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雑記:私は私が分からない;20190817


  今朝、食欲が戻る。最近の朝はずっと食欲が無くてなんとか無理に食べてる節があったが、今日は空腹で目覚めを迎える事ができた。良いことだ。

 自分の症状について考える時――つまりは軽微双極性障害(と診断された)と抑うつについて考える時、私は妙にむずがゆい違和感を感じる。
 
 そういう病気の症状が発生している時、私自身はその症状を観測する事が出来ないという事だ。
 
 例えば、日中酷い身体のだるさを感じた時に、私は「だるい」と感じ、理解する事はできるが、それがどういった理由によるものか判断できない。夜のエアコンのせいで風邪をひいたのか、それまでの疲労がどっと押し寄せたのか、そう理由以外にワイルドカードである「うつ病だから」という理由が存在するからだ。

 そして、その精神的問題は突き詰めれば過去の原因へと辿り着く。あの時身体を壊したから、元からこういう習慣だったから、そして遺伝子的にそうなるしかなかったから……
 
「元気がないのはなぜか」「死にたくなるのはなぜか」「体力がもたないのはなぜか」……全ての問題に対し「うつ病だから、療養する、あるいはリハビリのような事をすれば解決する」という回答がなされると、私は、正直よく分からないと思う。なんというか、アバウトすぎる。
 
 では自分の状態を自分で自覚するにはどうすればいいのだろうか。そういう事を考えていた時に気付いたのは、自分は物事を認知しているようで、それは自分の中からしか見ていなかったという事である。
 
 自分の事を真に知るには、外側から観測する必要があるのだ。
 この難しいところは、自分の外側から観測している自分は、実際には自分の内に居る、つまり、その外側からの観測は内側からの観測にしかなってないのだ。
 
 この事から私は、自分の精神的体調がおかしいとは自覚できず、アルバイトもまともに出来ない状態で就職活動を行っていた。そ得る事もあったが、基本的にはだった。様々な事を学んだが、先に進む事はなく、その場で足踏みしていただけだったから。

 結局私が考えたのは、自分を客観的な情報のみで省察していくという事だった。例えば私は一か月前、アルバイトで心が再び不安定になってしまったのだが(前の雑記に書いた)、その事で周りの知識ある人から「就業が行えるとは思えないからまずは療養すべき」と言われた。
 
 最初私は困惑を通り越して憤りまで感じていたが(その仕事が特別きつかったというだけかもしれない)、次第にそれを受け止める事にした。私は私の事をよく知らなかったと思ったからだ。

 それまで私は、誰しもがそうしているように、自我に従って、生活や学業を行っていた。自我はそのあいだの時々に、自己の状態を分析していた。つまり「私は今どう感じているのか?」「私はどう考えるべきなのか?」……そう、誰しもがそうしているように。
 
 でも、それではどうやら駄目らしい。自我とは違うもう一つの客観的な視点を持たなければいけないのだ。自我は、月山馨瑞という身体や脳を通ってきた、フィルタリングされた情報しか得ていない。よってその自我は外側ではその情報でしか、物事を判断できないのである。それではよくない。だから究極的に客観的な情報しか持ち合わせない、つまり社会や家族から見た時の月山馨瑞を省察出来る人物を、私の外側に作らなければいけないのである、概念的に。

 哲学的(?)な話になって申し訳ないです。だけど抑うつだとか軽微双極性障害だとか、とかくこの精神的な問題は、もはや私の手には届かないところにあるのだ。認識を変えたり調子を整えたりという内省的な行動では、もはやこの問題は解決できないのだ。人が自力で骨折を治す事が出来ないように。
 
…………

 こういう自分の問題を書いたが、とても苦労した。というか文章を書こうとするたびに、私は何と書けばいいか毎回一から探っている。私の頭の中には些末な事から十代な事までたくさんの出来事が……つまり体験談が記憶されている。それをこういう表現の場で、ある種ストーリー仕立てに繋ぎ合わせ、ひとが読んでも分かりやすいような、ちゃんとした文章に組み合さなければいけない。それはとても難しい事だ。でも、やるしかない。そういう事でしか、私はやりがいを感じる事ができない。
 
 やはり、私は文章を書かねばならないのだろうと思う。そこに楽しみがあるから、という理由もある。それも否めないのだが、一番に大きいのは、小説を書いたり、あるいは様々な方法で自己表現をする事に、私の十代のほとんどを費やしていたからだ。そして、十代はいつか文章を中心とした仕事をしたいと思っていた。
 
 今? 今は無理だと思う……無理じゃないかもしれない……でもどうすればいいか分からない。一つ言えるのは、私はまだそんな事を考える段階に至ってないという事だ。悲しい事だが、私は未だ社会不適合者のままである。それを、すこしまともな社会不適合者にするまでは、具体的な未来を夢想するわけにはいかない。常に足元の事しかやっていくしかない。

 でも人間には生きがいが必要だ。それがどんなに馬鹿馬鹿しい事でも、その生きがいが無ければ、私はいつかまた死にたくなってしまうと思う。だからこういう文章とか、小説とかをもっと積極的に書いていこうと思う。それこそ人生の中心になるように。客観的にみてもそれが、私という人間にとって一番の希望になると思えるから。いつしか私は再び希望を抱く事が出来るのだろうか、生きたいと思えるのだろうか。
 

 ここまで読んでくれてありがとうございます。貴方の人生に幸運を、貴方の自我に祝福を。

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