音楽というなにか

よこやまくんは、ずっとボンゴをぽこぽこ叩きながらすばるくんの後ろ姿を眺めてた。いつでも、すばるくんが視線の先にいた。よこやまくんが自分から音楽を楽器を始めるより前から、ずっとよこやまくんは歌うすばるくんの後ろ姿を見ていた。

だから、すばるくんがいなくなってよこやまくんはボンゴを叩いてるとき何を見たらいいんだろうってずっと悲しかったし辛かった。名古屋ではやっぱり目線が定まらないよこやまくんがいて、一層苦しかった。焦点をどこにしたらいいかわからない、うろうろしてた。

東京で、大きなスクリーンに亮ちゃんが写し出されたとき、左端に映りこんだよこやまくんは亮ちゃんの背中を見つめていた。行き場所を失った視線の先が、新たに真ん中に立って歌う男の背中になっていた。

過去は過去だし、今は今だし、未来は未来だ。失った痛みは無理に忘れたり癒したりする必要はない。ぽっかり空いた穴を無理に埋める必要もない。ただ、明日へ一歩、未来へ一歩足を進めるだけだ。その、足を進めるために、隣に寄り添って心を緩めてくれたのも、また音楽だった。大切な人を奪い去っていった音楽だった。少しずつゆっくりと音楽は楽しいという気持ちをまた彼らの心に産み出していった、皮肉だ、悔しい、でもそれこそがすばるくんの存在した証なのかもしれない、きっとそうなんだと思う。

赤塚不二夫が言っていた。人は悲しいまま、楽しくもなれる。よこやまくんが歌った「ダメなのか思うけど やっぱり好きやねん」は、全然ダメじゃない。彼らも、私たちも悲しい気持ちも悔しい気持ちも沈めず留めたまま、楽しい時間を手に入れた。よこやまくんも、すばるくんを好きだと思うまま、すばるくんのいない関ジャニ∞の音楽を楽しむ時間がくる、きた。何度でも、やっぱり好きだと思っていい。
私たちは、そのまま未来を始めることができる。