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『カメラを止めるな』を見てオザケンを思い出す。

小沢健二さんの『Life』というアルバムに入っている「いちょう並木のセレナーデ」という曲があるんですけど、この曲のことを1995年の「月刊カドカワ」で山田太一さんが小沢さんと話しています。

この曲、スタジオ録音なんですが、冒頭で「観客の拍手」が入って、ずっと手拍子が続いています。歌詞の内容は「彼女といろいろあったけど、またヨリを戻したらどうなるだろう?彼女もそういう憂鬱も大丈夫っていったし」というような、恋愛ひとり語り。

「彼女とヨリを戻したらどうなる?」って考えている男を、拍手と手拍子を入れることで、対象化して、メタ的に眺める構造になっていて、恋愛を扱ってる歌なのに、ベタベタにならずに客体化している、って山田太一さんが言ってたんですね。手拍子を入れることで、女の子のことをあれこれ思っている男の子に思い入れするのではなく、それを眺める立場にリスナーを置こうとする、そういう意思を評価していました。

この『カメラを止めるな』っていう映画は、「気弱な演出家が、ワンカットの長尺ドラマを撮るという無理難題を克服することで、演出家として一皮むける」映画で、あわせて劇中劇の出演者やスタッフたちも、このプロジェクトを乗り越えることで成長するという、典型的な「成長譚」です。

でも、映画のなかで、劇中劇を2回見せることで、主人公の監督一人に感情移入するのではなく、観客をプロデューサー視点に置くことに成功して、劇中劇の出演者、スタッフ全員に目を注がせる構造になっています。

寺山修司さんが『田園に死す』で使ったラストシーン、東北の旧家のセットが倒れると、そこは1970年の新宿駅前だったというのがありますが、こういう、観客を誰かひとりに思い入れさせず、メタな視点に置こうとする作家というのは、没入させて感動させるのではなく、観客の知性を信頼して「神の視点」を提供し、楽しませることを意図していることが多いのかなと思います。

僕はこういうドライな関係を築こうとする作家のほうが、「俺の弱さを見てくれ」という私小説的な作家よりも好きです。上田監督もインタビューでこう言ってます。

映画を一切湿っぽくしたくなかったんです。泣ける場面みたいなのを絶対入れないぞと思っていて。結構「泣けた」とか「感動した」とか言ってくれる人がいっぱいいてビックリしているんですけど。感動はしてほしいと思っていたけど、笑いながら胸が熱くなる感じを目指していたので、エンディングも陽気でゴキゲンなナンバーにしたかったですね。

上田監督の次の映画も楽しみです。


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