病室で目覚めるように初春の洗ったばかりの布団のなかで/奥村鼓太郎「橘の花」(『夕星パフェ』第14号)

布団を洗う、というのはささやかだけど割合にインパクトのあるイベントだと思う。行為の手間、天気との兼ね合い、結果の豊かさ、それはささやかな大仕事という感じだ。
「洗ったばかり」の〈洗う〉という動作には、もちろん〈干す〉という動作も含まれていて、主体はふかふかの布団の中にいるのだろう。布団を干したのだから、春らしい暖かくて天気のよい日が想起される。寒い冬から暖かい春への季節の切り替わりと、布団を洗うという日常にある切り替わりが重なっていく。

昨日までとは明らかに違う、心地よい布団。ただ、主体がそこで連想するのは病室だ。3句目以降の幸福なイメージからは小さくズレる気がするのだけど、主体の病室の記憶(あるいはイメージ)と、今置かれている状況が唐突に繋がった感じがして、妙に印象に残る。

一首は、〈病室のイメージ〉→〈洗い立ての布団の中〉という構成をとるので、まずひんやりとした病室のイメージが立ち上がったあと、「ように」という直喩表現でひと呼吸置かれてからふかふかの布団に着地する。ひんやりとした硬質なイメージから暖かく柔軟にイメージへ3句目で転調する印象だ。「初春」を春の初めとして取ったが新年の含意もあり、祝祭感とともにイメージは鮮やかに切り替わる。

布団の中にいる状況が提示されるので、病室にいる夢を見ていたようにも感じられる。〈ふとん〉ではなく「布団」と漢字表記が選ばれていて、どこか上句のイメージが下句にもかすかに引きずられている。夢とうつつがほんのりと溶け合う。
結句の言いさしも、順接に読めば〈目覚めた〉となる気がするけど、それ以外の可能性も感じられる。「病室」「布団」という語がどこか〈死〉のように不穏なものを連れてくる。

一首においては、日常の中に存在する小さな段差が拾い上げられている。冠婚葬祭のようなハレに属する大きな段差ではなくて、ケの中にある小さな段差だ。
それだけであれば、きわめて短歌的なのだけど、上句の比喩や結句の言い差しによって、小さな段差が裂け目のようにも感じられる。連続した日常の中にある裂け目を覗くと、仄暗くて少し驚く。

一首を読みながら、季節の切り替わりは本来もっとハレに近い祝祭感を伴うものなのだろうなと思う。
春は盛りとなり、夏はいずれ訪れる。「ひさかたの天の香具山この夕べ霞たなびく春立つらしも」(人麿歌集)や「春過ぎて夏来たるらし白たへの衣ほしたり天の香具山」(持統天皇)といった古歌の伸びやかさはもはや得難いように思うのだけど、季節というのは相も変わらず不如意なものとしてそこに存在している。
そんなことを考えると妙に楽しい。

時として私信のように訪れる春の寒さを受け取っておく/奥村鼓太郎「Tense」/『京大短歌29号』

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