書き継ぎてゆくうちに詩が書かしむる一行がある  書きたし/上川涼子「底力」(『現代短歌』2024年1月号)

まず前提として、「詩が書かしむる一行」を自作の詩に書かさせられた経験が存在している。その上で、「詩が書かしむる」という経験の得難さやその瞬間の喜びが一首にはにじむ。詩歌に携わる人間にとっては、納得感のある感慨が読み込まれているように思う。

「書き継ぎてゆくうちに」という切り出しがまず秀逸だ。
掲出歌は50首連作のうちの一首として発表され、その連作中49首目に配されている。その中で掲出歌を読むので、〈書き継ぐ〉という複合動詞の持つ時間幅はまずはひとつの詩作に限定されるような印象を受ける。一連の詩を書いていて、自分から出てきたのか判然としない言葉がふっと出てきた瞬間のようなものを想像して、確かにそういう瞬間はあるよな、と思う。短歌に即して考えれば、連作を作っているときに前後の歌から導き出されるように悪くない歌ができる瞬間や、日常の自分の語彙にはないような言葉の連なりが短歌定型によって導き出された瞬間が想起される。その瞬間に「詩が書かしむる」と認識できることもあれば、幾分か時間が経ってからあれはなんかよかったなと思うこともある。

ただ、〈書き継ぐ〉という動詞はもう少し長い時間幅で捉えることもできる。例えば、短歌を作って来た年月を振り返ると、ぽつりぽつりと「詩が書かしむる」一首が存在するような気がしてくるというように。
詩人にとって、生きている時間は詩を紡ぐ時間でもあるだろう。ある意味では、「詩が書かしむる一行」に出会うために生きているとさえ言えるかも知れない。私自身、そこまでの矜持が持てるかは心許ないが、それでもその心持ちは理解できるような気がするのだ。

「しむる」は使役を表す助動詞「しむ」の連体形。〈書き継いでいくうちに詩が書かさせる一行がある〉ぐらいが直接的な現代語だけど、外形上は微差ではあるが、現代語の方はどこか舌足らずで他人事な印象が生じる。現代短歌では使用頻度があまり高くはないであろう助動詞「しむ」が、この一首においては不可欠な要素として機能しているように思う。

結句の字足らずは強い表現だ。2文字空けの後であらわれる「書きたし」の三音欠落からは、書くことへの強い希求が感じられる。この希求の強さによって、〈書き継ぐ〉の時間幅がグッと延びる。
書きたいのは「詩が書かしむる一行」か、それとも詩そのものか。おそらく、両方であろう。詩が書かしむる一行」を書くためには書き継ぐ必要がある。詩を書き継ぎ、「詩が書かしむる一行」に出会うこと。それは表裏一体であり、そのどちらも尊いものであろう。

たどりつくべき港などなきゆゑに鋏は紙をしづかにすすむ/上川涼子「茴香」現代短歌2023年1月号
火と紙と互ひに奪ひ合ひながらともに喪ふのちのしづもり
枯葉さへ赤子のごとく濡れてゐるこの世の雨に触れしのちには/上川涼子「波長 創刊号」

冒頭で、「詩が書かしむる一行」を書かさせられた経験が存在していると述べた。確かにその経験を前提として一首の希求があるように思うし、そのような例として、上川さんの歌を何首か思い浮かべることもできる。
ただ、それは既知の経験であると同時に未知のものなのかも知れないなとも思う。今まで経験した一行よりも、さらに洗練された一行を、さらに美しい一行を、さらに詩的純度の高い一行を、詩人は作りたいと思う。その一方で、すでに作った創作物を超えられないかも知れない恐怖とも絶えず戦わねばならない。

どんなことを考えても、結局のところ書き継ぐことしかできない。そして、書き継ぐための最大の燃料は、「書きたし」という強い希求なのかも知れないなと、この一首を読んで思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?