マーケティングは昭和プロレスに学んだ!(2)

プロレスラーの製品戦略

プロレスラーを製品と捉えた場合、その製品戦略はどうなるでしょうか。
日本のプロレスの父とされる力道山は、何と39歳という若さで他界
しています。現役のまま亡くなったので、日本ではプロレスラーの
「その後」の見本がないまま進んでいきました。
力道山亡き後、日本のプロレス界をけん引したのは、ジャイアント馬場と
アントニオ猪木です。共に力道山の弟子で、年齢こそ違え、同期入門
のため、ライバルとして何かと比較されてきたのは周知です。

若い頃のジャイアント馬場は、40歳前に引退して、ハワイに移住すること
を夢見ていたようです。そのような雑誌のインタビュー記事を読んだこと
があります。しかし、実際は60歳になっても現役であり続け、61歳に
他界しました。アントニオ猪木は、自身の衰えに合わせるように、徐々に
現役生活の比重を下げて、引退試合を行いました。しかし、その後も業界
を引っ掻き回すような‘お騒がせ’を仕掛けており、良くも悪くも
「アントニオ猪木」であり続けています。
大仁田厚や長州力は引退したものの復帰しているので、すっきりしません。
そういう意味では、現在テレビCM等でも見かける天龍源一郎は、
プロレスラー人生を全うした良い見本ではないでしょうか。
また、どのプロスポーツでもそうですが、頂点を極めることなく、
フェードアウトしていく選手も多くいますので、やはり厳しい世界です。

製品ライフサイクル

プロレスラーを製品と捉えた場合、企業(所属団体)としては、一日も
早く人気製品に育てなければなりません。要するに‘客が呼べるレスラー’
ということです。
昭和のプロレスでは、主に下記4パターンにより選手が育成されてきました。
(1) 人気が出るまで時間がかかる
入門→デビュー→若手時代→中堅時代→メインイベンター
(2) 1よりは時間がかからない
スポーツ経験→入門→デビュー→若手時代→中堅時代→メインイベンター
(3) 2よりは時間がかからない / すぐに人気が出る
① スポーツエリート→入門→デビュー→若手/中堅時代→メインイベンター
② スポーツエリート→入門→デビュー→メインイベンター
(4) すぐに人気が出る / もしくは未知数
マスクマンとしてデビュー→中堅時代→メインイベンター
マスクマンとしてデビュー→メインイベンター

もちろん選手全てがメインイベンターになれる訳ではありませんが、
実在の選手を当てはめて考えていきたいと思います。

(1) のパターンでの代表は、藤波辰爾です。60歳を過ぎた現在も現役
で活躍されています。中学卒業後に日本プロレスに入門。
体も出来ていなかったので、トレーニングし体力をつけてデビューします。
アントニオ猪木に師事し、猪木が日本プロレスを追われ新日本プロレスを
旗揚げすると追随します。
その後は、新日本プロレスの前座の若手レスラーとして活躍します。
1978年にニューヨークでWWWF世界ジュニアヘビー級選手権を獲得し、
凱旋帰国。それまで‘大きくてナンボ’というプロレス界に
軽量級(ジュニアヘビー)の魅力を広めることに大いに貢献しました。
その後はヘビー級に転向し、長州力との対戦は「名勝負数え歌」と称され
日本のプロレス史に1ページを刻んでいます。

(2) のパターンの代表は、アントニオ猪木です。アントニオ猪木は、
ブラジル遠征時に力道山の目にとまってプロレス入りしたことは有名
ですが、現地では陸上競技の選手でした。
その経験よりは、体が大きかったことの方がポイントだと思いますが、
スポーツをしていたからこその体格、体型だったと思います。
ジャイアント馬場と同日デビューしますが、力道山の育成方針は全く
違うものでした。馬場は、それまでプロ野球選手として活躍して
いました。プロの選手だったので、多少名前も売れていたでしょうから、
全くの無名の猪木とスタート地点が違っていても、それはある意味当然
かも知れません。猪木の凄いところは、境遇に腐ることなく
(必死に耐えていたのでしょうが)、トレーニングに励み、体力、実力
そして自信をつけていったことでしょう。
努力に対する結果が伴い、時間と共に馬場に迫る勢いをつけていきます。
会社乗っ取りを画策したとして日本プロレスを追放処分され、新日本
プロレスを旗揚げします。「燃える闘魂」のキャッチフレーズは、
あまりにも有名です。

(3) の代表は、ジャンボ鶴田と長州力でしょうか。
プロ野球選手だったジャイアント馬場もここに入るでしょう。
共にアマレスの五輪代表選手からプロレス入りしました。
しかし、両者の境遇は正反対であったことは有名です。ジャンボ鶴田は、
入門時からジャイアント馬場の後継者として育成され、初めから
メインイベンターでした。対して長州力は、すぐに目が出ず、中堅選手と
してくすぶっている時期が長く、プロレス史に残る
「お前のかませ犬じゃない!」と試合中に藤波に反旗を翻したところから、
革命戦士と呼ばれ、人気レスラーになりました。
ジャイアント馬場とアントニオ猪木の育成方法の違いによるところが
大きいと思います。

(4) 最後は‘マスクマン’として登場することです。
昭和のプロレスは、ゴールデンタイムにテレビ中継があったので、
子供の人気を得ることも大切でした。子供にとってはいかつい顔の
おじさんよりも表情が見えないマスクマンの方が、格好よく見えます。
昭和のプロレスで、代表的なマスクマンと言えば、ミルマスカラスと
タイガーマスクでしょう。
ミルマスカラスは、「千の顔を持つ男」というキャッチフレーズで
大人気を博したレスラーです。タイガーマスクは、今でも‘中身違い’
で続いている人気マスクマンです。
中でも1981年4月に新日本プロレスに登場した‘初代’は、もはや
伝説で、その後続くタイガーマスクは、この初代と比較されながら
活躍しなければなりませんでした。
初代の‘中の人’は、佐山聡。
とにかく、この人の身体能力が凄すぎました…。
実況アナウンスで連呼された「四次元殺法」は、抜群の表現でした。

YouTube で‘初代タイガーマスク’と検索すると、様々な試合映像が
上がっているので、観たことない方は是非ご覧ください。
今から30年以上前なのに、本当にとんでもなく凄いです。

さて、マスクマンは、製品ライフサイクルで考えた場合、非常に理に
かなった手法です。レスラーが一人前になるまでは、相応の時間が
かかりますが、マスクマンは、登場した瞬間から人気を得ることが
可能なのです。初代タイガーマスクが、まさにそうでした。
佐山は、タイガーマスクになる時点で、すでに中堅クラスの選手で、
遠征先のイギリスではトップレスラーとして活躍していました。
タイガーマスク誕生は、テレビ朝日が「タイガーマスク二世」という
アニメ放映に合わせて、本物も登場させるというメディアミックス
戦略に沿ってのことでした。

イギリスで超人気レスラーであった佐山は、日本からの帰国指令に
難色を示したもの、「1試合だけ」という約束で日本に帰ってきました。
急ごしらえのマスク、マントを身に着け、実力者ダイナマイトキッドとの
試合にのぞみました。
あまりにお粗末なコスチュームに会場からは失笑が起こったといいますが、
試合が始まると、空気が一変します。軽やかなステップワーク、
アクロバティックで素早い動きに観客は息を飲んだのです。
そして最後は、これ以上ないというほどしなやかなブリッジによる
ジャーマンスープレックスホールド。

あのダイナマイトキッドにフォール勝ちしたのです。
カウント3が入った後の会場は割れんばかりの大歓声。
その後人気を不動のものにするも、残念ながら活躍期間は2年4ケ月と
短命で終わりました。

佐山聡は、タイガーマスクにならず、イギリスから‘そのまま’帰国しても、
おそらく人気レスラーになっていたと思いますが、タイガーマスクという
キャラと一緒になったことで、何倍もの効果を得たのではないかと思います。
佐山聡でのライフサイクル、特に人気度を曲線カーブで描いた場合、きっと
それは緩やかな線を描いたことでしょう。対してタイガーマスクの場合は、
短時間で超人気者になったので、この曲線カーブは極端に上昇したものに
なるはずです。

製品戦略的には、短時間で人気者になるタイガーマスクのような製品が、
テレビ的にも興行的にも‘おいしい’わけです。
初代タイガーマスクが、本当に凄すぎて全く注目されなかったマスクマンも
大勢いました。人気商売である以上、これも仕方がないところでしょうか。
昭和の頃のプロレスを掘り起こすと本当に面白いです。



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ジバコ

昭和のプロレスは面白い!

今のプロレスもいいですが、昭和の頃も面白いです。
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