自分用エビデンスとしての日記 flow2018112801

昨日はカフェインをあおりにあおってなんとか2点動画を作った。ドーピングで一時的になんとか出来るうちは、できるだけそれでやっていきたい。

前職の関係で公的扶助を受けるために必要な手続きや基準を知っているので、「半日起きてられない」「元気がない」「他人がムリ」だけではその対象にはならないと分かっている。もちろんそれは妥当な基準だし、自分もその程度で済んでいるのだから良いことなのだけど、どうしたらそのままで生活していけるのか、ということをほとんど手がかり無しで考えていくのは、ハードモードだなと思う。

毎日コーヒーばっかり飲んでいるとすぐ謎の虚脱状態になって全体の進捗がむしろマイナスになるということが分かっているので、一度作った価値がその後何度も再現される種類の活動、つまりブログや動画の投稿という暫定解に向かって、毎日数ミリずつ進んでいる。

ただ、その収益化も規模の経済を前提にしているというのが厳しい。自分が数多の人に受け入れられる図を想像できないし、その上「人様の時間をいただく」という種類の過当競争に参戦することにもなってしまう。

企業というのは、「自分に価値を見出してくれる数人に出会って、その人たちと相互扶助していく」ということを、遠回しにでも実現させるシステムだったのかもなと思う。家族・血族ほどは直接的ではなくて、先述のコンテンツ提供ほどは間接的ではない。

企業とコンテンツ提供の中間に委託・フリーランスがあるのだろうか。これを考えるには税や法律の絡みもあってか、一概に直線上に並べることが正しくないような気もするけれど、ここでは他者との距離感についてのみ考えこととする

本来は、家族・所属団体・委託(受託)先・コンテンツニーズ、というグラデーションを維持することが自然なことなのだろう。かく言う自分もそれぞれのグラデーションを持ってはいるので、今はどうやってそれらを持続可能な形に持っていくかということが問題で、そのためにできることに優先順位をつけてやっているつもりではある。

しかし将来が見えず勝算がない。自分がやっていることに意味があるのか(無いことはないにしても、その価値は自分の生活を持続可能にするに十分なものなのか)、自分にとっても社会にとっても、もっと良いやり方があったのではないか、そもそも、自分がやろうとしたことで上手くいったことが、今までに一度でもあったのだろうか。

ここまで極端なこと言い出すということは、分厚い悲観バイアスの存在を認めざるを得ない。そこで、それを抱えたまま具体的な作業を進めるために、作業そのものの快楽を求めること。作業に対する外からのリアクションに縋ること。できなかったことができるようになっていることを認めること。習慣化によって内省の影響を相対的に減らすこと。設備や工夫によって作業そのものの抵抗を減らすこと。こういうことが必要になってくる。

***

結局は何をしたかという、行動にのみ意義が生じるということ自体は救いでもあるのだけど、その行動の背景にあったものというのは時間が経てば、本人を含め誰にも分からなくなってしまう。

いつもの日記にいつもの調子でこうして駄文を書き続けているという事実が、「圧倒的成長」などで矯正湾曲されたりせず、また才能や能力を持たない人間のまま、なんとか持続可能な生活を目指している(目指していた)ということの、あくまで自分にとっての証拠になっている。

#日記
#エッセイ

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