた。
習い事を勧められると「習い事に通うといったい何が嬉しいのか」と思っていた。
宿題を出されると「この宿題をやることにどんな意味があるのか」と思っていた。
理不尽なまま何かをやらされることが嫌だった。理不尽でなくてもいろいろなことを面倒臭がった。
面倒臭がるゆえにやることなすことの理由を問い、やったりやらなかったりした結果、テレビとゲームに溺れる怠惰な子ども時代を過ごした上に近視にもなってしまった。
しかし幸いなことに「なぜ」と「そもそも」を考える癖は身に付いた。

社会には、理不尽が蔓延っている。
長期傾向では理不尽は減りつつあるのだろうが、しかしまだまだ蔓延っている。
大人と子どもの間など、大きく差のある力関係の中には特に、理不尽が蔓延っている。

なぜ制服を買わされるのか。家庭の経済状況によらず、義務教育であってさえも。
なぜ体育座りをさせられるのか。体型などによっては健康を害するとの指摘もあるのに。
なぜ新卒採用の就職活動では飾り気のない服装を求められるのか。私は就活スーツを買わなかったが。
なぜ若い内の長時間勤務は美徳とされるのか。その人が価値を発揮する場は、会社だけとは限らないだろうに。
なぜ罪に対して罰ばかりが叫ばれるのか。そもそも罪が起こらない環境づくりを考えた方が建設的だろうに。
なぜ夫婦は同姓でなければならないのか。なぜ経済対策として企業の保護が行われるのか。なぜ紙に印鑑なのか。なぜ自己責任なのか。

大学で分子生物学の研究をしていた頃にも、いろいろと考えていた。
富を生まない研究の価値は何か。分子生物学とは何か。そもそも研究とは何か。大学とは。学位とは。学問とは。生命とは。
サイエンスコミュニケーションを学んだことは、考えを深める上で大いに役立った。

そしていま、一人で考えるのに飽き足らず、カバー写真の哲学カフェ「ソクラテス・サンバ・カフェ」にときどき参加している。
また、1年ほど前からは「なぜ」や「そもそも」を考えるイベントを開催している。

てなんだサロン
研究者を招き、学術的な視点もふまえた上で「~ってなんだ」を考える対話の場だ。
確かな「知」に基づいて考え、対話する機会を、生活の中に増やしたいと思っている。

よくよく考えた結果、一見無価値に思えるものの価値に気づいたり、逆に大切にされているものの無価値に気づいたり、表面的にはわからない意味に気づいたりする。
考える前に動く方が良い場面ももちろんある。しかし、考えて理を尽くすことで、動き方をより良く変えられる場面はたくさんある。
考える機会、そしてその考えを人と交わす機会を増やすことで、より理不尽が少なく、より価値ある物事に力を注げる、より建設的な社会に変えていけるものだと考えている。

■ 杉山啓の活動情報はこちら


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