『ダニーと紺碧の海』は恋愛劇ではなくて──

昔とも最近とも言える30年前。ほとんどの日本人が身近には感じられない、アメリカ・ブロンクスの治安の悪い地区。その片隅で交わされる、若くも年でもない、ダニーという男とロバータという女の会話劇。
『ダニーと紺碧の海』は、戯曲の概要だけ取り出すとなかなかに中途半端で、少なくとも今の私には、惹かれるポイントのほとんどない作品だった。
ところが、藤田俊太郎が演出、松岡昌宏と土井ケイトが出演した舞台は、思いもよらない静かな興奮を与えてくれた。

パンフレットによると、作者のジョン・パトリック・シャンリィは、詩人としてキャリアをスタートさせたのち、戯曲を書くようになった。大きな注目を集めたのは、映画『月の輝く夜に』でアカデミー脚本賞を受賞した時で、当時、37歳。『ダニーと紺碧の海』を書いたのはそのわずか4年前なのに「非常に大きな絶望と孤独の時期に、心の底から書いた」というから、人生の夜明け前、最も暗い時期の心情を託したのが『ダニー〜』だったのだろうか。
なるほど、ダニーもロバータも長いこと袋小路でもがき続けた人物で、すっかり疲れている。ダニーは誰かれ構わず殴り掛かるることで、ロバータはダニーにそうしたように男性に声をかけ、セックスしている間だけ寂しさを忘れることで、どうにか1日ずつ生き延びている。自棄と強気をクシャクシャに丸めて出来上がっているような彼らは、シャンリィの当時の心の中を、ふたりの人物に分割して書いたたのかもしれない。

物語は、寂れたバーで出会ったふたりが、関心→反発→拒否を──最初は主にロバータの粘りによって──繰り返しながら、これまで誰も立ち入らせなかった心のラインを少しずつ後ろにずらしていき、やがて、自分自身も気付いていなかった心の奥の奥に入っていくまでを描く。
二幕構成で、一幕はバー、二幕は場所がロバータの部屋に変わる。

結論から書いてしまうと、これは恋愛劇ではなく宗教劇だ。
一幕でふたりは、荒っぽいやり取りのあと、自分がしてしまった取り返しのつかないことを告白し合う。ダニーは、もしかしたら人を殴り殺してしまったかもしれないことを。ロバータは、実父と性的な接触を持ってしまったことを。
どちらも、ちょっとやそっとの相手にはできない、口にするには勇気のいる話だ。聞かされたロバータはダニーに「きっとその人は死んでいない」と言い、ダニーは「そんな私とキスできる?」とたずねるロバータに「できる」と答える。どちらにとってもきっと誰かに言ってほしかった言葉で、心からそれを言ってくれた誰かがいたなら、自分にとって特別な相手になる言葉でもあったろう。他人を警戒し、遠ざけてきたふたりの心に存在する、誰も立ち入らせないラインは、ほとんど消えたように見える。

けれども、ここで終われば『ダニーと紺碧の海』は恋愛劇だ。二幕でふたりの会話は一気に深まる。ふたりの話は告白から告解へと変化する。
ロバータの部屋で朝を迎え、プロポーズするダニーをロバータは、自分には子どもがいることと、一幕で話した出来事を理由に拒む。だが食い下がるダニーによって、ロバータは自分の罪を語る言葉を持つ。
「自分が父親にしたことは、家全体に暗い影を落とし、家族の関係を変えてしまったから、許されることのない罪なのだ」と。それに対してダニーは「俺が許す。だから大丈夫だ」と言い続ける。

これは明らかに普通の会話ではない。「許す」というのは、キリスト教では神か神職にある人しか真の効力を持たせられない言葉だから。
なぜ、神父でも牧師でもない(カソリックかプロテスタントかがはっきりわかるヒントはなかったように思う。せりふや小道具に示されていたとしたら私は見落とした)ダニーが、躊躇なく「俺が許す」と言えたのか。
その理由は、ダニーもまた、ロバータの部屋で大事な告解を済ませていたから。
それは何とも小さな思い出話だが、ロバータの部屋にあったウェディングドレスの人形を見てダニーは、幼い頃に教会の庭で見かけた結婚式の思い出を語り、穏やかに言うのだ。「これからバカみたいな話をするぜ。俺はなりたいと思ったんだ、花嫁に。白いドレスを着た花嫁になりたかったんだよ」


アメリカ人で白人男性で教育環境の悪い地域で生まれ育ち、しかもヘテロという存在が、いかに昔ながらの男らしさを強要されて育つかは、想像に難くない。強くあれ、勝て、弱音を吐くな。そんな声なき声を生まれた時から聞かされてきた人間が、よりにもよって「花嫁になりたい」という感情を、多幸感と共に感じてしまったことの後ろめたさ。
ダニーの、仕事帰りに立ち寄るバーから自宅まで「出会うすべての人間を殴らないと気が済まない気がするんだ」という生きづらさ、息苦しさは、幼い自分が真っ直ぐ感じた美しさ、まぶしさに蓋をしてきたことから来るそれではなかったか。
そしてそれを生まれて初めて他人に話す勇気。
なぜ彼が人形ひとつでそれを持てたか、明確な理由はない。けれども、その勇気が彼を祝福された人間に変えた。舞台上ではその後、小さな花嫁人形はずっと明かりが当てられ(照明:日下靖順)、イエスを見守るマリア像のように優しい光に包まれている。


松井るみの美術もいい。
一幕のバーのシーンでは、紀伊國屋ホールの横長の舞台全体が店の窓際の席になっているのだが、すべての窓に貼られた新聞は、ダニーとロバータを取り巻く世間であり、同時に、彼らがそこから弾き出されていることがわかる。
二幕で窓は天井部分に吊り上げられるのだが、ロバータがダニーの気持ちを受け容れる頃、その上に青い光が差している。ふたりはもう、世間の喧騒が届かない美しい海の中にいる。
天国は天上にだけあるのではないのだ。


ふたりの感情の起伏を丁寧にとらえて松岡と土井をさり気なく移動させ、紀伊國屋ホールの舞台を広く感じさせなかった──美術の助けもあるが──藤田の演出を頼もしく観た。
元・さいたまネクスト・シアターメンバーの土井ケイト(在籍時は土井睦月子(どい・むつきこ))、素晴らしかった。
そしてまた、俳優・松岡昌宏のこれからを大きく切り拓いた作品だろう。この人なら、これまでの日本人男優ではなかなかハマらなかった海外戯曲の中年男性がきっと演じられる。全国の優秀なプロデューサーさん、オリジナル作品よりも難しい翻訳劇を彼に!

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