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世界の絶景 4.遺跡           その3 トルコの遺跡

ヨーロッパとアジアにまたがるトルコは古くから歴史の舞台となってきた。様々な民族や文化の繁栄と衰退を物語るように遺跡も変化に富んでいる。


1.イスタンブール歴史地域

 紀元前7世紀、ギリシャの植民地として誕生したこの町は、アケメネス朝ペルシャ、マケドニアのアレクサンドロス大王の支配を受けた後、2世紀末に古代ローマの領土となる。
 330年、ローマ帝国コンスタンティヌスⅠ世は、ビザンティウムと呼ばれていたこの都市に、「キリスト教による新都」として帝国の首都を遷し、ローマ式の都市計画に基づき、堅牢な城壁や宮殿、およそ5kmもある直線の大通りもつくられ、交易で潤ったこの新都は、もとの都を凌ぐ「新しいローマ」として発展を遂げる。
 395年、ローマ帝国は東西に分裂し、東ローマはビザンチン帝国となり、6世紀に黄金期を迎えた。
 人口は50万に達し、皇帝の熱い庇護を受けた学者や芸術家が盛んに活躍し、文化の一大中心地としての地位を確立した。その潮流は、かつてビザンティウムとよばれていた名にちなんでビザンチン文化といわれ帝国全土に広まった。
 15世紀になるとオスマン帝国の都となり、ギリシャ語で「町へ」を意味する「イスタンブール」と呼ばれるようになった。
 ローマ帝国、ビザンチン帝国、オスマン帝国という3代続いた大帝国の首都として繁栄した「イスタンブール」には、博物館、教会、宮殿、偉大なるモスク、バザールなど、訪れる人々を魅了する歴史的建造物が数多く残されている。

◆スルタンアフメト・モスク(ブルー・モスク)

 オスマン帝国の第14代スルタン・アフメト1世によって1609年から1616年の7年の歳月をかけて建造された。
 モスクには必ず「ミナレット」と呼ばれる細長い尖った塔が建ち、その本数や高さは権力の象徴といわれているが、このモスクには世界で唯一優美な6本のミナレットがある。
オスマン朝建築の代表的建造物であり世界一美しいモスクとして有名。
直径27.5mの大ドームをもち、内部は数万枚のイズニク製の青い装飾タイルやステンドグラスで彩られ、白地に青の色調の美しさからブルーモスクとも呼ばれる。

ブルーモスクの外観
ブルーモスクの内部

◆アヤソフィア大聖堂

 「神の知恵」を意味するアヤソフィア。
建物の大きさは、縦77m、横71mで、高さは大ドームが56mあり、ローマのサン・ピエトロ、ミラノのドゥオモ、ロンドンのセント・ポールに次いで世界で4番目の大きさを誇る。
 コンスタンティヌスⅠ世が理想とした「キリスト教による新都」の構想を受け継ぎ、しばしばビザンチン建築の最高傑作と評価される。その歴史と威容から、オスマン帝国の時代においても第一級の格式を誇るモスクとして利用された。

◆トプカプ宮殿

 15世紀中頃から19世紀中頃までオスマン帝国の君主が居住した宮殿。イスタンブール旧市街のある半島の先端部分、三方をボスポラス海峡とマルマラ海、金角湾に囲まれた丘に位置する。
 宮殿はよく保存修復され、現在は博物館として公開されていて、素晴らしい宝物を見ることができたが、残念ながら館内は全て撮影禁止だった。

◆地下宮殿

「地下宮殿」を意味するイェレバタン・サラユ という名前で呼ばれている大貯水池。東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌスによって建設された。
かつてここには柱廊によって囲まれた中庭を有するフォルム(古代ローマ都市の公共広場)のような空間があり、裁判や商業活動に利用されていたが、ユスティニアヌス帝はこれを解体し、最も南にあった柱廊の部分を掘り下げて、この貯水槽を設置した。

2.アンタルヤの遺跡

 遺跡の多いトルコの中でも、とくに遺跡の多いアンタルヤは、地中海に面する人口100万の都市である。
 紀元前188年にペルガモン王朝のアッタロス2世によって発見され、自分の名前にちなんでアッタリアと名付けられた。
  4世紀頃にはローマ人の植民地となり、その後はビザンチンとアラブ勢力との衝突の場となり街は衰退していった。
 しかし、年間300日も太陽の恵みを受けるこの地方は、日光浴や水泳、ウィンドサーフィン、水上スキー、セーリング、登山、洞窟探検などのスポーツ・リゾートとして人気を集め、今では年間に500万人もの観光客が訪れるトルコの一大リゾート地として発展した。
 アンタルヤ近郊にはペルゲ、アスペンドス、シデといったトルコを代表するギリシャ、ローマ時代の数々の遺跡が点在し、紀元前に繁栄したことを物語っている。
紀元前12世紀に、北アナトリアからギリシャ人による大規模の移動が起こり、多くの移民は現在のアンタルヤの東にある平野へと定住した。この地は「部族の地」を意味するパンフィリアと呼ばれるようになり、ぺルガ、シリヨン、アスペンドス、シデの4つの都市が発展するようになった。

◆街のシンボル「三つのアーチを持つ門」

 130年にハドリアヌス帝がアンタルヤのファセリスを訪れた際には、同帝をたたえて、コリント式円柱と美しく装飾された三つのアーチを持つ門が、町の城壁に作られた。この門に隣接する塔は、街のシンボルとなっている。
 

◆シデの遺跡

 トルコで最も有名な古代遺跡の一つに数えられるシデは、ザクロという意味の名前を持つ古代の港だった。
 紀元前5世紀頃に植民地が建設され、2~3世紀に商業都市、特に奴隷売買の街として栄えた。
 その後アラブ人や海賊達により街は破壊されたが、9世紀になりクレタ島からの移民者達により再建され、19世紀後半まで重要な都市のひとつとして栄えた。
 栄光ある歴史は永く忘れ去られていたが、神殿、劇場、大聖堂跡などが発掘され脚光を浴びた。
 いまこの街は古代遺跡と二つの砂浜をもつリゾートタウンとして、多くの観光客で賑わっている。
 列柱のあるアーチの上に建てられた劇場跡と、岬の先端にあるアポロン神殿を結ぶストリートには、海の見えるカフェやレストランがたくさんあり、細い通りに並んだ店では、皮製品や金細工などトルコの代表的な工芸品が売られている。

アーチの上に建てられた劇場跡

 アポロン神殿の建つ岬は、絶好の夕陽スポット(写真下)だが、残念ながら訪れた日は雲が厚く、1時間ねばってかろうじて撮ったのがこの写真。

アポロン神殿

◆ぺルゲ遺跡

 アンタルヤから約15キロのところに位置するペルゲは、アクロポリスの丘のふもとに野外劇場や競技場、浴場やアゴラ、列柱道路、教会、体育館などがひろがる典型的なギリシア植民地の都市遺跡だ。
 紀元前11世紀から8世紀にかけて、地中海を支配していた海賊から守るため海岸から20km内陸側にドーリア人によって造られたペルゲが最も栄えるのは紀元前2世紀のローマ帝国時代。

 劇場のステージには見事な彫刻を施した大理石のレリーフがあり、両側にそびえ立つ2つの塔で守られた美しい門、かつてはモザイクで舗装され、たくさんの店が並んでいた列柱のある長い道、広いアゴラ(集会場)、公衆浴場や体育館が栄華のあとを物語る。

レリーフ
円柱のレリーフとアゴラの門

◆アスペンドス遺跡

 紀元前10世紀、ギリシャ時代からの歴史をもつ都市アスペンドス。
 都市の遺跡は大部分が荒廃したままだが、ローマ時代に建造された野外円形劇場ほぼ完璧な状態で残っている
 イオニア様式やコリント様式で飾られた舞台の壁も当時のまま。楽屋や付属建造物なども現存しており、古代の劇場の雰囲気をしのばせてくれる。
最大1万5,000人程度を収容できたというこの劇場は、現在も使われていて、毎夏、アスペンドス国際オペラ・バレエ・フェスティバルが開催される。

1万5,000人収容の野外円形劇場

3.アフロディシアス遺跡

 アフロディシアスは紀元前4世紀アレキサンダー大王が東方遠征で通ったいわゆるアレクサンドロス古道沿いの町、そして、ローマ時代にはオリエントとヨーロッパを結ぶシルクロード沿道の町であった。
 往時は荷物を駱駝の背にいっぱい積んだキャラバンで賑わっていたことと思われる。
 エーゲ海の町エフェス(古代エフェソス)やイズミール(古代スミルナ)で商人は東方の珍品を売り、商売が終わるとこの町に逗留して疲れを癒し、再び東方への長途の旅へと出発したという。

 紀元前1世紀、ローマの将軍スラは、小アジアを征服した折、デルフィの神託に応え、アフロディーテに斧と金の冠を贈ったことから、この地をアフロディシアスと名付けたと言われている。
 のちにキリスト教が盛んになると、アフロディーテ神殿はキリスト教会となり、町の名もスタウロポリス(十字架の町)と改められ、十二世紀のセルジュークトルコの侵入により、アフロディシアスは急速に衰退していったという。
 ババ・ダーイ山の麓に位置しており、山の土が流れて遺跡をすっぽりと覆っていたため、紀元前1世紀から2世紀にかけて建造された劇場、オデオン、アフロディーテ神殿、競技場などが良好な保存状態で残っている。

野外劇場
アフロディーテ神殿
石壁のレリーフ

4.エフェソス遺跡

 エフェソス遺跡は、エーゲ海沿岸で最も大きい都市イズミールから更に南方へ70kmのセルチェク郊外に残されたローマ時代の都市遺跡群である。 
 列柱道路や大理石の全面舗装の大通りに代表される広く豪華な道路。
 当時の建築技術と芸術性の高さに賞賛を与えるべき建造物の一つと言える所蔵12万冊のセルシウス図書館。
 収容能力24,000席を誇る大野外劇場。市民のための施設である浴場や体育館、教会堂や音楽堂。
 複雑で精緻溢れる大理石装飾で満たされた数多くの大型建造物など、どれをとっても大規模で比較的良好な状態で保存され、その規模の大きさは、エーゲ海沿岸地方で最大級と言われている。

メインストリート
ナイキ(勝利の女神)
大野外劇場
セルシウス図書館

5.アクロポリスの丘・ペルガモン遺跡

 ペルガモン(現在名:べルガマ) は、紀元前282年から、およそ150年の間、エーゲ海岸地方で繁栄した王国である。
 ペルガモンは王国になる以前からアレキサンドロス大王やマケドニアの支配者の統治を受け、ヘレニズム文化を基盤に発展を続けた。その後、五代続いた王国はローマ帝国の自由都市としての立場となり、紀元3世紀頃まで繁栄を続けたが、ローマの弱体化とともに衰退した。

◆アクロポリスの丘

 べルガマの街の北方にある標高335mのアクロポリスの頂上付近にはトラヤヌス神殿と大劇場が残されている。
純白のコリント式列柱とアーチが印象的なトラヤヌス神殿は、ローマ皇帝ハドリアノスが前皇帝であったトラヤヌスのために紀元2世紀半ばに建造したものである

トラヤヌス神殿
丘の斜面を利用した野外劇場

◆アクスレピオン

 アクロポリスから川を隔てた対岸の丘の頂上にローマ時代のアクスレピオン遺跡がある。
 ここはギリシャ神話で医学の神と崇められた「アスクレピウス」に捧げられた当時の“医療センター”だ。
 暗示による精神療法と投薬とリハビリ、そして観劇によるリラックスなど、当時の最先端の医療技術を集積した総合病院として、多くの病人たちを癒したといわれている。

アスクレピオン神殿
心理療法がおこなわれた治療所に通じる地下道
リラックス療法のおこなわれた劇場

6.ヒエラポリスとパムッカレ

 「綿の城」を意味するパムッカレは、トルコ随一の温泉保養地として古代から親しまれてきた。
 この地には、かつて栄華を極めた都市ヒエラポリスがあった。
 紀元前二世紀頃、アナトリア北西部ニ栄えた古代王国ペルガモンの王エウメネス二世は、勢力を拡張するとともに国の守りを固める要塞都市を建設した。そのひとつが、王国の伝説上の始祖の妃ヒエラの名を冠したとされる町、ヒエラポリスだ。

◆ヒエラポリス遺跡

 ヒエラポリスの温泉は、炭酸カルシウムを含んでいる。ヒエラポリスの高所に湧き出た温泉水は広い急斜面を流れ落ちながら四方八方に炭酸カルシウムをばらまき、岩肌に白い結晶を付着させた。
 付着した白い結晶は長い年月を経て堆積し、崖のような台地の斜面に段々畑のように連なる約100個もの石灰棚を作りだした。
 その石灰棚の段丘上にはヒエラポリスの遺構が広がり、半円形のローマ劇場や凱旋門、浴場跡、共同墓地など、当時の栄華を偲ばせる。
その壮大で幻想的な光景は、1988年、ヒエラポリス-パムッカレとして世界遺産の複合遺産に登録された。

遺跡のローマ劇場
ヒエラポリス遺跡の夕景

◆パムッカレ

 昔は温泉として観光客も石灰棚に入ることができたが、近年の乱開発により水量が減少したため、今では日替わりで部分的に水が流されている。

石灰棚には観光用に毎日水が流される
枯れた石灰棚

7.トロイの考古遺跡

 トロイの遺跡はエーゲ海北部の、ダーダネルス海峡に面したヒサルルクの丘に在る。
 紀元前8世紀後半に古代ギリシアの詩人ホメロスによって書かれた長編叙事詩「イリアス」で語られている「トロイ戦争」の「木馬」で余りにも有名になった古代都市遺跡だ。
「トロイ戦争」とは、このトロイの地に栄えた都市国家・イリオスの王プリアモスの時代、イリオスとエーゲ海を隔てた宿命の敵であったギリシア連合軍(アカイア軍)との戦いを言う。
 トロイの遺跡は初期青銅器文明の紀元前3000年から、ローマ時代の初め(紀元前334年)まで、同じ場所で発展した都市遺跡だ。ダーダネルス海峡に面した地の利を生かし、エーゲ海や黒海の航路をおさえたトロイは、文明の交差点として長く繁栄をつづけ、地震や他民族の侵略のたびに新たな都市を築いた。人間はかつて町の在った跡を整地して、その上に新しい町を造る習性が有り、このトロイも第Ⅰ市~第Ⅸ市の9層からなっている。
 ホメロスが描いたトロイ戦争は第Ⅶ市(紀元前1275~1240年)」と言われているが、考古学的には、木馬どころかトロイ戦争(紀元前1200年頃)そのものが有ったのか、そして“トロイ人”とはどんな民族なのかも、いまだ解明されていない。
 トロイの実在を信じたシュリーマンは「トロイの財宝」に目が眩み、素人なので、闇雲に掘り進み、他の時代層を破壊してしまった。そして彼の手にした財宝は、エーゲ海交易の中心地として繁栄した「第Ⅱ市(紀元前2500~2200年)」時代の物で、その為に「第Ⅲ市」「第Ⅳ市」「第Ⅴ市」は崩され、その時代の出土品が極めて少なくなった。
 トロイの遺跡は、叙事詩「イーリアス」や映画「トロイのヘレン」等のイメージとはほど遠く、直径約600m程の小さな城塞で、それ程大きな物ではなく、しかも見所が石垣ばかりで、カメラマンにとっては極めて面白くない場所だった。

地層の展示場
敵が進入しにくいように工夫された城塞

◆トロイの木馬伝説

 トロイア戦争において、ギリシア勢の攻撃が手詰まりになってきたとき、オデュッセウスが木馬を作って人を潜ませ、それをイリオス市内に運び込ませることを提案した。

 トロイア戦争の始まる前、次の三つのことを果たされなければトロイア城が陥落することは無いという神託がギリシア勢に下された。
 ① ネオプトレモスの戦争への参加
 ② トロイアにあるアテナ像がトロイアの外に持ち出されること
 ③ トロイア城正門の鴨居が壊されること
 この時点でネオプトレモスは戦争に参加していた為、オデュッセウスとディオメデスがパラディオンを強奪し、巨大な木馬を製作して、トロイア勢がこれを城内に入れる際、自ら進んで門を破壊するよう仕向ける事にした。
 このため、大工の技に長けていたエペイオスが木馬の製作を指揮することになり、イデ山から木を切り出させ木馬を組み立てた。

 木馬が完成すると、ネオプトレモス、メネラオス、オデュッセウス、ディオメデス、ピロクテテス、小アイアスらが乗り込んだ。最後にエペイオスが乗り込んで扉を閉じ、木馬をイリオス市内に運び込ませた。
 残りのギリシア勢は寝泊りしていた小屋を焼き払い、船で近くのテネドス島に移動した。
 夜が明けると、ギリシア勢が消えうせ、後に木馬が残されていることに気づいたイリオス勢は、ギリシア勢が去って勝利がもたらされたと思い、木馬を引いて市内に運び込んだ。
 市を挙げて宴会を開き、全市民が酔いどれ眠りこけた。
 市民たちが寝静まった夜、木馬からオデュッセウスたちが出て計画どおり松明でテネドス島のギリシア勢に合図を送り、彼らを引き入れた。その後ギリシア勢はイリオス市内をあばれまわった。酔って眠りこけていたイリオス勢は反撃することができず、討たれてしまった。イリオス王プリアモスもネオプトレモスに殺され、ここにイリオスは滅亡した。

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