見出し画像

〈小説〉還る場所





胎動を初めて感じたのはお風呂の中だった。

本当に自分のお腹の中に人間がいるんだと、その時の私は思った。

産院でエコーを見ても、日々膨らんでいくお腹を撫でても、ちっとも実感がわかなかったのに、湯船の中に沈んだ大きなお腹の内側からポコンと蹴られた時、誰かがいる!と強烈に気付かされた。そして私はお風呂で泣いた。こんな素晴らしいことが世の中にあるのか、と。



娘が産まれ、桶のようなベビーバスを卒業し、初めて娘が湯船につかるとき、どちらが一緒に入るか夫と言い争った。結局これから一緒に入る回数が多いであろう私が夫に譲る形になり、危なっかしい手つきで娘を抱いた夫が湯船につかる様子を、私は笑いながらホームビテオに収めた。

娘はよく泣く赤ちゃんだった。一日中泣いているように感じる日もあった。けれどお風呂でだけは機嫌が良かった。少々ぐずっていても、両手で支え湯船にぷかりと浮かべてやると、うっとりと目を閉じた。そのまま寝てしまうこともあった。お腹の中に似ているのかな、と夫は言った。だから安心してしまうんだと。

娘はそのままお風呂が大好きな子に育った。気に入らないことがあって膨れっ面しているときも、一緒にお風呂に入り娘の好きな歌を歌ってやると、つられて一緒に歌い初めて、あがる頃には機嫌が良くなっていた。好きな子ができたと告白してくれたのもお風呂の中だった。

湯船につかると気持ちまでほぐれるのか娘は饒舌になり、楽しかったことや嫌だったことを沢山話してくれた。時には涙を流しながら「お母さん、あのね」と、悩みを打ち明けてくれたりもした。普段言えないような深い話も、湯船の中だと不思議と話すことができた。

最後に一緒に入ったのはいつだったのだろう。思い出しながら私は湯船にお湯を溜める。

いつの間にか娘は大人になり、春から就職して会社の寮になっているアパートでひとり暮しを始めた。

小さなユニットバスの自宅では湯船にお湯を溜めることがないからゆっくりお風呂に入りたい、湯船につかるのは何ヵ月ぶりだろうと、私が作った夕食を食べながら娘が言った。

新人研修が終わり、初めての出張に行くから必要な荷物を取りに来ると言って帰ってきた娘は、就職してから初めて今晩我が家に泊まって帰る。

娘を一番風呂に入れてやろうと溜めたお湯の温度は慎重に調節した。ゆっくり、気持ちよくつからせてやりたい。

夕食のあと、「お風呂頂きます」と他人行儀に娘が言い、笑いながら私と夫はそれに答えた。

娘が買ってきてくれた茶菓子を夫と食べるために熱いお茶を淹れる。

着替えとバスタオルを用意し脱衣所に置きに行くと、何か様子がおかしいと私は思う。

音をたてないようそっと風呂場に近づき、耳を澄ませる。

鼻をすする音。はぁー、というため息。こらえきれない微かな嗚咽。

泣いている。

娘は湯船に浸かり、しくしくと、静かに泣いていた。

手でお湯をすくい顔を濡らしているのか、時々お湯の滴る音が聴こえる。

「どうした」

夫が背後で言い、私は慌てて夫を止める。シッと唇にひとさし指をたて、夫とともに居間に戻る。

「なんでもないのよ」

何があったのだろう。新人研修で嫌な思いをしたのか、これから行く出張が不安なのか、それとも恋愛がうまくいっていないのか。心配でたまらない。

娘と一緒に湯船に浸かり、娘の好きな歌を歌い、大丈夫だよと髪を洗ってやりたい。

「なんでもないの」

私は自分に言い聞かせるように言い、娘がお風呂からあがっても平静を装った。

娘はもう泣いておらず、いつもの娘だった。

私は何も聞かないでおこうと決める。本当に困っていたら娘から話してくれるだろう。娘の中にたまっていた何かが、お風呂に流れてしまっていればいい。

そう願った。



翌朝娘を見送ると、「お父さん、お母さん、仲良くするんだよ」と一人前のことを言って娘は元気に笑って出発した。

持ちきれなかった娘の荷物をすぐにアパートに送ると約束する。

私はその荷物の中に一緒に入れるための食べ物を買いに行った。

娘が好きな日持ちのする食品を選んだあと、何気なく他の陳列棚を眺めていると懐かしい物が目に入る。娘と一緒にお風呂に入るとき、たまに入れてやると喜んだ、溶けると中から小さなマスコットが出てくる入浴剤。私はそれを買うことにしてカゴに入れる。子供だましだけど気晴らしになるだろう。それからバラの花びらのような形のバスソープ。そして発汗作用のある入浴剤。これだけ入っていれば、自分の家でもたまには湯船に浸かる気になるんじゃないかと思った。

家に戻り、ダンボールに荷物を詰め、ぎゅうぎゅうに収まった物たちに向かって娘に声をかけるように「頑張れ」と言う。

白い便箋に「泣きたくなったらお風呂につかりなさい」と書く。

荷物の一番上に便箋を置き、私は箱を閉める。

ガムテープを貼ろうとしていた手を止め、数秒悩んで箱を再び開ける。

便箋を取り出し、「どうしてもだめな時は帰っておいで」と書き足す。

泣きそうになったので慌てて便箋を荷物の上に乗せる。

蓋を閉め、ガムテープを貼って止める。

箱を撫で、深呼吸をする。

「よし」と一つ、私はうなずく。








サポートして頂けたらめっちゃがんばって小説書きます。よろしくお願いします!