中間に立とうとしている flow2018111801

今年に入ってからは、ほとんど自分がやりたいと思ったことだけをやってきたので、ここにきて人のリアクションを考えた行動を急にし始めると、車酔いに近い状態になってしまう。

好きでやっていることならば、それができただけで良くて、せっかくできたものだからお裾分けしよう。という理屈で投稿するのが一番性に合っているものの、それでは生活の礎を作ることができなかった。

それでもっと多くの人に知られるようなものを、と方向転換してみると、今度は作っただけではダメで、その労力を大きく上回る成果が得られなければいけない。もちろん成果は労力と純粋な比例関係にない(労力以外の要素によっても決まる)ので、力を込めれば込めるほど、徒労感が増していく。なるほど自分のようなワナビが病むのはこういう理由かと分かった。

この費用対効果の低さが、僕が働いたり人前に出ることを拒んでいるのかもしれないとも思う。自発的ではない行動をすることと、他者の前に姿を晒すことについての心的コストが甚大なため、一般的な就労が異常なほど「割りに合わない」

だから相対的に、今やっているようなことの方が就労よりもコストは低い。しかし当然それによって対価が発生するわけではないし、そのくせ相対的には低いといっても、無視できない程度のコストである。

なぜ一般的な仕様に適合できないというだけで、ここまで生計を立てることについて難易度が高いのか!と不平を言いたくなってくる。社会とのマッチングという意味での「天才」か何かにならなくては生きていけないというのは極めてハードモードだ。

そしてその不適合性を押し殺して働いていた頃のことを思い出す。どこにいても場違いで、会話が成立せず、自分が何かを言うたびに場が冷める。頼まれたことが一切できず、生産性と資源を喰い潰し、後ろ暗いことを考えるだけで一日が終わる。

当時に比べれば今はまだ救いがあるけれど、少しでも自分以外の誰かに配慮する(社会をやる)と胸が苦しくなるのは、それがまた元の世界に戻らなければいけないことに繋がっているという直観があるためだろう。

それでも正解は自分の世界と社会との中間に立つことだと思う。一度自分の中に遁走して閉じこもってから、再び外に出て行こうとしているのだから、いきなりうまくいくはずがない。同時に、完全な外の世界に生きて行こうとしたならば、同じ過ちを繰り返すことになることも分かっている。

***

日曜日だと思っていた演奏の本番が、そういえば土曜日に変更になったのだということを指摘されて、昨日は慌てて楽器を持って隣町へ行った。

前回よりはミスが少なく、何とかなりそうだというところで、10年来の音楽仲間たちがどこで知ったのか現れた。

演奏後に話をしたら、外国に行っていた友達が戻ってきたらしく、翌日のセッションにも誘われたので、それを朗らかに断わった。
「自分は元気だし、みんなのことが嫌いなわけではない。しかしこれからもお誘いはバシバシ断る」
「だからむしろ沢山誘ってバランスを取ってほしい」

その代わりといっては何だけど、このnoteのアカウントを教えておいた。彼らがこの日記を読むこともあるだろう。ほとんど外に姿を表さないでいるけれど、こっちには毎日必ずいるので心配しないでいただきたい。

例えばこういうことが、自分の殻と外の世界の中間に立つことの試案につながっている。

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dechi

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