新年早々のノンアル呑べえ flow2018010201

昨日で年越しスケジュールは終わり。休日とはいえ今日から平常運転でやっていきたい。予定よりも滞っているものがあるので、進捗を実況してでも進めていかねばと思う。

また、今年唯一の新年会があるので、カフェインをとってでも用事は夕方までに終わらせること。調子は悪くないのでなんとかいける気はしているけれど、ちょっと油断するとすぐ何もできなくなったりするので困る。

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最近は特に、イラストやテキスト投稿の一つ一つが、自分の周りの世界を変化させているということを意識している。何かが作品されること、そして誰かの目にとまること、その影響というものは決して軽んじることができない。

そして作品における、いわゆる「ネット」と「リアル」には情報技術を経由するかどうかの違いしか無いのではないかと思う。何言ってんだ。触れたり匂いがしたり、リアルのほうが豊かな体験ができるだろうと反論されてしまうかもしれないし、それもある意味事実なのだけど、その情報量の差は「誰かの作品が誰かに届く」ということ自体を毀損するものではないというか…えっとその、つまり…

PCの画面上に表示された絵画や文章に、油絵の匂いや本の頁をめくる肌触りは当然ない。しかし、ある作品をたとえば「表示」している僕らは、同時にマウスを包む自分の掌や打鍵の音を感じ、喧騒や見慣れた部屋が寂しく広がっているのを感じ、自分がその作品によって何らかの影響を受けている事実を感じているわけで、それは意図的に編集され得ないというだけで、やはり「豊かな体験」なのではないか、みたいな、何と言えばいいか…うーん。

自分で言っておいて何だけど、やっぱり結局「リアル」に「ネット」は敵わないのだとしても、どちらの場合も作品鑑賞は作品鑑賞であるわけで、そこには鑑賞者の神経を高ぶらせたり、その精神を優しく傷つける(磨くとも言う)ものとの出会いが必ずある。ということは「表示」という形態が、その作品の地位を下げるということには必ずしもならないのではないか。

その証拠や手応えとして、最近の自分の小さな世界の変容がある。あるいはその変容を自覚できるようになってきたということかもしれない。

…いつのまにか作品の発信から受信についての話にすり替わってしまっているけれど、ともかくそういった相互関係の中で自己と他者がむにゃむにゃと変容し続けている様子というのは、端から見ると踊りのように見えるのではないか(「端」というものがあれば)。

もっと言えば、その「踊り」が現れるのは作品鑑賞の場ばかりではない。普段の生活にせよ、道すがらの会釈にせよ、自己と他者がありさえすれば、その境界線は火花放電のように、あるいは溶け合う絵具のように絶えず変化している。するとこれはもしかして、我々の存在が大気や余白みたいなものであって、代わりにそれらの境界線と「踊り」こそが、かえって何らかの実体なのではないか?

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急にこんなことを書き始めるのも、いくつかの作品の影響であるし、作品以外のものの影響でもある。外的な刺激というものはある種の酩酊に近いものをもたらすのだけど、僕の場合はいかんせん、そういうものに滅法弱いので、すぐにのぼせてうわ言めいたことをいったり、謎の踊りを踊ったりしてしまう。

その様子はもはや完全に「できあがっちゃってる」状態で、そうやって自分と自分でないものに泥酔し続けて生きていることが、あんまりお酒を飲みたくないと思う理由なのかもしれない。こんなベロンベロンの時にアルコールまで摂取したら大変だ。カフェインも本当は良くないのだろう。

それでもふわふわと愉快に過ごしてこれたのは本当に幸福なことだと思う。その有り難さを考えたら、人前でうまく話せなかったり、いい歳して急にオバケが怖くて寝れなくなったりするくらいは、別にどうってこともないのだ。気楽に、朗らかにやっていこう。

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dechi

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