ナラティブと簡略化について

あんまり本気でオピニオン記事を書こうとすると、本当に色んなことを調べなければならなくなるので、上の記事を読んで、こう思ったな~~って事をゆるく書こうと思う。

臨床心理学をかじっている私にとって、ナラティブと言えばナラティブ・セラピーであり、社会構成主義であり、家族療法の文脈でもあり、一方京大学派的な「物語」的意味がある。心理学の文脈だけで言っても、凄く色んな意味があるのがナラティブである。

で、ナラティブという言葉はとんでもなく汎用性が高いゆえに色んなところで用いられているようなのだが、最近何故かナラティブをネガティブな意味で用いている記事を散見する。

このところ、エピソード主体の「ナラティブで、エモい記事」を新聞の紙面で見かけることが少なくない。ナラティブとは物語や語りを意味する。要は、お涙ちょうだいの日常描写ものの記事のことである。

https://digital.asahi.com/articles/ASS3W319WS3WULLI003M.html

ナラティブという言葉を定義すること自体結構難しいと思うのだが、やまだようこさんの論文を参照すると、

広義の言語によって記述される研究

https://www.jstage.jst.go.jp/article/sjpr/49/3/49_436/_pdf/-char/ja

とある。物凄くシンプルなのだが、シンプルがゆえに、この言葉と、上の西野さんが書いている「ナラティブで、エモい記事」は意図したいものが大きく異なる事が分かるのではないかと思う。西野さんはナラティブという言葉を評価的に捉えていて、やまだようこさんは評価的には捉えていない。

これは何が起きているかと言えば、西野さんというフィルターを通した「ナラティブ」は「お涙ちょうだい」「エモい」と同等の意味があるのだが、やまだようこさんのフィルターを通した「ナラティブ」は「広義の言語によって記述される」もの、という訳である。西野さんは最初から否定的な意味を込めて用いていて、やまだようこさんは肯定・否定含めてナラティヴをそうは用いていない。

心理学を習っている方にはよく分かる話だと思うが、真に中立的な態度を示す事は非常に困難で、もっと言うと不可能である。とはいえど、基本的には中立的に言葉を使い、その上で自分の主張を行うべきだ。そういう意味で、ナラティブを否定的なニュアンスで使う風潮があると思うのだが、それは何かちょっと違うのではないかと思う。

特に、ナラティブを否定的な意味で使われると何に違和感を持つかと言えば、その否定的な意味が、臨床心理学徒にはなじみ深い「ナラティブ・セラピー」の基本概念に大きく反するからである。
(追記:その人の人生を、否定的に語られてきたところも含めて新たな視点で捉え直すというのがナラティブの根幹にあると私は理解している。たとえば窃盗をして人を困らせる子ども、というストーリーに対して見方を変えると、所属する唯一の仲間集団に認められたくて窃盗する子ども、というストーリーが見つけられることがある。これはいわゆる、ドミナント→オルタナティブのフローである。もっと踏み込んで私が理解するところを言うと、このドミナントをオルタナティブで塗り替えるのではなく、双方を肯定的に受け止め同時に受容するのがナラティブセラピーの特徴であると思っている。)

社会構成主義の考えを色濃く受けて成立している(はずの)ナラティブ・セラピーは、普遍的な真実と言うものに対して非常に懐疑的に接する。そういう意味で、

筆者が見るところ、日本社会やメディアはデータ偏重、エビデンス偏重にはなっていない。新聞紙面に変化の兆しは感じるが、海外の新聞やメディアと比べると、データだらけ、エビデンスだらけというには程遠いように見える。

先の西田さんの記事に書いてあった、「データ」「エビデンス」とはある種対極の位置にナラティブはいる。厳密にナラティブはデータと反するのかとか、普遍的真実は本当に社会構成主義の中で存在しないのかとか、そういう厄介な議論は脇に置いておく。
と言うか多分、社会構成主義的考え方を用いると、「そのデータって本当にエビデンスと言えるんですか」と言えるかもしれない。

西田さんが記事の中で言いたいのは、

もちろん、ナラティブ型やエピソード型の記事のすべてが悪いわけではないし、それらを排除すべきだと言いたいわけでもない。結局のところ、バランスだ。ただ、そうした記事が「紙面やネットに載る意味」を踏まえて書かれてきたかどうか、問うてみてほしいと言いたいのである。

 特に紙の新聞においては、掲載できる記事の総量に限りがあるだけに、読者がそのナラティブなりエピソードを読まなければならない理由を、デジタル以上にはっきりさせる必要がある。新聞のフロントとも言える1面となれば、なおさらだ。

本当にこの二行であり、つまり、「夕刊の紙の一面にお涙頂戴的記事を載せるなァ!」という事が言いたいのだろう。私は紙で朝日新聞を読んでいないので気持ちは分からないが、彼には彼なりの、新聞やメディアに対する美学があるのだろう。つまり、「紙の新聞の一面には望ましい記事の在り方がある」というような。

まあそれを主張したいからと言ってね、ナラティブをこう、否定的に使われるとね、もやもやっとするのが人の性じゃないですか、ええ……。

まとまりのないまとめ

最近よく思うのが、二項対立を超えるにはどうすれば良いのか、という事である。パレスチナとガザ、アメリカと中国、というような単純な二項対立がよく(それこそメディアで)描かれるが、あれは非常に良くないと思う。

日常生活生きていれば分かるが、世の中二項対立では収まらないことなんて山ほどある。それが難しい問題になると、急に二項対立に簡略化されることがある。さきの、ナラティブとエビデンスとかいう、雑な対立もそうだ。これは何でかと私なりに考えた結果思うのは、「理解しやすい」からではないかと思う。難しいことを理解するとき、人はどうしても単純化しないと覚えられない。学習の頭は当然それでよいと思うが、エッセンシャルなところはもっと先にある。だから、「物事を複雑なまま理解する」事が重要なのではないかと最近思う。

だからたとえば西田さんの記事を私なりに書くとすれば、「では何故夕刊の一面として「日常」「お涙頂戴」が描かれるのか」「それが部数を取れる・読者の人気を取れるとすればそれは何故か、そしてそれで人気が出る層は何なのか、縦断的変化はあるのか、世代間でギャップはあるのか」「そもそも海外と日本でエビデンスの扱われ方に差はないのか? 海外と言っても東南アジアメディアとヨーロッパのメディアでも差が出るのではないか?」「データをある軸(新聞社の主張)を持って集めそれを記事として公開する事は果たして本当に『エビデンスのある記事』と言えるのか? 或いはエビデンスとは何か?」「「お涙頂戴」記事に違和感を共有して持っている層がいるとすればそれはどんな層で、あるいは社会においてどんな役割を持った層なのか?」と言う所に関心をもって書くかなと思う。

そういう意味で、複雑なものを複雑なまま理解するというところを担えるのがナラティブである。人にまつわるナラティブはあまりにも複雑であり、多元的で、なのに一個人にとってシンプルな感情を示したりする。勿論複雑な感情を示す事もおうおうにある。ナラティブから学べることは、とても多くあるかなと個人的には思う。

ではまた次の記事でお会いしましょう。