見出し画像

下五島、大瀬崎は悲しい。

二十三年前、仲間七人で上五島の「野崎島」を目指した。

まず、羽田から福岡へ飛んだ。
あいにく、台風一過の余波で博多を真夜中に出航するフェリーが欠航。

それではと、旅行代理店では偉いさんの仲間がひと働き、一宿一飯を確保。
あっちこっちと、ひと晩飲み明かし、翌朝列車で長崎へ。

されど、当てにしていたフェリーはまたしても欠航。          またもや痛飲の長崎ナイト。

佐世保ならなんとかなるとフェリーに乗り込み、シドニーオリンピック観戦していたが、「野崎島」遠征ベースの「小値賀島」の手前「宇久島」で止まってしまった。

こうして、「野崎島」の廃校(民泊施設に改装)三泊は夢と消え、校庭の三角ベース野球と岩場に竿を突っ込んでの釣り三昧で半日の遠征は終了となった。

そもそも、なぜ長崎なのか、五島なのか、野崎島なのか、いまさらではあるが思い出してみる。

ぼくらの遠征の数年前、野崎島の「野首教会」で催されたデスマスク展示インスタレーションが、仲間のいとこの彫刻家の仕業だったというだけの、なんだかえらく細い糸の連なりが、この際、「小値賀島」、「野崎島」の島起こしのようなものを考えてしまおう!という、まことに大きなお世話な話になってしまったのであった。

先日、家人の誕生日に託けて、古仲間と四人で、東京駅、門仲、月島を徘徊した際、ひとつ前の逗子、三浦、葉山徘徊で議題となっていた「第二回五島列遠征&長崎ぶらぶら旅」を、いまこそ決行しようではないか!となったのだが、モノを知らないというのは実に怖い。
先日終了した朝ドラで五島列島がブームになっていることを誰も知らないまま、彼の地三泊四日の手配に入ってしまった。

どうやっても宿が取れない。ブームなのだよ。

実のところ、今回の遠征の主眼は、シマ起こしでも、ブーム気分を堪能することでもない。
古い仲間に会いに行くことが第一義なのだ。

デスマスク彫刻家のいとこ、ぼくらを「野崎島」へいざなった建築を生業にしている仲間は、今、下五島の福江島に居る。

ノーブル(気品の意の方の)で、生成り、居心地の良い空間をデザインする建築家は、自由が丘のアトリエを閉めて、昨年から、故郷の長崎市と福江島で暮らしている。

彼がかつて記していたブログに、この岬のことが出ていた。

命がけの航海をする遣唐使のためにかがり火を焚く防人がいた岬。

強大なバルチチック艦隊との海戦を前に、第一報「敵艦見ゆ」を受信した岬。

太平洋戦争、出征してゆく兵士たちが最後に見た祖国の岬。

それが、大瀬崎。

こうして写真を見ると、絵本の中に出てきそうなほどに可憐な灯台だが、米軍潜水艦の猛烈な艦砲を受けてもレンズは損傷しなかったという。

ハチクマという鳥のことも建築家のブログで知った。
タカの一種らしいのだが、主にスズメバチを餌にしているところからハチクマという名前がついたらしい。

ハチクマは渡りである。
季節がめぐると、九州の西端、大瀬崎を飛び立ち大陸へ渡っていく。

青年だった仲間の建築家も、長崎の大学で建築を学び東京へ渡った。

彼と彼の奥さんは、長崎に、大瀬崎のある福江島に帰っていった。

大陸から東南方面へ向かったハチクマは、その幾羽が帰ってくるのだろうか。

ぼくらの「はるばる遠くそれでも仲間と一杯旅」は、ひと月遅らせて決行する。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?