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宇宙飛行士と起業家

サラリーマンのとき、お金は空から降ってくるものでした。朝から定時まで働く。毎月決まった額が空から降ってくる。やったー今月も焼肉が食える。奥さんが食費をATMから引き出す。車のローンを払う。お金はなんのためにあるかといえば、自分や家族が「消費する」ためのものです。あればあるほど豊かな暮らしができる。老後を安心して過ごすことができる。そういうものです。「消費する」ために働くことに違和感を持つ人はほとんどいないでしょう。貯蓄するにしても、普通は「あとで消費する」ために少し残しておくということに過ぎません。ところが自分で事業をやってみると、自分のお金という感覚がなくなってきます。それと同時に、「消費する」以外にお金の使いみちがあることに気づきます。わたしが持っている千円札は、かつては神様がわたしに天下一品ラーメンを食べさせるために与えてくれたものでした。でも今はそうではありません。

先日、「火星の人」という小説を読みました。去年マット・デイモン主演で公開された映画をご覧になった方も多いと思いますがその原作となった本です。

主人公のワトニーは、アクシデントで火星にただひとり取り残され、次の有人火星探査機が到着するまでの四年間をなんとかして生き延びなければならなくなります。食料は全部かき集めても一年分しかありません。ワトニーは植物学者としての知識を活かし、知恵と工夫のかぎりをつくしてさまざまな窮地を乗り切っていきます。

基地には酸素も燃料もありますが、どのリソースも有限です。使い切ってしまえばただちに死を迎えるのみです。だからといって使わなければやはり死の危険が迫ります。実はこれは起業したばかりでまだ事業が軌道に乗っていない状況と似ています。会社が存命できるのは心もとない資本金を使い果たしてしまうまでのほんの僅かな時間だけだからです。かといってただ金を持っているだけでは何も生み出されません。創業したときに高らかに周囲に語ったプランが実現する日は永久にやってきません。そしてやがてあなたの会社は倒産してしまいます。

ワトニーがまず直面したのは、ジャガイモを育てるために大量の水が必要だという問題でした。もちろん飲むための水はいくらかの蓄えがあります。しかしワトニーはその命ともいえる水の大半を惜しげもなくジャガイモの土に捧げます。自分が「消費する」ための水を、「ジャガイモを育てる」という目的を達成するための道具として使ったのです。しかも飲料水だけでは足りないので、さらに生成した酸素と水素から水を化合してしまいます。もちろんこのときにも自分が暖を取ったり移動したりするための大切な燃料を投入します。こんなふうに、本来自分が消費するためのリソースを大きな目的のために使う行為には確か名前がついていて、おそらく「投資」と呼ぶのだと思います。ただ普通の人は余裕のあるリソースを投資にまわすのに対して、ワトニーやわたしたちは、頭がおかしいといわれるくらいほとんどすべてのリソースを投資にまわさなければいけません。天一でラーメンを食べるための1000円はグーグル広告の7.1クリックのために捧げられます(いつかグーグル広告の神様がクリックした誰かを遣わせてわたしたちを救ってくれますように!)。

さらにワトニーは、他の宇宙飛行士の排泄物だろうが放射性物質だろうが使えるものはなんでも使います。そうしないと明日自分が死ぬからです。わたしたちの道はさすがに火星ほどではありませんが、険しいことに間違いはありません。そういう意味でもこの本からは学ぶべき点がたくさんあります。今あるお金や時間などのリソースをただ消費する以外になにに使えるだろうと考えてみることは、今商売をしている人でなくても、役にたつことではないかと思います。単に株などに投資してお金が増えるかもしれないということではなくて、なにか自分が本当にやりたいことに一歩でも近づくことに投資できれば、いずれ好きなことをして暮らせる可能性が少しだけ高くなるからです。

最後に本の中からの一節を引用します。

「宇宙飛行士は本質的に頭がイカれているからな。そして実に気高い。どんなアイデアなんだね?」
「安全装備及び緊急時用装備を外します」
「すばらしい。つまり、さらに6人の命を危険にさらすということだな」
「連中はミッションを諦めるくらいなら、命を危険にさらすほうがましと考えるでしょう」
「宇宙飛行士だからな」
「宇宙飛行士ですからね」