自分たちであり、他者であるには flow2018090201

 職場に届く健康食品の定期便に毎回、会長の方のコラムが同封されているのを、今朝初めて読んだ。

「昔のように直接の付き合いがなくなって、SNSなどで済ませるような人間関係だけの若者の将来が心配だ。」と書いたあと、昨今の痛ましい事件の話題にふれて、「寛容な心で接する人間が育つ世の中になってほしい」と願う文章だった。

 文章の内容に思うところは色々あるけれど、今はそれよりも、ではどうして会長はその思いを、心配している若者に向けて発信(たとえば直接の付き合いを)することを選ばれないのだろう?ということに興味がある。

 というのは、僕ももはや若者ではなく、かといって年長者でもなく、どちらの人たちも自分にとって「他者」であると同時に、過去や未来という別の時間軸においては同質でありうるからだ。

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「他者」といえば年齢に限らず、異性や異国の人、立場も考えも異なる人たちをも含める。そして、その「他者」たちにとっては、僕もまた当然に「他者」である。

 厳密な意味では、同一の人間が自分の他にはいないので、全ての他の人は「他者」である(変な文章だ)。しかし、だからこそ同じものをもった「他者」のことを、同じものをもっていない「他者」と区別する。

 そのために、前者を仲間や同胞といった「自分たち」と呼び換えて、後者を敵や反対勢力、よそ者というような「他者」として扱う。

 ここでは「自」と「他」の境界線が引き直されている。すると元々個人が持っていた自他の区別よりも「自」が拡張されることになる。帰属意識への希求はそういったところにあるのかもしれない。

 それはさておき、相対的に「他者」は厄介だ。属性や利害関係を異にしていて、しかもコミュニケーションの前提がない相手などは「面倒くさい」し「何を考えているのか分からない」。場合によっては「自分たち」の脅威にもなりえる。

 同時に、そんな「他者」を理解しようとすることは、「他者」を理解しようとしていなかった自分からの変容でもある。

 それで変容してしまった自分が、はたして従来の「自分たち」の共栄圏にとどまることができるのかは、分からない(もちろん「自分たち」がその「他者」への無理解という「同じもの」を持っているということによって結びついていたのだとしたら、そこにとどまることはほぼ絶望的だろう)。

 人間は人「間」と呼ばれているように関係性の生き物であるから、このあたりは死活問題になる。できるだけ自分の環境を安全で豊かなものとして維持するために、「自分たち」の範囲を縮小させるようなことはできれば避けたい。

 それに「他者」への理解を示そうとすることは、かなり見込みのない賭けでもある。上記のようなリスクに加えて、他者に関わることには莫大なコストがかかる。間違いなく傷つくし、相手を傷つけることによってさらなる危険にさらされることもある。

 しかし完全にそれを避けていては、家庭をはじめ、最低限の「自分たち」を構成することができない。そこで一般的には、「家」や「学校」や「職場」という共通の場が、「そこにいる」という同質性を人々に与えて、とりあえずの「自分たち」であることを可能にする。

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 件の会長の方の文章には「グチばかり言ってすみません」とも添えてあり、語調もまったく良心的で、内容も一理あるので、それを責める気にはなれない。「本当にそうだよね」と共感できることができる手紙が届くことで、心が救われる人も大勢いると思う。

 だから皮肉でも批判でもなくて、「どうして直接の付き合いをしないのだろう」というのは純粋な疑問なのだけど、その答えは既に、僕がこうして日記にこんなことを書いていることの中にあるような気がしてきた。

 こういうことを疑問に思うなら、どうして僕はその会長に、以上のような内容のお手紙を提出しない(直接の付き合いをしない)のだろうか?

 宛先はサポートセンターでもなんでもいい。然るべき作法と礼節をわきまえれば、少なくとも会長の元で働いている人に自分の文章が届くはずだ(僕は若者ではないけれど…)。もしかしたらそういう読者からの手紙というのは、他にもたくさん送られているのかもしれない。

 それをしないのは何故だ?

 一つは、今ここで考えていることを、その会長に伝えたいのではない。ということがある。

 まず、僕は自分の意見を他人に押し付けて、その返答をせがむことをあまりしたくない。少なくともこんな長文で問いかけはしない。あるいはこうして日記という形をとるなどして、お返事不要の長文としたい。

 問いかける相手を限定したくもない。岡目八目じゃないけれど、議論の場ではその当事者より、端から眺めている人の心のうちに生まれるものが、実は重要なのではないかと思うし、個人情報保護に抵触しない限りは、自分の考えをできるだけ公開していたいという考えもある(そんな大したものじゃないですが…)。

 それを考えたら、会長の文章も同様に、そもそも若者や僕のような人間にあてたものではなかったのだと気がつく。

 同じ懸念や疑問を持っていると思われる、顧客という「自分たち」に向けて、それも印刷とはいえ手紙というかなり直接的な方法で発信しているものを、横から僕のような「他者」が覗き見て、好き勝手なことを言い出せばお門違いもいいとこだ。

 ちょっと申し訳ない気がしてきてしまった。

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 ただ、望むべくも無いことかもしれないけれど、会長の直接の顧客ではないにせよ、その文章を読む機会を得て、日本語とその内容をある程度理解できて、その結果心を動かされて、こうして長々と何かを言わずにはいられなくなった僕を、「他者」として、同時に大きな枠で「自分たち」に含めてもらうにはどうしたらいいだろうか。

 そのためには会長が言うような「寛容な心」が必要である気がする。しかし、人にそれを求めるのであれば、まず自分が寛容さを身につけなくてはいけないのは確かだろう。では、その「寛容さ」とはなんなのだろう?というところで、長くなりすぎたので今日の日記はここまで…


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