flow2018082801 理解と責任を横断する侵食の概念

・はじめに

 SNS上で行われている誰かの議論や意見表明を眺めることで、インスピレーションが刺激されることが多い反面、ある種の表現に対しては、自分でも過剰だと思うくらい傷ついてしまう。

 罵詈雑言はともかくとして、我ながら面白いなと思うのは、誰かが他の誰かの行動や考えについて「わからない」「理解できない」という結論で締めくくるのを見つけると、傷ついてしまうということだ。

 人間同士は究極的には(あるいはかなり早い段階においても)分かり合えないし、理解し得ない。ということを、日々感じていないわけではない。

 しかし、だからこそ理解しようとする。そこまで行かなくても、せめて将来的に理解できる可能性に対して開かれていてほしい。という願いがあって、それは結局、僕の「自分のことをわかってほしい」という欲望に基づいた浅ましい要求でもある。

 ただ、それだけでは何かが足りていないような気もしていたところ、今度は「責任」についての議論を見かけたことで、何かを掴みかけた気がした。

 それで昨日から色々と考えていることを、現時点で人に見せる形のテキストに落とし込んで、考えを整理したい。

・損切りとしての理解不能宣言

「私にはわからない」「全然理解できない」という結論が、理解しようと試みた結果のものであろうとなかろうと、これ以上は対象を理解しようとしない。という宣言であることは明らかである。

 それは言い換えると、これ以上はあなたへの(見込みのない)理解のために、コスト(時間と気力)を割きません。という宣言でもある。こういう一種の「損切り」は生きていくために必要不可欠で、そうでなければ際限なく他者にリソースを奪われ続ける人生になってしまう。

 しかし、そこまで切迫した問題や意見の食い違いでもないのに「損切り」するケースを散見する。特に話題にもなっていないのに(現実生活のほうで何かあったのかもしれないけれど)、突然自ら「こういう人は理解できない」と宣言するという行為は、いたずらに自分の知見を狭めることになるし、間違った相手を傷つける可能性が大きい。

 そこで私には理解できない、私とはまったく別の人間である、と対象を切り離すのではなくて「どうしてなのだろう?」と問いを投げかければ意外な答えが返ってくることもあるし、同じような「保留」であっても、対象について沈黙するという選択もできると思う。

 だがここで、そのように必要以上に「損切り」をする人たちのことを、僕が「理解できない」と断じてしまうと、彼らと同じ構造に取り込まれてしまう。

 それを回避するためにも、「どうして彼らは『理解できない』ということを、改めて宣言するのだろう」という問いを自分に投げかけていたところに、ちょうど「『自己責任』という言葉がどうして疎まれるのだろう?」という議論を読んで、この2つの問いに同一の仮説を立てることができそうな気がした。

「自分が侵食されることを防ぎたいから」ではないだろうか?

・定義と因果のズレ

 理解についてはいったん置いておいて、責任について考えていこう。

「自己責任」という言葉が否定的な意味で使われるのは、「責任」という言葉そのものが、厳密にそのものを指し示すことができないことに由来する…というか、もともと言葉自体が、対象を厳密に指し示すことなどできないものなので、ここでは厳密さが、言葉の中でも比較的乏しいという表現のほうが、ふさわしいかもしれない。

 物事の因果は一人の人間だけで完結するものではない。関わる人や物の影響を少なからず受けるし、当事者であるところの生物的個体でさえ、その身体的・精神的活動の根源は、まず外部から与えられたものである。

 そうした前提で「責任」という言葉は意味を成さないのではないか、というとこれは順序が逆で、もともと曖昧模糊としたものを、社会通念として無理矢理にでも定義することによって、利便を図るのが「責任」という言葉の役割だったのではないか。

 大昔には何となくだったところに、ちゃんと線を引いて、測量したり監視塔を立てたりして、その区別を明確にしたものが「国境線」や「県境」で、「責任」もそういった類の言葉として、必要に応じてその所在が、あらかじめ議論されて明文化されたりしている。

 しかし「自己責任」は違う。この言葉は明文上ではなく、個々人の意見として使われることが多い。つまり各々の都合にあった使い方ができてしまうのだ。

 国境線でも責任の所在でも、どこからどこまでかを勝手に言うことができてしまうなら、その線引きは発言者の利益を最大化するか、損ねないものにされようとするだろう。

 すると当事者を含め、人によってその「責任」の範囲が変わってしまい、結局「責任」という言葉が生まれる以前の曖昧な世界に近づいてしまう。

 さらにこれを当事者の観点で考えてみよう。ある事柄について、その人が自ら「ここまでが自分の責任だ」「ここまでは自分の責任ではない」と線引きしていたとする。

 それに対して立場を異にする相手や、事情を知らない第三者に「いや、お前の責任はもっとある」「いや、それは全て自分の責任だ(自分が悪い)」と言われたとしたら、その指摘が正しいかどうかの前に、多かれ少なかれ、自分の領域を侵犯されたような不快感を伴うのではないか。

 この不快感と、この不快感を回避しようとする心性が、「自己責任」という言葉を疎む理由だと思う。

 そして僕が言いたいのは、この不快感、つまり「侵食」の不快が、同様に「理解」についても生じるのではないかということである。

・相手との同質化を拒む

 家族でも知り合いでも、長い期間一緒にいると、お互いが似てくるということがある。そうでなくとも、相手が自分の意識を大きく占有する環境では、そこから影響を受けないようにするのは難しい。

 また、好きな者同士であればその傾向が強まるのは、相手に対して心が開かれているためだと思う。その一方で、強く憎んでいる相手に自分が似てきてしまうという現象もあるけれど、これも「相手が自分の意識を大きく占有する」という点では等しい。

 ミラーニューロンなどの働きなのか、ある人に対して意識を向け続けている人は、その人の性質を受け取ってしまう。それが望ましい相手なら良いけれど、そうでなければ、その「受け取り」は「侵食」となり、回避すべき「状態異常」と見なされる。

 それを回避する方法は一つ。「その相手のことを意識しない」ということである。これが先述の「損切り」の正体なのではなかろうか。

 自分が認めることができない人間や、その考え方というのは、自分がそのような人間になったり、同じように考えて行動することを、認めることができないということでもある。
 
 それなのに、意識するほどその相手の影響を受けてしまうのであれば、そのような相手は私とは違う。私には理解できない人間である。と切り捨てることによって、自分がその相手に「侵食」されることを防ぐことができる。

 そういった一種の防御が目的なのであれば、なにも直接的な利害関係がなくても、自分の精神衛生を保つためにそういった宣言をすることに有効性があると言えるだろう。「責任」の所在を明確にするように、自分と自分ではない(自分にしたくない)ものとの「線引き」を行うということだ。

・おわりに

 ということで、「理解不能という宣言は、その相手と同質化したくないという表明としてなされる」ということと「自己責任はもともと曖昧なものを勝手に線引きする時に使う言葉なので疎まれる」ということについて、考えを整理することができた。

 僕はもうこれだけで大満足なので、ここから先の「気にくわない他者に対して、どう(安全に)理解を示すことができるか」や「同質化しないまま、先鋭化による社会分断を回避するにはどうしたらいいか」というテーマについては、日を改めるか、ぜひ読んでくださった方の意見を聞きたい。

 といってもあなたが、私からの侵食を許可してくれるならの話だけれど。


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