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独裁者のルールを避けるために考えるべき3つのこと

最近、茶髪禁止の高校で地毛の色が明るい生徒を無理やり黒に染めさせていたということが問題になっていました。昔から、「風紀が乱れる」というもっともらしい理由で生徒の服装や行動を制限するのは普通に行われてきました。昔私が住んでいたところの中学は男子は丸坊主にしないといけないという校則があり、それを避けるためにわたしはわざわざ遠くの校区の中学に通っていました。

そもそもルールというものがなぜ存在するかというと、そこにいる人々を「統治」するためです。それはキングダムを読めばよくわかります。民族も文化も違う人たちを、ひとりの権力者が支配しようとすると必ずいざこざが起こります。だから秦の王様は法律に自分よりも強い力を持たせて統治しようと考え、法治国家が生まれました。ちなみにどうでもいいですがキングダムの原先生はわたしの大学のひとつ後輩でした。覚えておられたらご連絡いただけるとめちゃうれしいです。

統治するためにルールがつくられるというのは、校則や法律に限った話ではありません。会社にも規則があるでしょうし、住んでいる町内会やマンションにもゴミ出しなどのルールがあります。ルールというのは自分の行動を制限するものなので、そんなものができるのを嫌がってもよいものですが、感覚的にはどちらかというと、わたしのまわりでは歓迎される傾向があるように思います。うちのマンションでもときどき敷地内で自転車に乗るなとかどうでもいいルールが貼り出されています。自分の自由が制限されることよりも、他人の行動を制限できることのほうがメリットがあると考える人が一定数いるのでしょう。このようにルールを受け入れる人がいるからこそ、ルールは成り立ちます。特定のわずかな人にしかメリットがなくて多くの人が受け入れたがらないようなルールは普通は成り立ちません。歴史的に見ても、独裁者のつくったルールはやがて崩壊します。矛盾するようですが、ルールによって人々を統治するためには、彼らとって公平で納得感のあるものでなくてはいけないのです。

そんなルールづくりとか人事部でもないしおれには関係ないわーと思われるかもしれません。わたしはこの記事を、これから自分で新しいビジネスやプロジェクトを始めようとしている人に読んでもらいたいと思っています。あたらしいしくみをつくるということは、ルールをつくるということです。たとえばウェブサービスの利用規約もルールですし、エンジニアであればあなたのつくった仕様はまさにシステムがどのように動くかを定めたルールです。商品の価格をいくらかにするかも、お店の営業時間もルールといえるでしょう。サービスのルール(しくみ)がまずければ、お客さんはすぐに離れていってしまいます。では独裁者のルールをつくらないためにはどんなことに気をつければよいでしょうか。

完璧なルールはない

完璧に公平で全員に納得感のあるルールというものは存在しません。こちらを立てればあちらが立たないということはよくあります。ツイッターなどは利用者が想定しない使い方をしまくるので頻繁に利用規約の付け足しが繰り返されています。完璧なルールはありませんが、「正しい」ルールになるようアップデートすることはできます。ルールの正しさについて考えるとき、マイケル・サンデル教授の『これからの「正義」の話をしよう』に書かれてある話が参考になります。サンデル教授によると、論争の歴史を振り返ったときどんな問題についても3つの立場が存在してきたといいます。

合理性 - 幸せを最大化しよう!

ひとつめは「合理性」を追求しようという立場です。一般的には、少ないコストで、できるだけ多くのリターンが得られることが合理的とされます。携帯電話の会社が料金を割り引くかわりに2年縛りとかでユーザーを囲い込むのは合理的といえます。学校で黒髪や丸坊主を強制することは個人的には意味がわからないですが、クローズZEROみたいな生徒ばかりいる学校では教師の指導コストを減らすために合理的なルールだったのかもしれません。

自由 - 選択する自由が与えられるべき

ふたつめは、ルールによる恩恵をうけるかどうかは自由に選択させてほしいという立場です。例えばスマホで撮影された写真が自動的にクラウドにアップロードされるという機能はわたしには必要ないので、機能を有効にするかどうかは自由に選択させてほしいと考えます。黒髪強制の問題は、その学校に通う限り選択の自由はありませんし、転校も容易ではありません。ただ高校の場合、入学する学校を選ぶ自由はありますので、入試の前にこういう校則があります。外国人でも地毛が茶色でも容赦しませんが大丈夫ですかと確認すればよかったのではないかと思います。そんな学校を受験したい生徒はいなくなりますが。

美徳 - とはいえ「わびさび」も大事だよね

みっつめは、美徳・道徳を重んじようという立場です。被災地で物資がなく困っている人に高い値段で食べ物を売りつけるのは、利益の最大化という観点では合理的ですし、被災者にはそれを買わないという選択の自由もありますが、道徳的には疑問を感じそうです。外国人の生徒に黒髪を強制するようなルールの学校が本当にあるとしたら、道徳どころか完全に人権の侵害ですね。あといくら課金ユーザーを増やしたいからといって広告やポップアップがでまくる子ども向けのアプリとか、そういうものもわたしは美徳に欠けると感じます。よくある「歴史や伝統を守れ」という主張も美徳的な観点からくるものでしょう。

新しいルールをつくらないといけないという場面は意外と多いものです。そんなときに「合理的かどうか」「選択の自由があるか」「美徳に欠けていないか」という視点があることを覚えておくと、より公平で納得感のあるルールがつくれるのではないかと思います。なんとなくですが、「合理的」な意見への反論としてアメリカ人が「自由」を重んじるのに対して、日本では感情的な「美徳」を主張する傾向があるように感じます。これまで選択の自由というものが与えられてこなかったからかもしれません。ちなみにわたしは年金も健康保険も自由に選択できるようにするべきと思っています。

夫婦別姓やプレミアムフライデーの問題についておじさんと議論するときにも使えますね!