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『湖畔』黒田清輝、1897年

夏バテで倒れていました。。みなさん体調管理大丈夫でしょうか。。
さて気づいたら8月。恒例の日本画です。
今回は日本人なら誰しも目にしたことがある黒田清輝の湖畔を取り上げてみようと思います。
この涼しさが伝わりますように。。

黒田清輝

さて、誰もが知る黒田清輝ですが、少しおさらいしてみたいと思います。
黒田清輝は、近代日本の美術に大きな足跡を残した画家であり、教育者であり、美術行政家であったといえます。明治中期の洋画界を革新していった功績は大きく、その影響は、ひろく文芸界全般におよびました。

 現在の鹿児島県鹿児島市に生まれた黒田は、幼少時に上京、伯父黒田清綱の養嫡子となりました。
 黒田は17歳で、法律の勉学を目的にフランスに留学しましたが、二年後には絵画に転向し、フランス人画家ラファエル・コランに師事しました。

『フロレアル』ラファエル・コラン、1888年
ちょうど印象派の最盛期と活動が重なったためフランスではあまり評価されなかったそうですが、この絵は有名ですね。

九年間にわたる留学中、アカデミックな教育を基礎に、明るい外光をとりいれた印象派的な視覚を学びました。
 1893年に帰国し、日本にそれまで知られていなかった外光表現をもたらし、その背後のリベラルな精神と思想とともに大きな影響を与えました。(フランスで賞を取った裸体画を内国勧業博覧会に出品するも論争が起こります。日本の裸体画論争も記事にしてみたいものです。。)
1896年には、美術団体白馬会を結成、またこの年創設された東京美術学校の西洋画科の指導者となりました。
以後、黒田は、この白馬会と東京美術学校において、多くの新しい才能を育てるとともに、やがて美術界の中枢となっていきます。

白馬会

 フランスから帰国した黒田は明治美術会に入会し印象派の画風を教えていきます。この明治美術会というのは、1889年東京美術学校(東京藝術大学の前身)が伝統的日本美術の保護のもとに開校したため、西洋美術家たちが中心になって設立されました。
 要するに反東京美術学校という一面を備えていたわけです。1893年に黒田が来るまでは浅井忠らが中心として西洋画を教えていました。

『春畝』浅井忠、1888年
浅井は1900年にやっとフランスに留学しますが、それまではずっと日本で西洋画を学んでいました。そのためこの作品は彼にとっては初期の作品となります。
あの正岡子規にも絵を教えていたそうです。

 ところが、黒田と浅井は画風で対立してしまいます。黒田がもたらした印象派風の新画風は後に「外光派」と称されたのに対して、浅井たちは「脂派」と呼ばれるようになってしまいます。
どちらかというと浅井たちが教える画風は写実的であり、黒田の画風は明るいといえばわかりやすいでしょうか。

『十月、牧場の夕べ』アントニオ・フォンタネージ、1860年
浅井の師であるフォンタネージの絵です。
そもそも黒田と浅井では派閥の違う師匠から指導を受けていたので対立するのは当然です。
黒田の師であるコランの絵と比べてみてください。

1896年5月にはついに、東京美術学校に黒田と久米桂一郎らが中心となって西洋画科が設置されます。黒田は明治美術会を脱退し白馬会を結成するのです。白馬会は画壇の中心となっていき、1901年明治美術会は解散してしまいます。

『秋景』久米桂一郎、1895年
久米と黒田は実は師が同じです。仲もとても良かったようです。留学仲間ですね。黒田も久米も日記をのこしているのですが、よく名前が出てきます。
また、黒田は久米をモデルにした絵を何枚か残しています。久米は後世の教育に力を入れ、油彩画の制作を辞めてしまいます。

明治美術会に所属していた画家達の一部が「太平洋画会」を結成します。これは反白馬会系の一勢力になってしまいます。

さて1896年に白馬会は第1回展覧会を開きます。この展示会は明治から展示をしていた日本絵画協会と合同でしています。黒田はこの時「昔語り」の下絵を発表しています。(「昔語り」は焼失しています、惜しいです)
この展示会は10月に開催されたので白馬会の発足から数か月で、ばたばたしていた時期だったのかもしれません。

『仏誕』下村観山、1896年
日本絵画協会と合同だったので有名な画家がこの展示会に参加しています。下村観山もその一人で、この時発表したのがこの『仏誕』です。この時銀賞をもらってます。菩薩様の肉体表現が素晴らしいですね。観山も東京美術大学で教えていたので、黒田と接点はあったはずです。後年は留学もして西洋画にも触れてます。

翌年1897年に第二回白馬会展が開催されます。ここで黒田は『湖畔』を発表します。

湖畔

『湖畔』黒田清輝、1897年
第二回白馬会展に出された時のタイトルは『避暑』でした。

日清戦争の従軍から帰って間も無く1895年3月にあげた藤井久子との最初の結婚は不幸におわり、2年後の1897年の夏にこの絵を描きます。
うちわを持って涼むという構図は浮世絵などでも親しまれる日本的な納涼の構図と言えます。
このうちわに描かれている花は萩の花です。萩の花は秋の花です。夏の終わりを表しています。
19世紀、フランスではジャポニズムが流行しました。ゴッホなども浮世絵を好んでいたことは有名です。黒田もこれを知っていてこの湖畔を描いています。要するに油絵による日本的表現。
これは、以前記事にしましたが高橋由一も考えていたことで、恐らく日本人であれば皆考えることなんだと思います。(黒田は高橋の門人に絵を習っていましたので、つながりは少しありますね)

高橋由一については過去記事にしてます。良かったら見てみてくださいね。

この絵に描かれている女性は後に黒田清輝の後の妻となる照子夫人です。少しエキゾチックに描かれたこの絵は1900年に開かれたパリ万博にも出展されています。

1897年夏、黒田は金子種子(のちの照子夫人。種子から照子に改名)と箱根に行きます。そして芦ノ湖畔でこの絵を描くのです。

『婦人肖像』黒田清輝、1911-1912年
モデルは後の照子夫人です。没落士族であり、柳橋で芸者をしていたことで黒田と知り合ったそうです。画家の奥さんって美人ですね。

黒田は養子であり、また子爵家の跡取りでした。養父である黒田清綱は実子がいましたが、庶子であったため黒田を養子とし跡取りとしました。
そのためか、照子との結婚を死ぬまで反対していたようです。(はじめの結婚は父の勧める女性と結婚しています)ただこの養父が亡くなり正式に子爵を継いだ年に照子と籍をいれたそうです。(養父長生きだったんで黒田50歳くらいで再婚です。子供はおらず養子をもらってます)

さて、最後にもう一度見てみましょう。

これ芦ノ湖を見下ろすように描いているんだそうです。避暑に出かけるというのが外国暮らしの経験のある黒田っぽいですね。ただ黒田は逗子に家を買ってそこから美術学校にも通っていたそうです。この辺がお気に入りだったのかもしれません。その後も何度か箱根を訪れています。

この絵は親戚である樺山愛輔(白洲正子の父ですね、彼も白馬会に絵を出していた資料があったので絵心があったのでしょう。また黒田の遺言執行人でもありました)が所有していて、樺山家の食堂に飾ってあったそうです。洋画でありながら日本の代表画となるこの絵は黒田自身も気に入っていたようです。


 黒田清輝は明治の人物で自身も日記を書いていたし、政府の役職にもついていたので資料がたくさんありそれに目を通すと明治時代の有名人がたくさん出てきて脱線しまくりました。(湖畔については当時美術評論家であった森鴎外が批評を書いていたり、夏目漱石の日記にも黒田がでてきたり)
もう8月は黒田清輝だけでいいんじゃないか?なんて思って図書館に行って黒田清輝の画集をみたりもしてしまいました。(なんと浅井忠と一緒のタイトルで驚きました、黒田清輝/浅井忠みたいな)
 そのことで改めて黒田清輝についてしらないことがたくさんあるなとしみじみ思いました。裸体事件など黒田清輝は美術界に一石投じたこともいずれ書いてみたいなと思いました。。勉強しなきゃ。。



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