ネタバレですが『8月の家族たち』についてこれだけは

詳しい感想が書けないまま、『8月の家族たち』が東京公演の千秋楽を迎えた。今もし東京にいたら、絶対にもう1度観ていたはずだ。アメリカの劇作家、トレイシー・レッツ(女性のような名前だけれど男性)が書いた戯曲は、上演されるや評判を呼び、映画にもなった作品で、父親が失踪したことで3人の娘や親戚が久々に実家に戻るも、薬中毒で強権的な母親と衝突し、決定的にバラバラになるまでの数日間が、激しい言葉の応酬で描かれる、というもの。目黒条の翻訳、ケラリーノ・サンドロヴィッチによる上演台本と演出、そして全員ではないけれど俳優の演技、いずれもが細やかで大胆で、描かれている状況、発せられている言葉は悲惨なのに、笑いながら人間の深部に刻々とリーチしていく作品になっている。翻訳劇かくあるべし、と言いたくなる舞台だ。

私が目にする劇評、感想もほとんど高評価で、それは喜ばしいことではあるのだけれど、この作品が「家族劇」として語られて終わっているのはあまりに惜しい。この話は、家族劇の形を借りたアメリカ論だ。麻実れい演じるわがままな母親バイオレットは、間違いなくアメリカの象徴なのだ。それがはっきりするのは、失踪した父(バイオレットにとっては夫)のベバリーが自殺することを知りながら、彼を探す前に貸金庫に行き、かつて夫婦間で交わした「どちらかに何かあった場合はここにある財産は全て一方に譲る」という約束を実行すべく、財産を引き出したあたりから急速にはっきりする。その事実を知った長女バーバラ(秋山菜津子)にどんなに責められても、バイオレットは「約束したから、契約だから」と譲らない。それは、契約と訴訟の国となり、基本的な温情を忘れたアメリカの似姿だ。すると「私には何にでもお見通しなのよ」と、家族ほとんど全員の秘密を得意げにあげつらって相手を叩きのめしたのは、世界の警察を気取って他国を糾弾し、中途半端に世界をバラバラにした行為と通じるだろう。最後に残っていた長女が去り、バイオレットがよろよろと歩いて慰められに行くのが、ネイティヴアメリカンの使用人ジョナ(羽鳥名美子)であるのは、バイオレットがアメリカの象徴である何よりの確証。ずっと蔑んでいたジョナがいる使用人部屋で、彼女の膝にすがる姿は、アメリカが選んできた経済優先──によって軽んじられる、知性、温かな手料理、太陽の光を浴びること、ごく当たり前の挨拶など──や、価値観の押し付け──によって傷つけられる弱者や少数派──が間違っており、もはや大地の声を聞くしかない、ということが示唆される。そう考えていけばごく自然に、バイオレットという名前は、沈みゆく大国の夕景を表している気もしてくる。

それを意識してもう1度この舞台が観られたら、1度目には気付かなかったせりふや情景がいくつも違う明るさ、暗さで浮かび上がったことだろう。決してこれは“現代アメリカの病巣を描いた家族劇”ではなく“アメリカのたどってきた道そのものを描いた自省劇”なのだ。さらにおもしろいのは、いかにもマチスモなメンタルを持つ男性ではなく、それを女性に託したことだろう。『STAR WARS──フォースの覚醒』の主人公が女性であることと、つなげて考えられるかもしれない。

とは言え、家族劇としても出色の出来。俳優では、うまく動かない体と常に高揚している精神を見事にひとつの器に入れて演じた麻実れい、母親を嫌いながら次第に母親そっくりになっていく秋山菜津子のふたりはとにかく素晴らしかった。大阪公演に行ける人は駆けつけて!

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