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〈小説〉私を呼ぶ本

最寄りの駅が始発駅だと、通勤電車で毎朝必ず座席に座ることが出来るという利点がある。
一刻を争うほどの遅刻でもしていない限り、私は先発が混んでいれば次発に乗ってでも必ず座席に座る。読書を楽しむために。

最近読んでいるのは、古本屋で見つけた、古い海外小説。
今日も空いている次発を選んで、前から2両目の後方、三人掛けの座席の壁際に座った。
紙の本の良いところは、今小説のどの辺まで読み進んでいるか一目瞭然でわかること。
この文庫本は分厚いけれど、もうすでに数十ページを残すところまで読み終えている。
押し花をパウチした手作りのしおりを抜きとり、そっと左手の親指を差し込む。
少しお尻の位置をずらし、カバンを膝の上にバランスよく載せ、その上に肘をつくような格好で読む体制に入る。
先発の車両が発車するとリズミカルなメロディで知らされる。
ベルが鳴り、先発の電車が動きだした。それを見送って、私は本の世界に没頭する。
この物語は、サーカス団の元に生まれた女の子が主人公。
貧乏で、でもサーカスに命を掛ける夫婦に愛情深く育てられるのだけど、団員の中に夫婦を良く思っていない人がいて、それが原因である事件が起こり、父親が足を骨折してしまう。
玉乗りの名手だった父は、骨折のせいでバランスが取りにくい足になり、絶望し、人が変ったように問題を起こすようになる。
思春期に入り少女へと成長した主人公は、サーカス団という小さな世界に囚われている自分の生活を疑問に思い、外の世界へのあこがれが強くなった15歳の夏、とうとう家出してしまう。
団員の金庫から盗んできた少しのお金で船に乗り逃亡し、年齢を偽り酒場で働き、男性に酷い目に合わされ、それでもサーカス団には戻りたくないという気持ちが彼女をより強く成長させた。
私は、彼女とはまるで違う。
釣り好きの能天気な父と料理好きの過保護な母のもとで、悠々と暮らしている。
日々の小さないざこざはあるものの、その詳細は眠る時にはすっかり忘れてしまっているくらいの、くだらないことだ。
生ぬるくて優しい環境に甘んじている私は、体を張って自分の人生を生きようとする彼女とは、対極のところにいるのだ。
でもこの小説を読むと、彼女の身に起きた全てが、まるで自分が経験したかのように感じられた。
小さな世界から抜け出したい一心で団員の金を盗む時の、罪悪感と恐怖を想像して息が苦しくなった。
船に乗り、団のテントを遠くから眺めた時の、喜びと寂しさが入り混じった複雑な思いは一日中引きずってしまった。
私は彼女に共感し、応援し、励まされながら、一緒に成長しているような気がする。
いつのまにか、私の乗っていた電車は動き出していて一つ目の駅の名前がアナウンスされた。
物語の中の少女は、客の中で最も無口だった男性に恋をする。少女にとっての初めて恋。
男性も少女を好きだと知って、二人の想いは一気に加速する。
少女は女性になり、男性の子を身ごもる。
そして。
私は小説のラスト数ページを残して、本を閉じた。
終わってほしくないと痛切に思った。
最後に目に入った、自分の子を抱いた主人公の放つ台詞が、あまりにも心に響いて。
私は本を抱きしめた。
まだ読んでもいないラストを想像しただけで涙がこみ上げた。
本を胸に抱いたまま顔を上げると、みな窮屈そうに混んだ車両でバランスを取っていた。
ひどい混み具合で空気が薄いけれど、それでも私の気分は晴れ晴れとしていた。
希望を見つけたのだ。彼女は。
自分の人生を自分の手で掴み取り、そこに背を向けることだけが唯一心の支えだった彼女が、初めて自らサーカス団を求めた。
目の前で揺れるスーツ姿のサラリーマンたちが、主人公が立っている麦畑を埋め尽くす、黄金色の穂に見えた。
物語に浸る喜びを知ると、その物語が素晴らしければ素晴らしいほど、終わりを迎えるのが惜しくなる。
私は残り数ページを、読まずにカバンへ直した。
この楽しみを、取っておきたかった。
あと数ページあると思うと、仕事を頑張れそうな気がした。
会社のある駅に着き、黄金の穂をかきわけ、電車を降りる。
「私は自分を生み出した世界を、もう一度この目で見たいの。だからこそ、今があるから」
彼女の台詞を胸に。





混雑した車内で携帯電話を触っている人をよく見かけるが、ペースメーカーが入っている母を持つ私には殺人行為に見える。
車内で化粧をしている女性などは、見ているこちらの方が恥ずかしくなる。いずれも効率化が叫ばれる現代を象徴する行為なのだろう。
混んだ電車でぬるくじっとりとした吊皮を持つ。
電車が揺れるたび、紙相撲のような足取りで人が動き、後ろや横から押される。
乗っている時間が長いので、停車するごとに流れる人の波に逆らうよう、奥へ奥へ場所を変える。
車両の一番奥までたどり着き、誰も隣の車両から移動してこないだろうと、連結部の扉にもたれて一番端の吊皮を持った。
ふと見ると、正面に座っている女性が文庫本を読んでいる。
自分の手相を凝視するかのように、本に視線をぴったり這わせ、のめり込んでいるようだ。
私は、女性が読んでいる本が何であるのかが非常に気になり始めた。
ベージュの布製の可愛らしいブックカバーで表紙は見えない。ページの上にタイトルが書いてあるはずだと目を凝らすが、電車の揺れと女性が隠すように本を持つせいで盗み見ることが出来ない。
すると、女性は突然パタン、と本を閉じ顔を上げた。
私は驚き、視線を慌てて反らし、上部の広告を見ているふりをした。
だがそれきり、女性は遠くを見ていた。
人いきれでむっとしている車内で、その女性だけが別世界にいるような不思議な光景だった。ちらちらと視線を送っていたら、女性の目に涙が浮かんでいるのが見えた。
具合でも悪いのかと思い遠慮なく女性を見たが、彼女の眼中に私はまるで映らないようだった。
それからすぐ、女性は本をカバンに直し、次の駅で颯爽と降りて行った。彼女が降りる時だけ、海が裂けるように混雑した車内に隙間が出来た。それはそれは不思議な光景で、私はそのことが仕事中もずっと頭から離れなかったのだ。
だから私は、仕事を終えると本屋に立ち寄った。
大学時代は小説が好きで、よく自作の小説も書いたりした。だが働きだして家庭を持つと、そんな趣味があったことさえ忘れてしまっていた。
久しぶりに小説を読もうと思い立ったのは良いが、大型書店を選んだのがいけなかったのか、ずらりと並ぶ文庫本やハードカバーの表紙に、少し酔った。
この調子ではあまり長居もできまいと、電車でも読めるよう文庫本の、書店員おすすめと書かれている二冊を適当に取る。
それからレジを探していると、まるで私を呼ぶかのように、売り場の一角に光を感じた。
私は無意識にそちらへ向かい、何気なく置かれた外国の文庫本を手に取った。
ずいぶん古い。だが翻訳しているのは知っている作家だった。
数秒その本とにらめっこしていると、私の記憶が一気に蘇った。
モノクロだった脳内が、一瞬にして鮮やかに色づくような感覚だった。
そうだ、この本は、大学時代に付き合っていた彼女に勧められて、読んだことがある。
本の背表紙を見る。書かれているあらすじを読む。間違いなかった。
サーカス団の元に生まれた、不幸ばかりに見舞われる女性の物語だ。
大学の後輩だった彼女が、「すごく良いから絶対読んで」と貸してくれたのだが、当時の私はあまりにも若く、人の不幸ばかりが綴られる教訓めいた台詞が多いこの本を、どうしても面白いと思えなかった。
正直につまらなかったと言えば、彼女とは別れずにすんだかもしれない。
私は流し読みしただけの、まったく面白いと感じなかったこの本を絶賛した。彼女に嫌われたくなかったのだ。
彼女はその嘘を易々と見破り、私を嘘つき呼ばわりした。彼女を傷つけてしまったのだ。それからすぐ、若かった恋は簡単に破局を迎えた。
すでに手に持っていた二冊に加えて、思い出のその本も買うことにし、計三冊の会計をレジで済ませる。
今朝、電車で見かけた女性は、もしかしてこの本を読んでいたのだろうか。
いや、たぶんちがうだろう。こんな古い海外の本を、今の若い女性が読むはずがない。
……でも。
私と付き合っていたころの彼女は若かった。今日見かけた女性のように。
私はあれから年を取り、幾つかの苦労もしてきた。
教訓めいた台詞や、押し寄せる不幸を、今の自分なら飲み込む事が出来るのではないか。
あの時彼女が感じたこの本の素晴らしさを、味わえるかもしれない。
まるであの頃の自分に戻ったようだ。私の気持ちは高ぶった。
この本を読む時が待ち遠しく思える。
「今がとても愛しく思えるの」
それが、この本を読んだ彼女の感想だったから。









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