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vol.53 G・ガルシア=マルケス「予告された殺人の記録」を読んで(野谷文昭訳)

今から68年前、日本から約13,000キロ以上離れたカリブ海沿岸の田舎町で、実際に起きた殺人事件に思いを巡らせた。

1982年度のノーベル文学賞を受賞したコロンビアの作家、G・ガルシア=マルケスの作品。

これは小説として作られているが、新潮解説によると、実際にあった事件を元々はルポルタージュとして世に出される予定だったとのこと。語り手の「わたし」が、人々の記憶や裁判所の調書を調べ、約30年前の事件の全貌を体系的に明かすという構成になっている。

<あらすじ>
鉄道も通っていない閉鎖的な街に、「バヤルド・サン・ロマン」といった高貴な雰囲気の男がやってくる。彼は誰もが認める英雄の息子。その彼がこの街の娘「アンヘラ・ビカリオ」に結婚を申し込む。アンヘラは、母親の希望もあり結婚することになる。そして迎えた初夜、アンヘラは、処女でないことが明かされ、実家に戻されてしまう。

屈辱を受けたとし、アンヘラの兄弟である双子のペドロとパブロは、妹のアンヘラの処女を奪ったのは誰なのかと問いただす。アンヘラは「サンティアゴ・ナサール」という、裕福な青年の名前を明かす。翌朝、報復しようと双子の兄弟たちは、サンティアゴを待ち伏せする。一方、当日は司教が船で街を訪れる日。人々は祝祭気分。しかし司教は船から降りず、十字を切るだけで街をさっていく。そんな中、双子の兄弟は、街の人々に自分たちの報復の計画を隠すことなく明かし続ける。そして、いくつもの偶然が重なり、アンヘラの処女を奪った証拠は何もないまま、サンティアゴはめった刺しにされ、家畜のように殺されてしまう。

事件後、サンティアゴの検死解剖の実施とともに、双子の兄弟は捕まり、アンヘラたちは街を出て行く。バヤルドも、どこか行方がわからなくなる。事件関係者の家族は崩壊してしまう。17年後、アンヘラとバヤルドは再開するも・・・。 <あらすじおわり>

事件後、街の民衆たちは、真実を深く考えないまま、忘れたい出来事としてやり過ごしているように感じた。また、当事者家族は悲しみを引きずってバラバラに生きていることを想像した。

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なぜ、アンヘラは「サンティアゴ・ナサール」の名前を出したのか。アンヘラは、サンティアゴ親子が、多くの純粋な女を陵辱していたことを知っていたから、許せなかったのだろうか。しかし、アンヘラの相手は、実際にはサンティアゴではないことは明らかな書きぶりだ。

なぜ、誰もが殺人予告を知り、多くの人たちが止めようとしていたにもかかわらず、偶然の重なりがあったにせよ、予告通りの殺人を止められなかったのか。ひょっとしたら、この街の民衆は、サンティアゴの存在を街の恥だと感じ、どこかで彼への罰を望んでいたのではないか。事件後、殺人を見学していた民衆の悲しさを感じなかった。

なぜ、司教は船を降りなかったのか。歓迎ムード満載だったのに、民衆はひどく傷つけられたに違いない。司教は、どことなくこの街から伝わる悲劇的な運命共同体のような雰囲気を感じ、関わることを躊躇したのではないか。また、どうして作者マルケスは、司教の来訪のくだりを描いたのか。この殺人の記録との関わりは何なのか。マルケスの意図は、一回読んだだけでは理解できなかった。

本当は誰がアンヘラと関係を持ったのか。そもそも本当に処女ではなかったのか。アンヘラの本当の意図はどこにあったのだろうか。それにしても、カトリック同士の結婚はバージンロードでなければならない絶対さは、さすがに滑稽に感じる。滅多刺しにされた理由を知らされないまま殺されたサンティアゴにとっても、理不尽な事件だ。

近代化を前に、この双子のビカリオ兄弟が暮らす街は、どこか暗く閉鎖的で、狂気に満ちていて、みんなが不満をこらえながら生きている。そんなふうに感じた。これは当時の南米全体に同じような状況があったかもしれないと思った。

今感じている視点でもう一度この小説を読むと、きっと新しい理解や別の面白さを発見できる気がする。そうすれば、さらに楽しめる作品だと思った。

もう少し、この作品に触れながら、「百年の孤独」にも挑戦したいと思った。

おわり


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